続 私の日本古代史「上・下」

2013-01-30 08:34:29 | 日記

上田正昭著   新潮選書

ようやっと読了した。ところで、上巻のサブタイトルは「天皇とは何ものかー縄文から倭の五王まで」。下巻は「『古事記』は偽書かー継体朝から律令国家成立まで」(但し、上巻のサブタイトルは編集部が付けたそうです)。あとがきによると、執筆中に膀胱癌が見つかり二度手術を受け、その最中に奥様を見送り、大変な苦労をして書き上げたそうで、その意志の強さに驚いた。
ところで、上巻で一番興味をもって読んだのは第Ⅱ部で「第一章 倭人の軌跡、第二章 邪馬台国と女王卑弥呼、第三章 倭・大和・日本」と、第Ⅲ部「 第三章 倭の五王とその時代」だった。なかでも、邪馬台国九州説と畿内説論争について、「そういう議論も必要だが、多くの論者が邪馬台国がその後どうなったのかには全く触れていない。この点を考えることが重要だ」という指摘だった。これには正直言ってどきっとした。そうなのだ。あれだけの集団が消え失せたわけであるまい。どこに行ったのか、どこで暮らしたのか、考えたこともなかった。九州か畿内か、ミーハー的にしか読んでいなかった、反省した。
もうひとつ、著者が繰り返し指摘していることだが、日本の古代史を検討するには「東アジア世界の動向に連動する島国日本」がいかにして「日本国家を成立させたか」という視点である。その良い例が「倭・大和・日本」という表記である。これを理解するには中国、朝鮮の古代の文献でどのような意味で使い分けていたのかを検討しなければならない。このあたりを読むと、著者の博覧強記振りに驚かされるが、これは半世紀以上に亘る研究があったなればこそだと思い至る。
下巻では「はじめの章 『古事記』は偽書か」を面白く読んだ。なにしろ、つい最近類書を読んだばかりなので……。そして第Ⅳ部の「第三章 天つ罪・国つ罪と七夕の信仰」を興味深く読んだ。
それにしても凄い。独りで「日本の古代史」通史を書き上げるなんて。急がずにじっくりと読みたい本。そして、折りに触れて読み返したい本だと思った。


私の日本古代史  -上・下-

2013-01-28 15:02:04 | 日記

上田正昭著   新潮選書

「私の」日本古代史、と書ける学者が何人いるだろうか? 半世紀を超える研究と広いジャンルに亘る文献の渉猟なくしては、おそらく日本の古代史の「通史」は書ききれなかったに違いない。ここが、本書の最大のポイントである。
邪馬台国問題にしても卑弥呼にしても、倭の五王にしても、あるいは古事記偽書説にしても、多くの人達が細部(重箱の隅)に拘って諸説を述べているが、これらには東アジア世界の動向に連動した日本という視点が必要なのであって、やたら細部に拘っていては肝心のポイントを見落としかねない。それにしても、読破した文献の数々には驚かされる。
古代史に興味のある人はぜひぜひ読んで欲しい。縄文時代から天武・持統朝までの古代史を頭に入れてから、個々の、例えば卑弥呼や邪馬台国といったものを読むと、本来の問題点は何処にあるのかがはっきりする。
今は下巻を読んでいる最中なので、詳細は後日に……。日本の古代史の通史を一人で書ききったなんて、凄いと思いませんか。こうしたものはたいてい共著ですものね。


古事記はいかに読まれてきたか  -<神話>の変貌-

2013-01-24 14:35:32 | 日記

斎藤秀喜著   吉川弘文館刊

『古事記』が「どう読まれてきたか」という視点は斬新である。しかし、斬新な視点ゆえの混乱もある。
どう読まれてきたかとは、「読み手」の置かれた時代背景(政治、経済、文化、思想体制)によって当然違ってくる。第二次世界大戦の皇国史観の背景に『古事記』や『日本書紀』が利用されたことは記憶に新しい(くもないか)。
当然その違いは、古事記の記事を「どう解釈するか」という点に出てくる。つまり、時代背景により、牽強付会が横行する、という事態を必然的に招くことになる。なにしろ、今日残されている一番古い写本『真福寺本古事記』(国宝)ですら、頭注は後世の人によるもので、そこには成立時とは違う解釈で施されているのだから。つまり、「我々の読んでいる『古事記』がほんとうに古代のままの本文かどうかはまったく保証がない(130頁)」という」のが事実なのだ。
それらを考慮しながらこのテーマを体系化するには、まだ時間が必要なようだ。

 


