goo

第二十番 鶴林寺 ~ 第二十一番 太龍寺


(鶴林寺本堂・大師堂)

5月12日、今日のコースは宿の「金子や」から、第二十番札所 霊鷲山 鶴林寺への登り3キロメートル、鶴林寺から第二十一番札所 舎心山 太龍寺までは一度那賀川まで下って登り返す6.7キロメートルの山道である。この区間は阿波の遍路ころがしといわれ、かつては、一に焼山(焼山寺)、二にお鶴(鶴林寺)、三に太龍(太龍寺)と呼び慣らされていた難所であった。


(水呑大師)

鶴林寺への3キロメートルの登りを1時間45分で登った。途中「水呑大師」という祠があった。そばに歌碑が一基立っていた。

   世の人に 永久に残せし 岩清水 大師の慈悲を 心して呑む

そこは鶴林寺への登りの中間地点にあって、岩からわずかな水が滴って、水場になっていた。


(あうんの鶴像)

尾根に登りついて、「霊鷲山」と大きな扁額の掛かった鶴林寺の山門があった。普通なら左右に仁王様のいるところに、それぞれに一羽の鶴の彫刻が安置されていた。その鶴も、右と左で「あ・うん」の像になっていて面白い。

縁起によれば、鶴林寺で修業中の弘法大師が、杉の枝に黄金の地蔵菩薩が降臨し、それを二羽の白鶴が翼をかざして護っているのを発見した。歓喜した大師はただちに地蔵菩薩を彫刻し、黄金像をその胎内に納めて本尊として安置した。それが寺名の鶴林寺の由来となった。だから、鶴は鶴林寺の守り神であった。山門で仁王の代わりをしているのも頷ける。


(鶴林寺三重塔)

右手石段の上に本堂と、三重塔がある。本堂前には狛犬のように二羽白鶴が向い合っている。三重塔は徳島県の四国霊場で唯一のものである。江戸時代の文政十年(1827)の建造という。大師堂は石段を登らないで進んだ先にあった。

納経所で「鶴の、鶴の」とバスツアーのお遍路さんたちが賑やかである。着ているものとは別に準備した白衣に、札所の印をもらおうとしているのだが、ここの印は飛ぶ鶴の姿を写していて珍しい。何枚もの白衣にポンポンと押している。

鶴林寺からの下りは、登りよりも急な遍路ころがしであった。那賀川の橋のたもとに自動販売機を見つけた。金子やのそばにあってお茶を購入したが、それ以来である。お遍路さんはここで必ず飲み物を調達することになるであろう。自分もお茶を購入した。

山紫水明の那賀川を渡って、若杉谷川に沿った道を長く歩いた。その最後に標高差340メートルの急な登りが待っていた。登りきった尾根上のベンチに、お遍路さんが一人昼寝をしていた。多分、野宿のお遍路さんで、昨夜寝られなかったのだろう。野宿の遍路も自由でよいかもしれない。


(太龍寺本堂・大師堂)

案内板によれば、太龍寺は古来より「西の高野」と呼ばれている。弘法大師24歳のときの著作「三教指帰(さんごうしいき)」に「十九歳の時、阿国太龍嶽に登り、虚空蔵求聞持の法を修し‥‥‥」とあり、境内より南西方向へ六百米の「南の舎心」が正に大師御修行の史跡である。青年時の大師の思想形成に多大な影響を及ぼしたという。


(太龍寺多宝塔)

太龍寺には多宝塔がある。案内板によると、江戸時代の文久元年(1861)に藩主蜂須賀斉裕侯により建立された。周りの樹木が邪魔をしてどうしても多宝塔の上手い写真が撮れない。ロウソク立てや線香立てを常に綺麗にしている係りの男性に、どこから撮ればいい写真になるだろうと聞いたが、木が大きくなって撮影ポイントがなかなかないようであった。

勤行を済ませ、初めは山道を、後は車道に合流して、今夜の宿の龍山荘まで3.8キロメートルの下りであった。午後2時には余力を残して宿に入った。風呂の沸くのを待たされている間に寝入ってしまった。2時間ほどして気の地の良い寝覚めに、風呂はまだかと聞いたところ、水源が壊れて水が来ないので直しに行っていて、今沸かしているから20分ほど待たれよという。何とものどかな話である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )