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サンマはどこで取れた?

(お城の見える料理屋)

18日午後3時から、Kソフト会社の経営計画発表会を掛川の料理屋「一馬」で行った。経営計画発表会の後、5時から部屋を変えて食事会になった。車で帰る人もいるので飲み会という名前にはしなかった。

料理の中盤でサンマの尾頭付きの塩焼きが出た。サンマの塩焼きは家庭でも出るが、どこかが違ってうまい。

食べながらサンマはどこから来ているかが話題になった。店員に「このサンマはどこで取れた?」と質問して、板場に聞きに行っている間に、Y氏が「サンマは黒潮にのって北から下って来る来る」という。「??」カツオを思い浮かべた。違うだろう、黒潮は南から来る。「そう、北から来るのは親潮だった。」

家に帰ってからネットで見たら、サンマは北太平洋に広く生息し、日本の近海では夏にオホーツク海に回遊してきて、秋になったら産卵のため寒流(親潮)に乗って、三陸沖、関東沖を通過し近畿、九州沖までに南下するという。主漁場は三陸沖、関東沖とされている。

O氏は「今は冷凍技術が発達しているから、今年のものかどうかわからない」と懐疑的であった。冷凍して解凍すると魚の細胞を傷めるため、焼くときに油や味ののった部分が流れてしまい、美味しさが失われる。その点が技術的に解決されれば、水揚げて、即冷凍して、何時何処で水揚げしたものと管理しておいて、リクエストをすれば希望のサンマを出してきて焼いてもらえる。年によって、水揚げの場所によって美味しさも値段も違うだろうし、サンマのビンテージ物が出来たりして、高いものは一尾何千円もするようになるかもしれない。「ねえさん、2000年の三陸沖で取れたのを一匹焼いてください」などと頼めたら楽しい。

板場に聞いたところ「取れた場所は北海道沖でした」との答えであった。今の時期、サンマはまだその辺りにいるんだ。
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15年前、縄文杉に会いに行った

(15年前の縄文杉)

14日の鹿児島への帰りの車の中、H氏に屋久島の縄文杉を見に行ったことがあるかと聞かれた。H氏は10月に仲間4人で縄文杉への旅を計画しているという。自分が先輩のSさんと縄文杉への旅に出かけたのは平成4年の9月のことである。H氏にその時の屋久島の旅の話をした。

その頃はまだ屋久島が世界遺産になっておらず、訪れる人も今ほど多くなかった。今と違って縄文杉の根元まで行けて、縄文杉に抱きつくことも出来た。荒川林道の終点からトロッコの軌道をたどって登るコースで、登りに5時間下りに3時間ほどと記憶していたが、戻ってから記録を見ると、正確には、登りに4時間20分、下りに3時間15分掛かっている。

縄文杉については次のように記録している。

山旅の最後を飾り縄文杉が忽然と現れた。縄文杉に逢いたくて屋久島へ来て、一時は時間的にここまで来るのは無理かと諦めかけて、しかし雨と足元の悪さにもめげずやっと辿りつけた。我々のそんな思いとは関係なく、縄文杉は7千年以上前からここに立っていた。我々の人生さえ縄文杉にとってはほんの刹那に過ぎないのである。木の肌に手を当て、耳をあて全身で木を感じてみる。 7200年の命、そのとてつもない長さに感動が沸き上がって来る。はるばるやって来て良かったと思う。早速根元近くに運んだ砂を撒いた。

  【縄文杉】根回り 43 m/胸高直径 5m/樹高 30 m/樹齢 7,200年

太くしっかりと立ち上がった様は、朴訥にしかも力強く、古墳時代の埴輪の武人のように見える。斜面の空間に木肌が輝いて見え、木が弱っているとの立て札が白々しく見えるほど、圧倒的な力を感じる。表の若々しさに比べ、裏側は苔蒸し寄生木に蝕まれて古色蒼然といった様で、対照的で面白い。


その時は裏側までぐるりと回って見れたが、今はどうなのだろう。裏側に回ると寿命があと50年と聞いた縄文杉の危うさが感じられた。寿命を縮めているのは登山客が根を踏み固めるからとして、離れた所から見るだけで、現在は根元までは行けなくなっているという。しかし、実際は昭和41年、縄文杉が一般に知られるようになり、森に隠されていた縄文杉の周りの木々が刈り払われ、白日の下に曝されるようになったときに、縄文杉の残りの寿命が決まったのだと思う。
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綾川渓谷の照葉樹林

(綾川渓谷の、天まで照葉樹林)

14日、宮崎県の高鍋から鹿児島に戻るのに、東九州自動車道の宮崎から西都の間が、大雨で地盤が弛み不通になっていた。どうせ一般道を通るなら、綾町に行きたいと同行のH氏に頼んだ。

なぜ「綾町」なのかというと、何年か前にテレビで放送された記憶があったからだ。照葉樹林はかつては九州山地全体を覆い、人々はその中で焼畑や山のめぐみにより生活を営んできた。しかし戦後の針葉樹の造林などで急速に面積を縮小してきた。綾町でも照葉樹林の伐採計画があったが、元町長のねばり強い反対で阻止。送電線の鉄塔さえ設置を拒んできた。その分、町の発展を阻害してきたことは否めないが、その結果、日本一の照葉樹林地帯が残された。今となっては町長の頑固さは見識であったと思う。その綾町の照葉樹林を一度見てみたいと思っていたからである。

スコールのような雨が断続する中、綾町に向かう。綾町役場から10kmほど入ったあたりに綾川渓谷がある。渓谷にかかる頃には雨も止んだ。日本で唯一照葉樹林が手付かずで残った谷間である。谷間の様相が変わった。これはすごい。対岸の山頂から谷川の水面近くまで埋め尽くす深緑の照葉樹林が圧倒されるような迫力であった。H氏は自分の感嘆の声に、見慣れた風景にこんなに感動する人を見るのは初めてだという。針葉樹が混じらないこれだけ純粋な照葉樹林の山を目のあたりにするのは今までにない経験である。日本広しといえどもそんなにお目にかかれる風景ではないと話す。そんなものですかねえ、と依然無感動なH氏。


(照葉大吊橋から渓流を見下ろす)

やがて頭上はるかに吊り橋が見えてきた。歩道吊橋としては世界一と自称する「綾の照葉(テルは)大吊橋」である。高いところは苦手だと話すが、せっかく来たのだからと300円の入園券を買ってきてくれた。長さ250m、幅1.2m、高さ142m、昭和59年に完成という。吊り橋を渡り始めて「これはすごい。一見の価値がある」と声を上げたのは、今度はH氏の方であった。自分は緊張から声も出ない。はるか下の谷川と見えかくれするアスファルト道路以外は、照葉樹に埋め尽くされている。視線を上げて、雨雲が広がる空との境まで、切れ目なく照葉樹が続いている。

時間の都合で中間まで行き、写真を取ってとっとと帰ってきたが、素晴らしいものを見てきた。時間があって雨の心配が無ければ、一周2km、40分の遊歩道を歩いてみたかった。
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ブログ文章の書き方

(庭のムクゲ)

「オリエンタル鹿児島」の朝、昨日送ってきてくれたH氏が1日同行して、車の運転もしてくれる。今日は大隅から宮崎の高鍋まで足を伸ばす。

車の中で昨日の夕方の話の続きになる。「ブログで毎日あれだけの文章をどうしてそんなに上手く書けるのか」といきなりストレートな質問である。「自分が上手いとは思わないが、文を書くことは練習したわけではない。書くのが上手くなるためには、いかにたくさん本を読むかにかかっていると思う。しゃべると同じように書くことは誰にでも出来るが、文章にするには推敲が必要で、そのときに読んできたことが役に立つ。読んでいると自分の文章の良し悪しが判断でき、直す部分が見えてくる」そんな風に話したと思う。

言われてみれば若いときから文章を書くことは嫌いではなかった。若い頃、文章が上手くなるためには、名文として知られる作家の作品を原稿用紙にひたすら書き写してみることだと何かで読んだ。さっそく川端康成の「雪国」でやってみた。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。‥‥‥」一枚も書き写したであろうか、これは自分に向かないと投げ出した。

高校を卒業して、離れ離れになった友人と二、三年、文通したことがある。新しく得た知識をひらけかし、相手の言葉尻をあげつらい、論理矛盾を論破し、お互いに対抗心むきだしの、一見いやみな文通であった。しかしお互いに競うように長々と書いた。その友人ももう亡くなって、今は懐かしさだけが残っているが、あれも文章を書く練習になったかもしれない。

「ブログの終りに一言感想のような言葉が入るのだが、あれは上手いですね。」そこに気付いてくれていますか。「数十人の人が毎日見てくれているとなると、ブログも工夫をしようという気持になる。読みやすいように、起承転結とはいかなくても文章の流れを考えて書いている。」答えになったかどうか。本当のところは、一種の照れであったり、言い過ぎた場合の言い訳であったり、文章の余韻であったり、まあ格好を付けているだけか。

「夢を見たと書いているが本当に見たのか」あれは本当のことである。山での合羽の必要性のことが書きたくて、夢を見たことにしたとの疑いであるが、このブログの書き方は連想ゲームだと心得ている。山での合羽の必要性のことは見た夢から連想した話である。まだブログを書くに創作するほどの境地には至っていない。
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花ホテル「オリエンタル鹿児島」周辺

(ホテルのそばの松林の公園)

夕方、ホテルまでH氏に車で送ってもらう。H氏は早い頃からの「かさぶた日録」の読者である。よく目を通してくれている証拠に、話題の選び方では「それもブログに書いてあった」と会話が続かなくなる。

まずは毎日続けていることに感心する。さらに休みの度によくあんなにあちこちで歩けると感心しきりである。「それも奥さんがよく付いて来てくれますね」「この歳になると何事も女房を巻き込むことだよ」とえらそうに話す。近頃はブログを続けるというのが共通の目的のようになっているからやりやすい。最近新しいターゲットにした「塔」も、女房もそんなに興味があったわけではなかったのに、回ってみるとそれぞれの塔に、それぞれの味があり、面白いということに気付かされたと話している。何よりも塔をテーマに選んだ本人が改めてその魅力にはまっている。

「花ホテル、オリエンタル鹿児島」から、食事をしがてら、夕方の散歩に出た。すぐそばに街の一郭に立派な松林が残った公園があった。樹齢が100年以上ありそうな松がまとまって残っている。もとは錦江湾に面した松林だったのだろう。海岸が埋め立てられて産業道路が出来、さらに沖へ埋め立てが進み、松林が内陸にとり残されて、その一部が公園として残っているのであろう。松食い虫にやられている松林が多い中、この公園の松は被害もなく大変元気であった。

広い産業道路の山側には道路に沿って谷山緑地公園が続いている。ヤシやソテツの南の植物が延々と植えられていた。産業道路沿いの、うどん茶屋「一徹庵」に入り一人で食事をした。時間が早くてほとんど客がいなかったが、カウンターで食事をしている間に3人、5人と次々に家族連れがやってきて奥へ案内されていく。後で聞くと何時行っても混み合っているうどん屋だという。

帰り道、空全体をおおう雲の中で、西の空の山の端にわずかに雲の隙間があって、夕陽が顔をのぞかせていた。明日は降水確率40~50%で、雨になるかもしれない。
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鹿児島で安倍首相退陣を知る

(鹿児島中央駅から見えた桜島)

今日から4泊5日の九州出張である。出来れば飛行機に乗りたくなくて、朝から電車に乗って、新幹線を乗り継いで、夕方、鹿児島中央駅に着いた。中央駅からビルの合間に桜島が半分ほど見える。まだ高い陽射しを受けて輝いている。

タクシーに乗って「今日は桜島がきれいだねえ」と運転手さんに話し掛けた。「南に熱帯低気圧があって、朝から天気が悪く、夕方から雨の予報だったんだが。それよりも今日は朝から大変な一日でした。」「何かあったの?」「えっ、知らないんですか、これですよ。」助手席から号外を取り出して見せた。

「安倍首相退陣」の大きな活字が目に飛び込んできた。新幹線に乗っていて電光ニュースで出たのだろうが、全く気付かなかった。運転手さんと感想を話し合った。政治が好きらしくてなかなか詳しかったが、誰も思うことは一緒である。

内閣改造を終え、国会が始まって、所信表明演説を終えたばかりである。野党の代表質問が始まろうとしているときに、何で退陣なのか意味が判らない。参院選で敗北したときに責任を取って止めるなら解りやすいし、筋が通っていた。退陣せざるをえないだろうと自分も思っていた。民主党の小沢代表が党首会談に応じてくれなかったというのが直接の原因のようなことを言う。それじゃあ、いじめにあって登校拒否しているようなものではないか。

ホテルに着いてテレビを見ていると、与謝野官房長官が安倍首相は最近は食事も喉を通らないような状況だったと話す。首相は言わなかったが、ストレスによる障害といった健康上の理由が頑張る意欲を奪ってしまった、というのが本当のところだったのだろう。

今まで退陣すべきだと言って、問責決議案も出す勢いであった野党の党首たちが、退陣するのは無責任だと発言していた。自分たちの言ってることに矛盾を感じることは無いのだろうか。

テレビを消したら、小さくスズムシが鳴く声が聞こえた。どこにいるのだろうと窓を開けると、空調が発する低音の向うでかなり大きく鳴いていた。
(誰か飼っているのかと、翌日フロントに聞いたが、知らないという。小さな植え込みの中にでもいるのであろうか。「風流なホテルですね」と誉めておいた。)
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O医院の大先生、若先生

