図説 尻叩きの文化史

2012-03-29 14:36:03 | 日記

ジャン・フェクサス著  原書房刊

「尻叩き」と「文化史」? このふたつの単語、並べてみると違和感ありません? もちろん「文化史」的視点に立てばいくつかの切り口は私も思い付くけれど。
詳細は本書を読んでほしい。どんな歴史的事実においても、今日ではとても通用しない解釈や蒙昧があるものだが、尻叩きもその例外ではない。ただ、面白いと言うには、犠牲者が多かったようだが。
読了してから思ったのだが、著者自身が「尻叩き」マニアではないかと思った。本書は図説というだけあって図版・写真が実に豊富なのだが、その40パーセントくらいは著者所有のものなのだ。とくに最終章「そして今は?」に到っては、文化史を逸脱して個人的な「嗜好」を表出したとしか思えない。凡そ雑学の部類に属する内容だが、それなりにオモシロイ。

付記 前述したように図版・写真が多い(ほとんど毎ページにある感じ)なので、通勤電車の中で読むのはお勧めできない。もうひとつ、書棚のどこに置くかも配慮が必要かも。


「昭」  田中角栄と生きた女

2012-03-27 14:42:06 | 日記

佐藤あつ子著  講談社刊

懐かしい名前を見た。「越山会の女王・佐藤昭子」。という次第で買った。
どうしても分からないのは、著者(佐藤昭と田中角栄の娘)と、母である佐藤昭子(通称らしい)との関係・距離感である。著者が長い間抱えていた鬱屈は分かるが、この著者の立ち位置がよく分からない。そして、父・田中角栄にしても生活を保障してくれる人、どうやら実父らしいという自覚以上には踏み込まない。「好きだった。可愛がってくれた。けれど……」というところが、どうしても理解できない。
それを別にすれば「越山会の女王」佐藤昭子の実像がよく分かった。田中角栄の有能な秘書であり、パートナーだつた。田中角栄が最後まで手元に居て欲しかった人間だったことも良くわかる。二人の絆は、おそらく出身地や生い立ちにあるのかもしれない。
田中角栄の子供だったとしたら、まっ、田中真紀子になるだろうな。勿論、質も能力も、清濁併せ呑む器量もないし、世間も知らない(田中角栄は実業家としても成功者だった)。けれど、妙に悪いところだけ引き継いだという感じがする。が、それよりなにより、著者は両親から一番遠い所にいる人、という気がする。もちろん、これから先は分からないが。
妙な読後感を持つ本である。

付記 週間文春(3月29日号)の「阿川佐和子のこの人に会いたい」のゲストが著者の佐藤あつ子さん。この辺の事情がもう少し詳しく分かります。


タックスヘイブンの闇 -世界の富は盗まれている!ー

2012-03-22 08:41:59 | 日記

ニコラス・シャクソン著  朝日新聞出版

タックスヘイブン(租税回避地)と、タックスヘブン(天国)とを間違えてはいけない。ヘブンは間違い。
それにしても、ややこしい。著者は随分わかり易く書いているのだろうが、一度読んだくらいでは到底理解できない(素人には)。要するにある国では禁止されている商取引や会計処理・もちろん預金もが、別の国では許されていて、その国にペーパーカンパニーを登記していれば(匿名の口座を持っていれば)、課税は本国で申告した場合の十分の一、いや百分の三、酷い時はゼロになるということらしい。
これをオフショア取引と言う。オフショア=「ここでない場所」に資金を置いてある非居住者にはゼロ税率を提供し、居住者にはタップリ課税している場所・都市・国に会社を登録すれば、こうしたことが可能になる。その結果、世界の富裕層がタックスヘイブンに所有している資産は、アメリカのGDP(国内総生産)の総額に匹敵しているし、イギリス大手企業700社のうち三分の一は本国でまったく税金を払っていないし、タックスヘイブンによって、途上国は毎年1兆ドルの資金を失っている。
まったく信じられないような話だが、残念ながら事実。どうして、こんなことが出来るのか? それは自由を主張するリバティー(自由)の極限がここにあるからだ。「俺達が儲けるのにイチャモンをつけるな」というわけだ。彼らから言えば「無闇矢鱈に税金をかける国は、自由主義に寄生するダニだし、貧乏人は能無しだから自業自得なのだ」ということになる。そして、規制緩和に駆け回るロビィースト達を囲い込んでいる。
一部の人間の自由のために、不自由を強いられている大多数の人間がいることを忘れてはいけない。勿論、こんな意見は無視される。声高に言い募れば、社会の枠外に追いやられる。
どうして、こんな本ばかり読むのだろう? 私自身にもよく分からないのだが……。


西行花伝

2012-03-19 15:39:20 | 日記

辻 邦生著  新潮社刊

西行について知りたいことがあって、書棚から本書を引っ張り出した。
「知りたい事」とは、西行が「胡散臭い人」という印象をどうしても消すことが出来なかったからだ。勿論、歴史上の西行のデータはわかっていた。しかし、どうして彼が僧侶になったのか、その訳がわからなかつた。
改めて本書を読んで分かったことは、彼はある意味で逃避者だったということだった。彼が歌人として素晴らしいことは別にして、彼が僧侶になったのは一種の「便法」だったということだ。当時の階級社会から自由になるには、僧侶という立ち位置は都合がいい位置だった。公家社会から自由になると同時に、彼の所領である田仲荘の主人という地位も放棄したのだ。
だからといって、彼は僧侶として悟りを開こうと修行に励んだわけでもなく、階級社会を否定したのでもない。いや、むしろ僧侶としての立場を存分に活かして、階級社会を利用したと言ってもいい。彼は生涯生活に苦労していない。家督を譲った弟からの援助を受けていたからだ。階級社会からの恩恵を受けるのは拒否していない。「胡散臭い」というのは、この半端さにある。
しかも、彼が終生拘ったのは、待賢門院に対する思慕の情だった。僧侶としては、浮世の柵に拘るべきではない。それを僧侶にして歌人という立ち位置を採ることで、自分を正当化した。
手元の本は、1995年の初版本である。当時、ここまで読み取ることはできなかった。17年の歳月は大きい。「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」。好きな歌だが、一人の女人への未練の歌かと思うと、考えてしまう。
依然として、分からない男である。あと十年もしたら、もう一度読み返してみよう。もしかしたら、行間に別のことを読み取ることが出来るかも知れない。
付記 辻邦生は素晴らしい。全ての資料を読み込んだ上で、自分の言葉で物語を紡いでいる。最近の作家にこれだけの人はいるのだろうか。 



 

 


教授とミミズのエコ生活

2012-03-15 15:20:59 | 日記

三浦俊彦著  三五館刊

サブタイトルは「または私は如何にして心配するのを止めてミミズを愛するようになったか」。
なんとも、饒舌な本だ。たかがミミズコンポストだというのに、これだけ薀蓄を書けるとは!さすが哲学者(著者は和洋女子大学教授・哲学者)。
著者の日常生活はチョット不思議。著者紹介によれば、現在53歳、独身らしい。郊外の80坪弱に庭付きの一戸建てに住んでいて、三食カップ麺と大量のサプリメント、各種のお茶、という生活らしい。
この状態で、生ごみ処理のミミズコンポストを購入した、という点がよく分からない。生ごみ? 出ないじゃん! 実際、ミミズの餌には苦労しているのだが、著者の独断と偏見でなんとか凌いでいる様子が活写されている(これが原因で、何度かミミズの大量絶滅が起きているのだが…)。
でも、いいな。私も庭付き一戸建てに住んでいたのならば、ミミズコンポスト買って見たいな。地面もないマンション暮らしでは無理だけれど。まず、私ならば畑を作っちゃうな。
哲学者としては優秀なのだろうけれど、私に言わせれば生物学に関しては疎すぎる。だけれど、私はミミズに関してこれだけの薀蓄を傾けるのはとてもできない。久しぶりで息抜きをしました。