人類大移動 -アフリカからイースター島へ-

2013-01-22 08:39:52 | 日記

印東道子 編   朝日新聞出版刊

人類史は日々書き換えられている。様々な分析手法(人類学、考古学、遺伝学、地理学、言語学、気象学等々)から新しい知見が発表されているからだ。一年前の説が否定されたりして、油断できない。良い例が、ネアンデルタール人と新人は混血していなかったという説。数年前までは混血していなかったという説が主流だったが、今ではDNA分析で混血していたことが証明され、我々東ユーラシアに住む現代人にも彼等のゲノムが1%から4%(これって、現代人とチンパンジーのゲノムの違いではなかったけ?)ほど伝わっていることが分かった。
本書は編者の他に12人が各々のジャンルでの新しい知見を発表している。もちろん、これらも1、2年後には否定されるかもしないが。圧巻なのは編者の印東氏が担当した「海を越えてオセアニアへ(4章)」である。出アフリカした人類がなぜ、どうやってあの広い太平洋に拡散していったのかを豊富な図版で説明している。わずか250頁であるが図版が多く、分かりやすい。


孤 愁  ーサウターデー

2013-01-19 15:22:49 | 日記

新田次郎・藤原正彦著   文藝春秋刊

本書は父・新田次郎の絶筆の小説・伝記を、息子の藤原正彦書き継いで完結させたものである。こういう例は稀有ではないだろうか? 少なくても私は初めてであった。
それはさて置き、タイトルの「孤愁ーサウターデー(ポルトガル語)」について考えてみたい。新田次郎によれば「私は孤愁にかかったのだよモラエス君。そして、この孤愁に取り憑かれたポルトガル人は、誰でもそうだが、故国を恋い慕いながら帰ろうとしなくなるのだ。帰ろうと思えば帰れる、だが帰らない、帰るべきではないという気持になって行くのだ。孤愁はポルトガル人だけにしかない一種の病気だよ」(132頁)。あるいはこうも言っている。「(孤愁は)過去を思い出すだけでなく、そうすることによって甘く、悲しい、せつない感情に浸りこむことです」(243頁)。
一方、藤原正彦は「はかないという概念がサウターデ(過ぎ去った幸せへの追慕や郷愁)と重なり合っている」と言っている(些か固いというか説明的だが)。
それにしても、この感性がポルトガル人特有のものだと、何度も出てくるがそれがどんな背景(歴史、風土、宗教、民族的背景なのか)の元に育まれた感性なのかは、説明されていないように思われる・おそらく、「孤愁」という訳語は新田次郎の造語なのだと思うが、そのお蔭で漠然とそのニュアンスは察することが出来るのだが……。
それにしても、藤原正彦はとんでもないことにチャレンジしたものである。なんとなく、数学者らしいな、とも思うのだが。
追記 日本の慣用句に「故郷は遠くに在りて想うもの」というのがあるが、それに近いのだろうか?


伏見宮 ーもうひとつの天皇家ー

2013-01-16 15:06:29 | 日記

浅見雅男著   講談社刊

天皇家と宮家の関係を詳細に記述した本。通常、日本史を読んでもエポック時に登場した宮家は触れられているものの、宮家全体の存在意義や天皇家との係わり合いは、あまり明らかにはされていない。その意味では読んでみていい。
しかし、なまじ天皇家と血族関係あることで、その実態はかなり生々しい。本書には世襲親王家という宮家が出てくるが(伏見宮家、有栖川宮家、桂宮家、閑院宮家の四家)、これは徳川幕府の御三家、その親王家の連枝が御三卿と理解すると分かり易い(乱暴な話だが)。
今日問題になっている、皇位継承を考える上で参考になるかもしれない。


祈りよ力となれーリーマ・ボウイー自伝ー

2013-01-14 15:35:08 | 日記

リーマ・ボウイー著   英治出版刊

本書は14年間にも亘る内戦が激化するリベリアにおいて、<女性達による平和への大衆行動>を立ち上げ、停戦実現に大きな役割を果たした著者の自伝である。身を捨てたガンジー振りの行動に対して、2011年ノーベル平和賞を受賞した人と言えば記憶にある人もいるにいるにちがいない。その奮闘と苦労、そのために払った犠牲に関しては本書を読んで欲しい。というか、とてもではないが書けない。
ここで言いたいのは、タイトルである。確かに著者は悩んだり、苦しんだりした時、聖書を開き、その度に立ち直っている。それも、何度も……。しかしだ。原題は「Mighty Be Our Powers -How Sisterhood、Prayer、and Sex Changed a Nation at Warー」だ。どこにも「祈りよ力となれ」なんて出てこない。
原題を無視し過ぎている。彼女がしたことは原題そのもので、ノーベル平和賞もそれに対して与えられた筈なのに……。どこでとっ違えたのか分からないけれど、意訳すぎる。本書の主題を伝えるには、タイトルとして失格だ。
ただし、それを無視すればぜひ読んだ方がいい。そして、自分には出来るだろうか、と内省してみることも。