(庭のサルビア)

今朝は明け方から雷が鳴りまくって、激しい雷雨になって涼しくなった。出勤を遅らせてO医院に行った。雨は止んだがまだ遠雷が聞こえていた。O医院は会社の嘱託医だった関係で、自分の中では主治医のように思って時々行く。今朝も血液等の検査の結果を聞きに行った。O医院は大先生と若先生の親子でやっている。昔は大先生一人だったが、息子が帰ってきて二人になった。大先生は80歳代の半ば、息子はまだ50歳前後。大先生が若い頃は町の医者の中で稼ぎ頭だった。

寄る年波に身体を壊したこともあり、口の悪いベテラン看護師(婦)に「大先生でも血圧ぐらい測れますよ」と言われてしまった。その看護師も事務員も、定年等で総替えになった。自分はどうやら大先生の担当になっている。最近は若先生の方針で診察もしっかりされるようになった。

順番を待っていると、診察室から声が漏れ聞こえてくる。大先生「大丈夫、どこも悪く無い。心配すること無いよ。少し様子を見ましょう。はい終わり。」よぼよぼのおばあさんが息子夫婦に連れられて出てきた。若先生「町でレントゲンを受けているなら、続けて受けて下さい。」「2年ほど受けていないもんで、町からも案内が来なくなった。ここで受けれませんか。」「うちでも出来ないことはないが、前のレントゲンと陰がどう変わったか、継続比較する必要があるから、そちらで受けるようにして下さい。結果が出ればうちでも診察します。」納得しない様子で、中年のおばさんが出てきた。

自分の順番が来て大先生に呼ばれた。検査結果はすべて許容範囲であった。「問題ないねえ。じゃあ、血圧を測って見ましょう。」110-90「おかしいなあ、下が高い。もう一度計ってみましょう。ゆっくり深呼吸を3回して」90-70「やけに低いなあ。まあいいか。問題無いでしょう。」血圧も測れなくなったわけでもあるまい。

帰り道でどっちの先生の方がいいかなあと考えてしまった。まあ、シビアな状態でなければ自分は大先生だと思った。
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追悼、焼津加茂神社のモチノキ

(倒れたモチノキ)


夏に故郷に帰ったとき、兄が「会って行くかね」という。親子以上に歳の違う本家の従兄弟が90歳をはるかに越え、近頃逆縁が続き、元気を失っているという。電話をしてみてもらったが、後を継いでいる孫に連れてもらって外出しているといい、また会う機会もあるだろうと故郷を後にした。

6日から7日未明の台風9号の強風で、焼津市八楠の加茂神社で、古木のモチノキが倒れた。新聞に載っていると女房が寄越した。記事は見たが焼津だとは知らなかった。日曜日の午後、昨夜旅行から帰ったばかりの女房は誘わず、一人で出かけた。

加茂神社は焼津東名インターから東へ数百メートル、東名の南側にあった。神社の森には古木、大木がたくさん有り、モチノキは神社本殿右手に倒れていた。太い枝が本殿の軒の一部に懸かって壊していた。

樹高20メートル、幹周囲約2.6メートルで、境内の樹木の中で唯一、焼津市の保存樹に指定されていた。モチノキはそれほど太くなる樹種ではないから、その位の太さでも三百年以上の樹齢があるかもしれない。

地上に曝された根をみると、モチノキを立てていた太い根が引き千切ったように切断されていた。横たわった幹は、モチノキ特有の滑らかな肌で、かなり昔の相合傘の落書きや、たくさんの傷を幹に残してはいるが、叩くとペタペタと内部の充実を示すような音がする。しかし、幹の下側には全面に及ぶほどの傷みが広がっていた。幹は倒れたときに出来たものか、捩れるような縦方向のひび割れが走っていた。

表面的にはまだまだ若い木のように見えながら、内部は自分の重量を支えるのに悲鳴を上げていたようだ。森の中でモチノキに特別強風が当たったわけでもないから、今回の台風はきっかけだったのだろう。


(モチノキのひこばえの葉)

枝先の葉はもう萎れていたが、根元から生えたひこばえは青々と緑を保っていた。出来ればそのひこばえを育てて、モチノキのあった地に植え直して欲しいと思った。巨体を横たえたモチノキもそれを望んでいるような気がする。写真を撮っている中に、二タ組4人の見学者があった。いずれも新聞で見て来たようであった。

