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遠州高天神記 巻の壱 9 今川氏真公御退去の事

(掛川城、掛川天王山はこの山のこと)

夕方入ったニュース。青色発光ダイオードの開発により、赤崎勇名城大教授、天野浩名古屋大教授、中村修二米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授の日本人3人が、ノーベル物理学賞を受賞した。文字通り、久々に明るいニュースである。

   今川氏真公御退去の事
一 家康公、掛川表へ御出馬まし/\て、方々山々砦に成さる処、御見立て向い城を取らせ給う。懸川の南、曽我山に砦を取立て、小笠原与八郎を篭め給う。その南に当て、小笠山に要害を御取り、御本陣に成され、これより掛川を目下に御覧有りて、諸方に御手遣いを命ぜられ、日々に戦い、せり合い有り。

別して、正月廿三日と三月廿三日、大合戦有り。両方に手負い、死人多くこれ有る末世となり。掛川天王山逼り合いとは両度の合戦の事なり。大久保兄弟の働き、吉見孫八郎、本多左馬、鑓(やり)合わせ、その外にも高名の者多し。

今川家叶いがたく相見えたり。依って家康公御情け深き故、色々御念頃なる使い有りて、和を入れ給う。今川家へ御親しみ深きに付、攻め殺すに成らるべくも、忍びがたく思し召し、扱いに命ぜられ、同国掛塚湊より、大船二十艘にて、相州小田原まで送り届けさせ給う。
※ 扱い(あつかい)- 紛争・訴訟などの仲裁をすること。また、その調停者。仲裁。調停。

何時成るとも、小田原の合力を以って、駿河を御取り返しあらば、遠州は相違なく進ずるべし。それまでは、家康預り、支配仕るべし。さなき時は、皆甲州へ取られ申すべしとの御断り、和談調い、掛川の城は浜松へ請け取り、石川日向守を籠め置かせ給い、御馬浜松へ入るなり。
※ 石川日向守 - 石川家成。戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川氏の家臣。石川数正の叔父。美濃大垣藩2代藩主。

永録十二年(1569)己巳(つちのとみ)五月、掛川落城、氏真公欠塚より、その月中に小田原へ退き給う。同年、馬伏塚の城に大須賀五郎左衛門康高を籠め置き給う。高天神の城は小笠原与八郎城主なり。今川家より当国住居の小身の諸士、皆この両城へ組附きに仰せ付けられ、篭城なり。武田、駿河より遠州へ攻め入る時に押えなれば、大事に思し召し、別して高天神に老功の者を多く籠め置き給うなり。

その時、御本陣に成されたる所を、今に至り、小笠御殿と云う。険岨にして水木の便有りて、能き要害の城地なり。この所に前代、熊野権現の社地あるなり。

馬伏塚の城地は、今田地と成り、高五拾石余の村となり。岡山村と云う。これまで城東郡なり。山名郡と山名庄と浅羽庄と城東郡の境なり。

馬伏塚の城の大手、西脇に付いて、今川家時代より松下助左衛門と云う士(さむらい)屋敷有り。今は田地と成る。その所を松下村と云う。高弐百四拾三石一斗弐升目有り。代々松下殿屋敷分なり。この助左衛門殿、高天神篭城して後、また横砂の城主、大須賀五郎左衛門殿組付に成り、横須賀に居住し、その後、紀伊国へ御引越しと云う。
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