世界を騙しつづける科学者たち

2012-03-13 14:50:36 | 日記

ナオミ・オレスケス+エリック・コンウェイ著   楽工社刊

漸く読了した(正確に言うと、一部読み直している)。タイトルはちよっと分かりにくいが、要するに「御用学者」と置き換えれば中味の見当はつくと思う。しかし、読んでいて腹が立つ本である(著者ではない。ここに登場する科学者達にである)。本書で取り挙げられたテーマを列挙してみる。
「喫煙問題・ニコチン中毒」「スター・ウォーズ計画」「オゾンホール」「酸性雨」「DDТ」「二次喫煙」「地球温暖化」。お分かりだろか? どれもその実害が認められるまでに、数十年かかっている。いや、今もそれは間違っていると主張している科学者もいる。反対・否認に廻ったのは「御用学者」である。始末に負えないのは御用学者の殆どが、その問題のプロの研究者ではないことだ。その代わり、彼等にはたっぷりとした過去の権威と(つまり、現役をリタイアしている)、政府に有力なコネを持ち、当該企業から潤沢な資金を提供されている、寄生虫みたいな人間だったことだ。
しかし、アメリカだけの話ではない。日本にも同じ構図があることだ。古くは足尾銅山、水俣病、HIV、カネミ油、アスベスト、全く同じである。読むのに時間がかかったのは、これに尽きる。
しかし、である。よく書いたものである。明らかに権威に対する告発である。そのために、著者達は何十万ページにも及ぶ文書を調べ、歴史の研究のために数百万ページの資料に目を通している。しかも、原則として引用されている資料・当事者の発言はオンラインで検索できるように、アドレスが公開されている。
断っておきたい。本書を手にした人は、私みたいに中断しながらも読み通して欲しい。そうすれば、新たな問題を巡るひとつの「自分の視点」を持つことが出来る筈だ。しかし、疲れた。当分、この手の本は読めそうもない。

 

 

 

 


けむりの居場所

2012-03-10 08:37:21 | 日記

野坂昭如編  幻戯書房刊

肝心の本は、まだ読了していない。本書も気分転換に読んだ本(もっとも、私が持っているのは2006年の初版本なので、再版が出ているかどうかわからない)。
タイトルから分かるように、愛煙家32人のエッセイを野坂昭如が編纂したアンソロジーである。そこで、まずタイトルから。「けむりの居場所」はかつては男が集まる場所ならば、そこはそのまま居場所になった(大学の部室、雀荘、喫茶店、呑み屋等など)。しかし、喧騒と紫煙が当たり前だったビヤホールでさえ禁煙席がある当世、「けむりの居場所」は肩身の狭い思いをしているといっていい。
もうひとつ。昔は煙草は「呑む」ものであつた。何時頃からか「吸う」に変わった。それが今は「吹かす」だ。男も女も一服吸うと喉も通さず、天井に向かって煙を「ブハーッとフカす」。品がないですねぇ。「胸いっぱいに吸い込み、静かに吹き出しながら、紫煙の行方を追う」、なんていう風情は見たくても見られない。
こういう時代には、このアンソロジーは理解されないだろうな。深々と吸い込み、時に反省し、時に悩む。そして、静かに吐き出す紫煙の行方に視線を泳がす。一服の煙草に深く絶望したり、時には至福に身を委ねる。なんてこと、あるのだろうか?
このアンソロジーを読み返しながら、「居場所を失くしたけむり」に哀悼と同情を憶えてしまった。分かっていることは、この先「煙草に捧げるオマージュ(野坂昭如)」なんてアンソロジーは出て来ないのだろうな……。……嗚呼。

 


