華麗なるフランス競馬  -ロンシャン競馬栄光の日ー

2011-08-29 14:56:39 | 日記
大串久美子著  駿河台出版社刊

競馬の本である。前回挫折した専門書ではなく(私が不案内なことが原因なのだが)、ヨーロッパ、特にフランスとイギリスの競馬の発展史。そして、競馬をフィルターにしてみた17世紀から今日までの仏英関係史とも言える。
本書を読んで次の三点がわかった。
第一点。競馬は王侯貴族とブルジョワが創ったものだという点。つまり、馬主になること、レースに参加し、庶民には手が届かないくらいの賭金を払える階層によって発展してきたということ。そして、それがステイタスであったこと。本書はタイトルでも分かるようにフランス競馬を重点的に扱っているが、マリー・アントワネットを初めとして、様々なエピソードが語られていて面白い。
第二点。そもそも馬に対するイギリスとフランスの認識の違いだ。ヨーロッパ大陸にある農業国であるフランスでは、「馬はタフ(軍馬)であり、頑丈(農耕馬)であり、優雅(競技馬)であることだった」。一方、イギリスは島国であり、産業革命の成果もあり、馬は使役動物という役目から解放され、競馬向きの馬(端的に言えばサラブレット)にしか関心がなかつたこと。この差がイギリスとフランスの競馬史の差になった。
第三点。サラブレットの三大血統の始祖(バヤリーターク・ダーレアラビアン・ゴドルフィンアラビアン)は全てイギリスの国籍だが、実はゴドルフィンアラビアンはフランスのものになる筈だった。いや、間違いなくフランス国王に献上されたのであるが、第二点の観点から見向きもされず、イギリスの手に渡ってしまったのだ(このあたりの話は面白い)。
残念ながら日本の競馬は登場しない。何故か、ぜひ読んで欲しい。ただし、競馬に興味がある人は、という条件付だが……。

日々のあれこれ  -目白雑録 4

2011-08-26 14:59:56 | 日記
金井美恵子著  朝日新聞出版刊

「寸鉄人を殺す」という俚諺があるが、金井美恵子のエッセイの魅力はまさにそこにある。
普段、何気なく使っている言葉、当たり前になっている挨拶や態度、当然のように見える仕草に「ちょっと、それおかしくない?」と声を上げる。言われてみると、なるほど納得できる説明をできない自分を自覚する。
その筈だったが、金井美恵子も人の子。老人ネタが増えた。悪いことではない。それでも、声を張るのは十分評価していい。唯、共に彼女の著作を読む読者が「あっ、俺も年喰った!」と自覚させられることを計算に入れていたか、どうか……。
と言って、「昔に戻って欲しい」とか「老人ネタをやめて」と言うのではない。このままでいい。まっ、一緒に年をとって行きましょうか?

追記 お姉さんの金井久美子さんの装丁と挿画、いいですねぇ。

大江戸釣客伝 上・下

2011-08-24 15:56:42 | 日記
夢枕獏著  講談社刊

いつもの夢枕獏を期待してはいけない。摩訶不思議も妖かしも出てこない。この本は夢枕獏の趣味「釣り」が嵩じて生まれた作品だからだ。
登場人物は多彩だ。徳川綱吉、吉良上野介、芭蕉の門人・宝井基角、多賀朝湖(後の英一蝶)、紀伊国文左衛門、水戸光圀、そして主人公の津軽采女。
江戸の釣りは、直参旗本、それも御家人(身分と多少の禄はあるが、定職のない武士階級)を主体に富裕な商人、自由人に支えられて発展した。ここで間違えていけないのは、漁師ではなく、あくまでも趣味としての釣りをする暇人であるということ。
もうひとつ、日本ほど魚の種類によって仕掛けや釣り針が多彩な国はないそうだ。
詳しいことは書かない。ただし、釣りが趣味の人には堪らなく面白いに違いない。つまり、釣り師の講釈を聞くようなものです。

闘う白鳥 -マイヤ・プリセツカヤ自伝ー

2011-08-20 15:35:46 | 日記
マイヤ・プリセツカヤ著  文藝春秋刊行(1996年)

