北の無人駅から

2011-12-29 08:40:19 | 日記
渡辺一史著  北海道新聞社刊  

タイトルから、一瞬鉄道マニアの本と思うかもしれない。勿論、違う。本書は北海道の無人駅をピンポイントとして、その地域の興亡・現在をルポタージュした本。
例えば、野生の丹頂鶴が見られる釧網(せんもう)本線・茅沼駅。旅行者はキレイ・ステキと声を挙げていればいいが、かつてはその地域の人々にとっては丹頂鶴は害鳥だった。同じ釧網本線・北浜駅は流氷が見られるので有名だが、その地域の漁師にとっては漁ができない最悪の季節だった。今でこそ観光客が押し寄せているが、地球温暖化で流氷があまり接岸しなくなっているという。また、かつてのように冬の出稼ぎが復活するのだろうか。大規模米作で知られる北海道だが、そこには様々な問題が渦巻いている。揺れ動く国の農業政策、農協、後継者問題。札沼線・新十津川駅をピンポイントに考えてみる。
本書は無人駅というピンポイントを通して、北海道の歴史、産業構造、経済、文化を考える。つまり、ただ通り過ぎる観光客の我々には到底知ることが出来ない、北海道の現状報告である。
内容的にも膨大・充実している本だが、本自体も半端ではない。B6判で約800ページ。各章ごとに本文より細かい字で、必要なデータがビッシリと満載で他の資料を参照しなくても充分理解できる。ただし、通勤途中で読むにも寝転がって読むにも重すぎる。正月に書斎でじっくり読む本というのが正しい。
正直言うと、購入したのが22日、読了は今日になった。「講釈師見てきたような嘘を言い」という俚諺があるが、この一冊で北海道に行ってない人でも薀蓄を傾けられることだけは、保証する。もっとも、「百聞は一見に如かず」という俚諺もあるのだが……。ともかく、全く新しい紀行文だと言える。


世の中ついでに生きていたい

2011-12-23 15:07:38 | 日記
古今亭志ん朝  河出文庫

彼が亡くなって十年経った。この対談集は、志ん朝の父・志ん生が亡くなった直後から、彼自身が亡くなった年の対談が収録されている。そこには真打時代から重鎮と言われた、二十八年間の月日が経っている。対談の相手は、山藤章二・金原亭馬生(実兄)・池波正太郎・池田弥三郎・結城昌治・中村勘九郎(現・勘三郎)・荻野アンナ・江国滋・中村江里子・林家こぶ平(現・正蔵)の十人。
志ん朝が落語をどう考えていたか、その軌跡が辿れる内容になっている(上手い構成だ)。その語り口が堪らない。正に東京っ子そのもの。あの端正な口座が懐かしい。
それで思い出すのが、今年鬼籍に入った談志だ。確かに落語をよく知っていたし、噺家の評価を語らせたならば一流だった。しかし、如何せん実際の口座は崩しすぎ、乱暴だし、聞き苦しいことがしばしばだった(そこが良いという人も居るのは承知の上で)。端正と言うには程遠っかった。
そして、志ん朝が語る父親の志ん生は破天荒な人と言われているが、存外律儀な人だったらしい(身内の者だから分かるのだろう)。談志は志ん生が好きだったそうだが、形ばかり真似たのであり、その本質は学ばなかったのではないか。
真っ当な噺家が居なくなって、久しい。




歳月なんてものは

2011-12-22 08:38:13 | 日記
久世光彦著  幻戯書房刊

タイトルがいい。如何にもこの人らしい。このタイトルから「月日は百代の過客にして、行き交う年も旅人也」(『奥の細道』松尾芭蕉)を連想したのは私だけだろうか? 
本書はこれまで発表されていなかった、幻のエッセイ集。本書の前半は、自身が監督した折に起用した俳優の人物評。観る人と創る人の視線の違いに驚く。
後半は、生まれてから越し方に到る間に出会った人や本に関する想い出。書評や人物評ではない。出会い、その時の時代背景、何十年も経っても残っている想いが書かれている。
このエッセイで印象に残ったのは、今の人々は「貌」がないと指摘していることだった。「顔」ではない。少し説明が必要かもしれない。
彼は映画やドラマの題材を、大正から昭和初期の文学や随筆から選ぶことが多かった。そこで、俳優を起用しようとするのだが、それにぴったりの顔を持った俳優がなかなか見つからなかったというのである。つまり、その時代の空気、その主人公の生き様、雰囲気を出せる人が居なくなったということである。「顔」ではなく「貌」である所以である。
調子に乗って言わせて貰えれば、今の人たちの顔からはその人の人生、越し方が見えない。のっぺらぼう、だということ。なんとなく分かる気がする……