ブータン、これでいいのだ

2012-03-08 14:48:13 | 日記

御手洗端子著  新潮社刊

実は今、無茶苦茶腹の立つ本を読んでいる(著者にではない)。本書は気分転換のために買った本だが(本当に、4~5ページ読むと本を伏せたくなるのだ)、読み易さに任せて先に読了してしまった。
著者は2010年9月から一年間ブータン政府のGNHコミッションに初代首相フェローとして勤めた人。つまりお役人だった人。さすが、見るべきものを見、聞くべきことを聞いている。無論、私もブータンが「幸せの国」だと鵜呑みにはしていなかった。標高2500メートルのヒマラヤの麓にある国。面積は九州と同じくらい、人口68万人(東京の練馬区か大田区ぐらい)、この国にある資源は限られたものに違いないから、経済の飛躍的な発展など望むべきもない(念のため、世界地図で確かめてみてください)。
しかし、である。著者によれば、やっぱりブータンは幸せの国なのである。ただ、幸せを測るスケールの質と尺度が違うのである。詳しいことは本書に譲る。正に「百聞は一見に如かず」を地で行った本。著者は、もう一度ブータンに行くのではないだろうか。そんな予感がした。


 


利他的な遺伝子

2012-03-07 14:25:07 | 日記

柳澤嘉一郎著  筑摩選書

サブタイトルは「ヒトにモラルはあるか」。正直に言う。プロローグを読んだ時、胸に手を当てて考えた。「私の中に利他的な遺伝子はあるのだろうか?」。確かに著者が挙げる事例は私も見聞しているし、そういう事実は認める。しかし、私自身の中では「自分がこうすれば、褒められるのでないか? これくらいならば、自分に対してはさほど負担にはならないのでは?」という「利己的遺伝子」の囁きが聞こえてしまうのだ。しかし、自分の命が懸かった場合はどうだろうか。それを考えると「怖い」。
でも、そういう話ではないのですね。著者の言いたいことは至極真っ当なことで、「最近のキレる子供、両親」の原因を遺伝子レベルで解明することだったのて゜す。結論的に言えば、利己的遺伝子は古い遺伝子(人類を含めた生物が最初から持っていた)であり、利他的遺伝子は乱暴な言い方をすれば集団生活をするようになってから獲得した後発の遺伝子ということらしい。
安心した。私にも利他的遺伝子はあるのだ(まだ、明確に自覚はしていないが)。
つまり、今キレる世代が増えたのは、家族(三世代を含む親戚集団)の崩壊にある。要するに、利他的遺伝子の発露される現場を見ていない・経験していない、ということに尽きるらしい。いや、家族だけではない。企業も国家も同じ。
せめてもの救いは、我々は利他的遺伝子を体内に持っているということだ。今回の東北大震災が良い例だ。しかし、これは特異な例だ。日常的生活の中でこの遺伝子がさり気なく発露される社会を築くことが急務なのだろう。
著者のメッセージは重い!!

 

 

 


地上の飯

2012-03-03 15:12:23 | 日記

中村和恵著  平凡社刊

サブタイトルは「皿めぐり航海記」。不思議な文体というか、記述形式である。著者の執筆意図がよく分からない。食い物の味覚なのか、食い物の歴史的変遷なのか、食文化論なのか、何処に焦点を当てようとしているのかが判然としない。
しかも、文体も統一されていない、というか統一されているのだろうが、馴染めない。文章に味があるようで、リズムが乱されて落ち着かない。引用されている小説や文献も一般の人には馴染みがないものが多すぎる。但し、著者は比較文学・文化の研究者だそうだから無理もないが、読んでいる途中で「あなたが知っていれば、わかるでしょ!」、とはぐらかされる部分が多い。
プロの書評家はどう表現するのか分からないが、私には以上のことしか言えない。
そうしたことを勘案して読むのならば、興味ぶかい本ではある。「地上の飯」というタイトル、誰もが得心するタイトルではないと思う。