本書を再読したのには理由がある。つい最近米原万理の『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社文庫、初版は2001年)を再読していた時に次の記述が目に留まったからだ。「(アルジェリアでは)ラヒルは、有名なバレーダンサー、メツセレル家の出身で、姉に預けた長女マイヤのことを、日に何度も思いおこしては、あれこれ気を揉んでいた。マイヤは、その後『瀕死の白鳥』が当たり役となって、ボリショイ劇場のというよりも世界的大プリマとなる。そう、マイヤ・プリセツカヤのことである」(242ページ)。
そこで、書棚を掻きまわして本書を再読してみると「1938年に連行されて、夫がスパイ・反逆者・破壊分子・スターリンに対する陰謀の加担者である云々の調書に、署名を強要されたときも、彼女はきっぱりと拒絶した。当時の情況では、これは英雄的な行為だった。母には八年の刑が下された」(25ページ)。
両書の初版の年を比べてほしい。わずか五年の差だが、米原の本には「流刑地はバイコヌールにあったラーゲリー(強制収容所)で、通称アルジェリア」と書かれているが、マイヤの自伝では「八年の刑」としか記されていない。勿論、当人はその刑がどんなもので、強制収容所が何処だったか知っていたに違いない。しかし、「書けなかった」。ここに、ソ連・ロシアの体質を読み取ることが出来ると同時に、情報公開(ペレストロイカ)の進捗情況も分かる。しかし、「臭いものには蓋」どころか「暗殺」するという体質は今も立派に引き継がれているのは、最近のニュースでも分かる通り。
ところで、マイヤ・プリセツカヤ。素晴らしいバレリーナである。私も日本公演を三度見ているが、『瀕死の白鳥』には言葉もないくらい感動した覚えがある。70歳を迎えてもなおボリショイ劇場のプリマを努めたバレリーナは、世界広しと言えども彼女しかいない。
本書は、もう書店にはないと思う。版元か、古本屋、図書館ぐらいでしか手にできないと思うが、機会があったならば読んでみてほしい。



いまこそ知りたい、イスラム

2011-08-19 08:18:12 | 日記
Pen  8/15号 阪急コミュニケーションズ刊


イスラム教の概略が分かる特集号。同時にキリスト教、ユダヤ教との違いも分かるように編集されている。意外なのだが(いや、知る人は良く知っていることなのだが)、イスラム教の啓典書には旧約聖書(ユダヤ教の聖典タナハは旧約聖書と同じ)の一部である「モーセ五書」「ダヴィデの詩篇」、新約聖書に含まれる「福音書」がコーランと共に存在しているのだ(旧約聖書と新約聖書はキリスト教の聖典)。
共通の聖典を持ちながら、例えばイスラエルとパレスチナはああまで憎みあうのか。中東のキリスト教徒とイスラム教徒も同じ。おそらくこれはその土地に住みそれぞれの教徒になってみないと分からないことなのかも知れない。聖職者同士で話し合いが出来そうだと思うのは、あまりにも日本人的発想か?
ただ、宗教というものは個人的に深化するとある種の聖者を出現させるものらしい。マハトマ・ガンジーやマザー・テレサがそうだろう。と同時に、集団化すると狂気にも走り得るものらしい。宗教戦争が絶えないのはこのことを示しているような気がする。
こう考えると、宗教に寛容なのは世界広しと言えども日本人だけかもしれない。なにしろ、八百万の神様がいる日本では、ひと柱の神様だけを贔屓にするわけにはいかないものなぁ。宗教をこんな脳天気に考えてはいけないことは重々承知の上で。
イスラム教をトータルで知りたい向きには、恰好の手引書。

とうとうバイクで北米横断しちゃいました

2011-08-16 15:34:38 | 日記
国井律子著  産経新聞出版刊

タイトル通り、元気な女性の旅行譚。
但し、この手の旅行記と違う点が三つある。
ひとつはメカに強い(でも、アルコールに弱い)日本人の「ツレ」が同行していたこと。バイクで横断ということを考えると、必要だったのは分かる(しかし、彼が何に乗って同行したのかが書いていない。彼女と同じようにバイクなのか、それとも四輪駆動なのか。いざという時の修理を考えると、かなりの重装備でないといけないのでないかと思うが)。
もう一点は、日本人(彼女の場合は小学校や大学の同級生)と行く先々で会えたこと。尽々インターネットの威力を感じたが。つまり、この二点で分かるように彼女はこの旅行中日本語で通うせたということ。その代り、彼女は現地の人との交流はなかった(全くなかったとは思えないが)。よくありがちな、言葉に不自由して、人類共通のパントマイムで現地の人と交流し、知り合いを作ると言う話はない。お膳立てがいいという意味では、ベテランなのだろう。
第三点は、全ての経費の明細が記載されていること。直接経費だけでなく、バイクの改装費、船便代、保険費など全て記載されている。これは、特筆に価いする。
共感できたことが、ひとつある。バイクを降りるとジョギングしたいという衝動を抑え切れなかったという。まっ、程度は違うが新幹線に三時間も乗っていると、下車したら妙に自分の足で歩きたくなるのと同じか。

