かくれ佛教

2011-03-30 16:05:52 | 日記
鶴見俊輔著  ダイアモンド社刊

本書は「この本は、私が書きたくて書いた、いわば終点にあたる」という思いで書いた本。発刊日(2010年)が、ちょうど著者の米寿(88歳)にあたる。
著者が宗教に造詣が深かったことは十分に承知していたが、「自ら、私は《かくれキリシタン》にちなんでいうなら《かくれ佛教徒》といっていい」と言い切ったのには、少なからぬ衝撃を受けた。著者はハーバード大学哲学科を卒業して人だが、在学中にハーバード神学校にも通った人でもある。そこではキリスト教が唯一の宗教だとは教えず、さまざまなアプローチを教えられたという(父・母・妹・弟はキリスト教徒だつたにも拘わらず、キリスト教徒にはならなかった)。
そして帰国した日本では、マルクス主義が吹き荒れていたが、一歩身を引いていた人だった(つまり、マルキストにもならなかつた)。
但し、《かくれ仏教徒》だとは言っても特定の宗派の門徒だとは言っていない。時に、親鸞や法然、一休や良寛にも言及しているが、そのどれでもない。ここが著者らしいのだが、いや著者ならではと言うべきか、人類そのものが誕生した時に持っていた自然への畏れ、そして日本に古来からあったアミニズム、神道、佛教、それらが渾然一体となったものを「佛教」だと言っているのだ(と思う)。
おそらく著者が知の巨人だから言えることなのだろう。ここまで書いてきて、反省している。浅学の私ではとても要約したとは言えない。もう何度読み返したら「正く……」と言えるのだろうか。まっ、米寿までには、時間はたっぷりあるが、宝の持ち腐れということもあるし…。

モーツァルトを「造った」男 -ケッヘルと同時代のウィーンー

2011-03-26 16:02:54 | 日記
小宮正安著  講談社現代新書刊

モーツァルトの作品に「K○○○」という作品番号が付いているのは、クラシックファンならば誰でも知っているだろう。K527 『ドン・ジョヴァンニ』 K626『レクイエム』といった具合に。通常「ケッヘル 何番」といわれることが多いが、本書はその作品番号を創始したルートヴィヒ・ケッヘルの伝記であると同時に、彼が生まれたオーストリアを中心にした19世紀のハプスブルク帝国の物語でもある。
勿論、それまでにも作品番号がなかつたわけではない。楽譜出版社が音楽作品に対しオーパス番号というもの付けていた。ただし、それは売れ筋の作品だったり、発売した作品に勝手に付けていたもので、ひとりの作曲家の全作品を時系列的、楽曲のジャンル別に付けていたものではない。
ケッヘルは音楽に対する造詣は深かったが、後世の音楽学のプロではなかった。むしろ、植物学、鉱物学の専門家だった。その彼がモーツァルトの全作品に作品番号を付けようとしたのは、ひとえに当時のハプスブルク帝国の国内事情による。そして、このケッヘル番号が不動のものとして今もあるのは、彼の専門である植物学などで培われた分類学の手法を活かしたことにある。

蛇足だが、モーツァルトがフリーメイスンであることは知っていたが、フリーメイスンのために4曲も作曲していたことは、この本で初めて知った。





1945日本占領 -フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略ー

2011-03-24 08:34:33 | 日記
徳本栄一郎著  新潮社刊

タイトルに「フリーメイスン」とあると、思わず一歩引いてしまう経験が多かったので(たいていは憶測や他の文献の引用で、嘘か真か眉唾ものが多かった)、発売時から気にはしていたが買わずじまいだった。偶々、立花隆氏の書評を読んで買ってみる気になった。
その内容については、ここでは書かない。第二次大戦後の日本とアメリカ・欧州各国、それぞれの思惑の交錯、それに関わった人たち(特にフリーメイスンの関与)を知るには面白い本だった。最近ブームの感がある白洲次郎が登場するのは当然だが、妻の正子まで関与していたとは初めて知った。そして同時に、戦後65年経た今日でもまだ明らかになっていないことにも驚かされた。100年後には明らかになっているのだろうか。
むしろ感心したのは、アームチェア・ジャーナリストにはならないという著者の姿勢である。この言葉は彼がインタビューした元スパイが「アームチェア(安楽椅子に座っていて)スパイしていては、本当のインテリジェンスは分からない」と言ったことに由来する。そこで彼は徹底的に一次資料にあたり、当事者に直接インタビューするという姿勢を貫く。各国の資料館を訪れ、当人、家族、関係者を芋蔓式にインタビューいる(ちなみに著者は、元英国ロイター通信特派員)。そこが素晴らしい。フリーメイスンの組織・規模も分かったし、マッカーサーがフリーメイスンに入会した時期もわかった。なにしろ、スーツにメイスンの象徴である白いエプロンを絞めている写真は強烈だ。
それでも「どうして? 何故? 本当?」という疑問が残るのは、日本の敗戦とGHQに代表される戦後処理というスケールの大きさによるのだろう。意外にも、口外してはいけないことを墓場まで持っていける、意志強固な人々が結構いるんだということを実感したのも、本書からの収穫かも知れない。
なんせ、口の軽い人間が近頃多すぎるものなぁ。

おとこの秘図 上・中・下  読み返した本 9

2011-03-22 16:50:22 | 日記
池波正太郎著  新潮文庫

「おとこ」が読む本である。決して、タイトルの「秘図」や、文庫本の表紙の「絵(実は、これがなんとも良いのだが)」を指して言っているのではない。
ひと言でいえば、これは「男の生理」を書き尽くした本である。ここで言う生理とは、性は勿論だが、出世欲や権力、冒険心、博打等々を含む広義の生理である。人は一様に生きるものではない。様々な出来事、人との出会いがあり、それらを切っ掛けに人は変わるのだけれども、どう変わるかはその人の感性によって違ってくる。
好きな「おんな」も年によって対称が変わる。他人であった「おとこ」と「おんな」が夫婦となる。そして、月日が経つにつれその関係は微妙に変わる。
幾つになって読み返しても教えられることの多い小説だが、「眼光紙背に徹す」読書力のない私には、まだまだ読み落としていることが多々あるに違いない。
できれば、老いて死が手近になった時に、もう一度読み返してみたい。

ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト -最新科学が明らかにする人体進化35億年の旅ー

2011-03-18 15:17:03 | 日記
ニール・シュービン著  早川書房
本書は、水生動物から陸生動物への移行を証拠立てるミッシングリング「ティクターリク」の化石の発見者の一人である、著者の成功物語である(といっても全体の四分の一くらい)。
全体の四分の三を占めるのは、陸生動物(人間を含めて)の骨格の中にある魚類の痕跡を証明することに費やされている。原題を直訳すれば「(人間の)内なる魚」となるが、その由来はここにある。
こうしたアプローチが可能だったのは、著者がフィールド古生物学者(魚の化石が専門)であると同時に、人体解剖学の教授であったから。著者によれば彼の研究室は、フィールドを中心とする古生物学者と、DNAを中心とする遺伝学者のチームに二分されているそうだ。こういう研究室もめずらしい。
さて、そのミッシングリングである「ティクターリク」であるが、大型の鰭をもつ魚で、約3億7500万年前に水生から陸生に移行した魚類で、なんと「腕立て伏せができる魚」だったのだ。発見の経緯についてはここでは説明しない。なかなかスリリングだとだけに留めたい。
われわれ人間の骨格の隅々に魚類の痕跡が残っていると言うのは、不思議でもあるし、やはり進化論は正しいのだ実感もできる。楽しく読める本です。

ヒッチハイク女子、人情列島を行く!

2011-03-17 17:31:28 | 日記
池田知晶著  徳間書店刊
息抜きに読んだ本。この頃ややこしい本ばかり読んでいるせいだと思っている。
若いから出来ることがある。ただし、成り行きでしてしまった人、明確な意思を持ってする人、後で振り返ったらそうだった、と様々なパターンがあるだろう。
この本を読んで、尽々思ったのは日本も日本人も捨てたものじゃないな、ということだった。これが外国だったらどうだったろうか。人種、宗教、出自、ステーイタスによっては、こうまで好意に迎え入れられることは、彼女が経験したパーセンテージを遥かに下回った筈だと思う。
勿論、好意的な人というのは、日本にも外国にも等しくいると思いたい。
しかし、自分自身を見つけるのは「旅」なのだろうなぁと思った。いや、バックバックにギターを背負えばいいとは言わないが……。
「可愛い子には旅させよ」という俚諺は、21世紀でも真実だった。

時代小説の江戸・東京を歩く

2011-03-16 09:44:39 | 日記
常盤新平著  日本経済新聞出版社刊
東京は、、オリンピックで道路事情は変わったとは言え、特定の場所は江戸後期の道筋とそう大きくは変わっていない。当時の地図を片手に、時代小説の舞台となった所を歩くというのは面白い企画である。私も経験したことがあるが、驚いたのは当時の人たちの歩く距離と時間である。ともかく早いし、健脚である。
それはともかく、本書に紹介されている店のなかには私も馴染んだ店が数店あり、中には足繁くかよった店もある。著者も言うとおり、味わい深い店もある。
しかし、問題もある。それは、そこに通う人々の気質がまるで変わってしまっている、ということである。例えば、鰻屋に行って白焼きを頼んだとする。今の人たちは30分もすると「まだ!」と声を上げる。生き鰻を裂き、焼き上げるまで一時間はかかる(本格的な店であれば)。その時間をどう按配するかが、客の度量というものなのだ。
老舗というのは店の雰囲気も大切だが、そこに通う客のマナーも大切なのである。両者が渾然一体となって、初めて良い店ということになるのだが……。
できれば、そうした空気を味わえる時間帯を教えて欲しかった。