 


『想いの軌跡(1975ー2012)』 『ローマの街角から』

2013-01-12 08:28:57 | 日記

塩野七生著   新潮社刊

流石だと思った。とくに「(地中海に囲まれた)イタリアの都市の玄関口は港である。港から見てこそ、その都市の表情が見えてくる」という指摘は新鮮だった(実際、著者はヨットで港からイタリア各都市に入っている)。日本で言えば、かつて大名領であった都市を訪れるには旧街道から入るということになろうか。観光バスでいきなり城の大手門で降ろされても、その城下町の表情は分からない。領主や領民がどんな想いでその都市を築き上げたのかは、想像も出来ないだろう。つまり、グーグルアースで見た地中海では、なにも分からないのだ。
もうひとつ、著者は執筆に合わせて白地図から自ら書き込んでオリジナルの作っているそうだ。その後、プロの地図製作者と何度か推敲を重ねて、あの地図が出来上がっているのだ。どおりで著者の著作の定価が高いはずだ。ついこの間、地図があったのならばどれほどわかり易かったのに、と思った本を読んだばかりなので尚更そう思ったのかも知れないが……。
と、ここまで蛇足を書いてしまったが、後半で「創造的作品には、解説を必要とするものと必要としない作品のちがいがある」という文章に出会ってしまった。解説を感想と置き換えると、このエッセイ集は「感想を必要としない」(だって、40年に及ぶ著者の「想いの軌跡」なのだから)ものに当たる。黙って心の中で反芻すれば良かったのかも知れない。一生懸命勉強している年長者には敵わないな。
どちらにしても、その努力と御歳を考えた時、御健勝であることを願ってやまない。


江戸の理系は世界水準!(東京人 13年2月号) 古代日本の超技術 改訂新版(ブルーバックス)志村史夫著

2013-01-08 15:15:14 | 日記

最初に読んだのは「東京人」のほうである。江戸時代の多分野、からくり、測量・地図、本草学、染色、遺伝学、発酵、和算、天文暦学、医学、砲術、土木・建築に亘るジャンルに於ける世界水準(中には世界に先駆けて)の仕事を成し遂げた人々の話である。
例えば関孝和は西洋より早く行列式やベルヌーイに先じてベルヌーイ数を発見したし、なんとオイラー関数を本人よりも先に発見した久留島義太、円周率を小数点以下49位まで計算した人もいた。考えてもほしい。算盤と算木しかない時代の話である。
その流れで後書を読んだ。これは古代から日本が独自に開発・発展させてきた技術のはなしである。著者は半導体の研究・開発者。その最先端の科学者が、昔の日本人のテクニックに素直に驚いている。それどころか、現在の技術がそれに及ばないことも指摘している。
翻って考えたいのは、今の教育制度である。かつての中国の点取り主義の科挙に似てはいないか。何時、何処で、誰がミスリードしたのだろうか? 勿論、優秀な学者や技術者はいる。しかし、底辺が浅いのだ。それに不安を感じる私は……いや、言うまい。


黒王妃

2013-01-07 15:43:09 | 日記

佐藤賢一著   講談社刊

主人公はフィレンツェのメディチ家の出身で、フランス王アンリ二世の王妃となり、夫亡きあとの三人の息子、フランソワ二世、シャルル九世、アンリ三世の三人の王の後見を努めたカトリーヌ・ドゥ・メディシス。彼女がなぜ「黒王妃(ラ・レーヌ・ノワール)」と呼ばれたかは本文を読んで欲しい。
読後感から言えば、中世(本書で言えば16世紀)のヨーロッパは王妃・王女が主導権を持っていたのではないかと錯覚してしまう。敢えて言えば、著者は中世ヨーロッパに造詣が深いようだが、とてもではないが付録の系図ぐらいでは、ストーリーの人間関係を理解するには一般人には無理だ。せめて当時のヨーロッパの王国の地図と、もう少し詳しい系図を付けて欲しかった(著者なみの知識を持っている人はそう多くはないと思う)。
それはともかく、随所に挿入されている黒王妃の独り語りが圧巻である。著者が女性ではないかと思うくらい、女性・妻・母の心情を微細に著述している。「女ってそういうもの? 妻・母ってそういう風に考えるものなの?」と思わせられること屡々だった。その女性に関する洞察はかなりの経験に裏打ちされているのではないか。
余計なお節介だと思うが、この小説の背景には新教・プロテスタントと旧教・カトリックとの宗教戦争が横たわっている。これを承知で読まないと、本書の主題を見失ってしまうので要注意。