東大夢教授

2011-08-15 15:09:36 | 日記
遠藤秀紀著  リトルモア刊

著者は東京大学総合研究博物館教授。専門は遺体解剖学。難しいことは何も書いていない。多少専門的な部分もあるが、素人にもわかり易い説明が付されているから大丈夫。その部分は、それなりに初めて聞く話なので面白く、私としてはもう少し書き込んで欲しかったとさえ思っている。
むしろ、本文はユーモアに満ちており、話も専門分野だけでなく、著者が鉄道マニアであり、第二次世界大戦中の日本の戦闘機マニアであり、映画・アニメのマニアであることもあって、話の展開は目まぐるしくとても楽しい。
ただ、この饒舌な文章に託された著者の真意を読み取るのが、読者の務めであろう。
大学はどうあるべきなのか、博物館は本来どういう存在であればいいのか(最近読んだ大英博物館の話を思い出してしまった)、教師とは本来どういう態度で学生に接するべきなのか、学生は大学にどんな目的で入学したのか。腰巻のコピー「拝金の大学も洟垂れの学生も、知の鉄槌を食らうがよい!」こそ、著者の本音に違いない。
今の大学が法人になった悪影響が、諧謔を交えてつぶさに紹介され、読んでいて腹が立つ。かつての大学の良さを沁々と有り難く思えた次第。
著者の饒舌は照れ隠しなのだ。というか、こういう書き方しか真意を表す手段がなかったのだろう。著者は最近の大学の先生に比べて、恐らく真面目で誠実な先生なのだろう。研究室に所属する大学院生は幸せだと思う。どうか、自棄を起こさず踏み止まってほしいと心から思う。

なぜヒトは旅をするのか  -人類だけにそなわった冒険心ー

2011-08-13 15:06:29 | 日記
榎本知郎著  DOJIN SENSHO刊

本書をを読むには前提条件がある。「人」ではない。「ヒト科ヒト」あくまでも生物学から見た「ヒト」であること。そして「旅」。タンチョウヅルやガンも数千キロを旅するが、これはA地点からB地点への渡りであり、しかも行く先も戻る地点も決まっている。サケやウナギも同じように長距離を回遊するが、鳥と同じ。
つまり、ヒトだけが、自分の生活圏から他のヒトの生活圏へと旅し、再び元の生活圏に戻り、しかも違和感なく受け入れられる。ここでの大きなポイントは他の生活圏を訪れても「殺されず」に、しかも「食事の提供を受け、宿を提供され、時に恵みを与えられる」。他の生き物ではどうだろうか。縄張りに侵入したものはまず間違いなく殺される。
要するに「殺される危険性の心配」することなしに旅をするのは、ヒト科ヒトだけにしか見られない行動なのである。こうした行動がヒトの進化のどの段階で生まれたのか?これが本書の主題。面白い。
著者はキーワードは「許容」だと言う。見知らぬ土地でも中立的で対等にコミュニケーションできる能力(私にはちょっと茫漠すぎてしっくり来ないが、かと言ってそれ以外のキーワードも思いつかないのだが)。
おそらく、常に飢えにさらされ、危険と背中合わせだったグレートジャニー(人類の大移動)のプロセスの中で刷り込まれた「脅怖」と「敢えて敵対しない有利さ」を身に付けた結果だと思うのだが、どうだろうか?
かなり端折ったが、詳しくは本書を。しかし、「ヒトだけが旅をする。どうしてか?」と言うのがテーマになるとは思ってもいなかった。


神変 役小角絵巻

2011-08-12 15:17:08 | 日記
山本兼一著  中央公論新社刊

タイトルの割には期待外れの本。おそらく、続編があるのではないか。それが出ないと何とも言えない。
ただし、役小角をテーマにしたのはいいと思う。多くの歴史小説に登場する役小角だが、かれを主人公にした小説は寡聞にして読んだことがない。脇役とか、摩訶不思議な呪術師として登場するだけなのだ。なにしろ、生没年不詳の人物で、奈良時代の呪術師としかわかっていない。歴史上に登場するのは、文武天皇3年(699)年に伊豆に流刑になった記録があるだけだ。しかも、この小説はここで終わっている。面白くなるのはこれ以降だから、肩透かしを食ったようなもの。続編に期待したい。


最後の晩餐  -死ぬまえに食べておきたいものは?ー

2011-08-10 08:09:45 | 日記
宇田川悟著  晶文社刊

「最後の晩餐」というと、著者も挙げている1973年に公開された仏伊合作映画「最後の晩餐」を私も思い出す。当時の日本人には思い付くことも出来ない主題といい、エロチックなシーンが印象的だった。もうひとつ記憶にあるのは開高健の同名のエッセイである。あの饒舌で、関西人特有の執着さに辟易しながらも、美味しい・旨いということを文字にするには、これほどの博識をもってしても完璧ではないことを教えられた。
さて、本書である。タイトルをテーマに島田雅彦・奥本大三郎・猪瀬直樹・荻野アンナ・南部靖之・磯村尚徳・小山薫堂・山本容子・西浦みどり・羽仁進・逢坂剛・岸朝子・田崎真也・辻芳樹・千住明・楠田枝里子の16人にインタビューしたものである。各々専門とするジャンルは違うが、その人たちの個性が出ていて面白い。
結論。「食」を語ることとは本人の生い立ち、人生の超し方を語ることに他ならない。
翻って、わたしの「最後の晩餐」を挙げようとすると、母の手作りの惣菜に始まり、その時々の様々な「食」との出会いに思いを馳せざるを得ない。それはそのまま、己の人生を振り返ることでもあるのだ。
本書は面白い本というものではない。時々同感!と納得しながら、その「食」との出会いを思い出し、なんともほろ苦い思いが交錯する。