破壊する創造者 -ウイルスがヒトを進化させたー

2011-03-12 09:00:19 | 日記
フランク・ライアン著  早川書房刊
これはぜひ読んで欲しい本だ。いずれ、精緻な理論として確立されるだろうが、新しい知見の登場だと言っていい(事実、著者は「新しい進化論」だと言っている)。
「破壊する創造者」とは、ウイルスのことである。ちょっと分かりにくいので、ウイルスではないがミトコンドリアを例に挙げる。ミトコンドリアは、酸素呼吸をする地球上に生息する全ての生き物の細胞に存在する。ミトコンドリアは、「好気性細菌」が10億年以上前にプロチストという真核生物と融合して新たな生き物となり、原生生物の祖先となった。そして、余分な物を削ぎ落として、必ず母親から子供に受け継がれる遺伝子となってしまった。つまり、厳密に言えばミトコンドリアは人間の一部ではなく、人間と共生している「他者」なのである。
ウイルスが人間あるいは動植物に侵入すると、宿主である人間・動植物を生命の危機にまで追い詰める(これを攻撃的共生という。鳥インフルエンザ、エイズがこれにあたる)。しかし、絶滅させはしない。というのも宿主が絶滅すれば、ウイルスも絶滅してしまうからだ。それでは、侵入した意味がない。そこで、ウイルスは宿主と折り合いをつけて、穏やかな共生に進む。しかも、この共生段階にはいったウイルスは、その宿主の進化を援けるのである。ウイルスの遺伝子変化のスピードは人間の数百倍であり、増殖力も半端でないからだ。著者はたくさんの実例を挙げているので、読んで欲しい。
ここで、問題が生じる。従来のダーウィンの進化論では「進化は突然変異と自然選択によって」起きるとされていた。しかし、ウイルスが進化に関与していたとなると……。そう、「生命の系統樹」の根元はひとつではなくなってしまうのだ。そればかりではない。ウイルスが様々な生物に侵入し、共生し、進化を援けていたということは、これまで整然と枝分かれしていた系統樹は、いたるところで絡まりあい,縺れ合って藪か網目状になってしまう。
しかし、著者はダーウィニズムとは矛盾しないと言っている。新しい知見を加えて進化論を「現代化」すればよいといっている。
決して読みやすい本ではない。しかし、「わたしは、この理論に関する最初の一冊を読んだ」という自負と、知的興奮を味わうことができる本である。400ページ。かなりの時間がかかりますよ。
念のため、著者は進化生物学者であるが、医師でもある。難病(ハンチントン病、アルツハイマー病等々)についても、これまで解ったことを詳細に報告してくれている。

脳神経学者の語る40の死後のものがたり

2011-03-10 14:49:01 | 日記
デイヴィット・イーグルマン著  筑摩書房刊
「死」というものは、大抵の人が生まれて初めて経験することだが、その経験を語った人はいない(臨死体験とかいうものを経験した人は別にして。そして、それが真実だと証明されたこともない)。
著者は様々な「死後」の物語を本書の中で披瀝している。宗教観、生物学、哲学、あるいは情緒的な死について、実にユーモラスに物語を展開している。難しい話は一切ない
たかだか160ぺージの本だ。しかも、単なる脳神経学者ではない。幅広い教養と知識がその背後にある。
さて、振り返って私自身はどう考えているかと自問してみた。おそらく、死とは何もかも失うこと以外の何ものでもない。生物学的にも、人格的にも。肉体も自意識も失う。まっ、骨は残るだろうが。それも、海かどこかに散骨してもらえば、それで終わりだ。
いや、待てよ。残った者に「迷惑、面倒」という残骸は残さざるを得ないか。合掌

若き日の友情 -辻邦生・北杜夫 往復書簡ー読み返した本 8

2011-03-10 08:21:10 | 日記
 新潮社刊
かつて、「友情」という言葉があった。しかし、これは声高に言うものではないし、お互いが分かっていれば良いものだった。ましてや、「僕に友情を持ってくれ」などと相手に強要するものでもない。
本書は、この二人の旧制高校時代(辻・22歳、北・20歳)から、辻邦生が74歳で亡くなるまでの、約半世紀に亘る交友記録である。つまり、「友情」とは、それほどの永きに亘って色褪せないものなのである。この本では、主として昭和23年から昭和36年までの、160通を超える手紙が取り上げられている。
こうしてブログで改めて取り上げるのは、どうにも照れくさいのだが、昨夜ふと読み返して書いた次第。