このモチノキ、巨木に仲間入りしていなかったので、今日がはじめての出会いだった。元気なときに見て置きたかったと思った。それと同時に、夏の帰郷で会えなかった老いた従兄弟のことが頭をかすめた。
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「天国と地獄」のあいまいな記憶

(リメークテレビドラマ「天国と地獄」)

8日の夜、黒沢明監督の「天国と地獄」のリメイクテレビドラマを見た。「天国と地獄」は何時どこの映画館だったか記憶に無いが、昔劇場で観た。当時はまだ白黒映画だった。ただし、現金輸送用のカバンが燃やされたとき、仕込んであった薬品が赤いけむりを出す部分だけ色が付いた。犯人との緊迫したやり取りや犯人を追いつめて行くドラマチックな展開に、当時はらはらどきどきだったと記憶している。

テレビで舞台が小樽になっていた。映画では確か東京か横浜辺りが舞台だと思っていた。「天国」の屋敷はあんな風だった。誘拐で息子と取り違え、運転手の息子を誘拐してしまったのもテレビを観て思い出した。

セリフも昔通りかどうかどうかわからないか、自分の子でもない誘拐に私財を捨てる決心をした権藤に、捜査課長が「権藤さんのために犬になってかぎまわれ」と刑事たちを激励する所はうるうると来た。

現金の受け渡しをする電車は新幹線だと思っていたが、テレビでは在来の特急列車だった。記憶があいまいである。カバンを落とすには新幹線ではスピードが速すぎて難しいかったかもしれない。共犯者夫婦が麻薬中毒だったとか、犯人が病院のインターンだったのも、記憶からとんでいた。

結局ほとんど忘れている。よく覚えていたのはパートカラーになった赤い煙だけであった。ただ緊迫した雰囲気は今でも記憶に残っている。自分の中ではじめてのサスペンス映画だったから。

テレビドラマの後半に、小樽の町で長々と繰り広げられた尾行劇は、あまりのも大人数で、笑ってしまった。まるで「はじめてのお使い」の撮影みたいだった。これで尾行に気付かないとしたら、犯人は余程のぼんやりである。それでなくても麻薬を調達し、共犯者に届けるという、尾行を最も気にしなければならないシチュエーションである。この辺りはやはりテレビドラマだと思った。

一つ面白く見たのは、犯人からの誘拐の電話があり、自分の息子ではなく運転手の息子だったことが判り、それでも身代金を要求されたときの、心理描写の表現テクニックであった。両親と息子と運転手と刑事たちを一つの画面で捕らえず、アップした二つの画面を重ねて、それぞれの心理を表現した所は面白いと思った。
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スイカ半分独り占めの夢

(小玉のスイカ半分、スプーンですくって食べる)

台風9号が去った昨日の朝、女房はかねてから計画していた、同級生との長野への1泊2日のバス旅行に出かけた。実施が危ぶまれていたが、危険は去ったようだ。出かける前に、冷蔵庫に当家の裏の畑で収穫した小玉スイカが入っているからと言い置いていった。

そのスイカを出して二つに割った。小さなスイカだから細かく切らずに、半分のままスプーンですくって食べることにした。

50年前、小学校低学年の頃、スイカと言えば大玉のスイカしかなかった。冷蔵庫もない時代、幸い故郷の町の水道設備は整っていて、取水も温んだ川の水ではなく、地下水が噴出した沢の水で、夏でも冷たかった。その水を大きな水瓶に溜めた中に、スイカを入れて冷してあった。切ってしまえば、その場で食べ尽くしてしまわねば、途中で保存が出来ない。父母と男3人兄弟の顔が揃うとスイカが切られる。

スイカは真っ二つに切るだけである。半分の一方に父と長兄、もう一方に母と次兄と自分がスプーンを持ってスタンバイする。そしてヨーイドンで競って、スプーンで掬い取って食べるのが、故郷での流儀であった。当時のスイカは真ん中こそ甘いけれど、まわりの白い部分が厚くて甘くない。甘くなくなったら砂糖がふられる。わずかに残った赤い部分を残すことなくすくって食べた。残った部分は裏で飼っていたニワトリにつつかせて無駄がない。

当時は、何とか3人の組では無くて2人の組に入りたい、出来たら半分のスイカを独り占めにしてみたいというのが夢であった。

故郷を離れると、スイカは細かく切って食べるものであった。砂糖ではなくて塩を掛けて食べるものでもあった。しかし50年経った今でも、スイカは半分に切っただけで、スプーンで、出来たら競って食べるのが贅沢だと思う。


(スイカ半分完食)

今朝は小玉スイカ半分をスプーンですくって完食した。現代のスイカは白い部分がほんのわずかで、皮の近くまで甘い。
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