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石川数正という武将 - 駿遠の考古学と歴史

(しゃべる蛍光灯)

台所の天井の蛍光灯が、この頃、突然にしゃべった。「蛍光灯の光量が落ちています。お取替えをお勧めします。」最初に聞いたときは家族で何事かとびっくりした。洗濯機や冷蔵庫などしゃべる電化製品は増えたけれども、この蛍光灯は何年もしゃべる能力を隠していて、いきなりしゃべりだしたのである。

見たところ暗くなったとは全く感じない。もっとも、暗くなったと感じない前に指摘するからしゃべる意味があるので、蛍光灯の早期交換を促進するには効果があるけれども、蛍光灯が駄目になったら言われなくても分かるから、開発者はグッドアイディアだと考えたに違いないけれども、消費者にとっては全く無駄な機能である。暗くなったと感じるまで蛍光灯を換える気はないから、大きな御世話である。どういうタイミングでしゃべるのか分からないけれども、以後再三その声を聞く。おそらく蛍光灯を換えるまで続くのであろう。便利というのは、我慢の裏返しのようだ。

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「駿遠の考古学と歴史」の講義の中で、度々石川数正という名前が出てきた。石川数正が出る場面を以下へ抜き出してみる。

1549年、家康が今川氏の人質となって8歳で駿府へ行くとき、石川数正が随行している。
1561年、桶狭間の戦い後、信長と今川軍の先発隊であった家康の講和を斡旋したのは石川数正であった。
1562年、家康が鵜殿長持を攻め、子氏長・氏次を捕虜にし、石川数正が駿府へ出向き、築山殿母子3人の人質と、人質・捕虜の交換を果した。
1580年、家康の長男信康切腹後、石川数正がその霊を菅生八幡に合祀し、若宮と称した。
1582年、本能寺の変後、石川数正は本田正信らと、家康に従って伊賀越えをし、岡崎城へ逃げ帰る。
1583年、明智光秀を倒した秀吉が賎ヶ岳の戦いで柴田勝家を倒した後、家康の使者として、近江坂本城の秀吉に戦勝を賀した。
1584年、秀吉と家康・信雄(信長の後継)とが戦った小牧長久手の戦いでは、石川数正は小牧山の本陣を守った。
1584年、秀吉と家康の講和する中で、家康次男秀康が秀吉の養子となったとき、石川数正の子、康長・康勝が随行する。
1585年、岡崎城代石川数正が秀吉の許へ走った。
1590年、石川数正、信濃松本藩の初代藩主となる。
1593年、石川数正死去。享年61歳。

石川数正は家康より8歳年上で、家康の側近中の側近として、戦国の群雄の中で翻弄される若い時代の家康と常に行動を共にしてきた。軍事面においても、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、多くの合戦で武功を挙げた。しかし、石川数正の活躍は、諸侯との交渉、特に秀吉との交渉において顕著であった。それゆえ、家康の懐刀と呼ばれた。

秀吉の許へ走った理由は諸説があってはっきりしないけれども、交渉相手であった秀吉にその外交手腕が認められていたことは確かであろう。

石川数正は石川伯耆守であったので、秀吉の許へ走った際に、次のような落書があったという。

 「徳川の家につたはる故はゝき(古箒) 落ちてのちは木の下をはく」
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