牡蠣と紐育

2011-12-19 15:20:15 | 日記
マーク・カーランスキー著  扶桑社刊

昭和30年代の初頭まで、山手線の内側、品川を過ぎて田町・浜松町あたりは東京湾が入り込んでいた。入り江の砂浜には海苔が干してあり、魚網も干してあった。浜松町を過ぎても掘割には、釣り船や屋形船がもやいでいた。屋形船では東京湾の魚介類の刺身や天麩羅が楽しめ、白魚の季節には天麩羅や踊り喰いができた。私が初めて白魚の踊り食いをしたのも、この屋形船であった。
それが東京オリンピックを境に東京湾は汚染し、江戸前の魚介類はおろか、漁場まで存続を危うくした。今はやや回復したと言うものの、往時には及ばないでいる。
前書きが長すぎた。本書はこれのニューヨーク版である。ニューヨークの歴史は1609年にオランダに雇われた英国人・ヘンリー・ハドソン(ハドソン川にその名を残している)がニューヨーク湾に到着した時から始まる。
そこには世界でも一番(当時)と言われた大ぶりの美味しい牡蠣が、なんの苦労もせず手掴みで採り、それを当たり前に食べている現地人がいた。それからは入植したヨーロッパ人に知られるところとなり、かれらが訪れる牡蠣の名所となった。しかし、20世紀に入って工業化と人口密集の結果、ニューヨーク湾は牡蠣どころか魚も住めない海となってしまった。
同じである。東京もニューヨークも計画性のない都市である。問題が起きてから重い腰を上げる。しかし、そもそもの基盤が崩壊しているので、その対処法は常にその場凌ぎでしかない。両都市ともかつての豊穣な海には戻れない。残念だが。
今、日本は世界中から魚介類を調達している。その調達先で東京湾と同じ「愚」を犯しているのではないか? その国の豊かな自然を破壊しているのではないか? それが心配。「過ぎたるは及ばざる如し」飽食・グルメであることが、そのお先棒を担いでいることを忘れてはいけないい。


いつもそばに本が

2011-12-16 15:08:14 | 日記
ワイズ出版刊

本書は、朝日新聞読書一面に掲載された「いつもそばに本が」(1999ー2004)を書籍化したもの。どうして朝日新聞が書籍化しなかったのか、分からないが。執筆者は75名中73名分を収録している。
いずれの方々も書き物を職業としている人々。まず負けたのは、凡そ四分の三が私より年上であり、一人ひとりが読んでいる本の量とジャンルの広さだった。しかも、戦中・戦後の活字枯渇の時代を挟んで、である。勿論、というか辛うじてというか、この方々の読んだ本の七割方は私も読んでいる。但し、一部は仕事絡みで仕様ことなしに読んだものもあるが……。
しかし、本を読むという行為と理由は人様々であると尽々思った。そして、読書が身の糧になるということも。読書の功罪については、人それぞれに見識があると思う。しかし、その見識も読書によって培われたものであることを忘れてはいけない。人は人生の何処かで読書に耽溺するものらしい。それをパスするのは勿体ない。
印象に残ったことをふたつ。ひとつは何人かの方が、辞典・事典・字典・辞書・図鑑・年表を座右の書としていること。二つ目は、翻訳物に関して多くの方が原書を読んでいること(かなりの苦労と年単位の時間をかけて)。
古い俚諺に「聞くは一時の恥。聞かぬは一生の恥」というのがあるが、これに倣えば「調べぬは一生の恥。調べるは一生の得」ということになろうか。

河北新報のいちばん長い日 -震災下の地元紙ー

2011-12-14 08:18:27 | 日記
河北新報社著  文藝春秋刊

本書は10月30日に初刷が出た。それから約1ヵ月で第3刷が出ているから、好評だったことが分かる。何故、今日まで読まなかったかというと、本書の内容は十分想像できたからだ。私も大同小異の経験をしているので、その修羅場と葛藤は分かっていたということもある。もうひとつは、半年ちょっとで出版されたことにある。どう考えても、まだ渦中の最中なのに……という気もしていたからだ。
詳しくは本文を読んで欲しい。最初の山場を過ぎたあたりで、メンバーの中に気構えとか心理的な面に揺らぎが出てくる。それを解消するために全社員に実名のアンケートを取ったところに、河北新報社の真骨頂がある。「こんな時にアンケートでもあるまい」という声が聞こえそうである。
しかし、これで自分ひとりの悩みではないんだという、社員同士の共感を持てたことに加え、それが上層部に編集方針の転換をさせることにも繋がった。これは容易にできることではない。それを可能にしたのが「震災下の地元紙」という義務感だった。
もうひとつ素晴らしいのは、河北新報社はいち早く当初からの報道記事の検証を始めたことである。しかも「この記事は誤報であった」と発表し、さらに、記事の中で中途半端だったものについては、追跡記事も発表した。
こうした事は、これから河北新報社を継いで行く若い人達の財産になるし、同社の未来を約束するものだろう。
最後に印象に残った一文を挙げる。避難情況を撮影すべく上空をヘリコプターで飛んだカメラマンの一言。「ごめんなさいね、ごめんなさいね、ごめんなさいね……僕たちは撮ることしかできない。助けてあげられないんだ……」。
「熱い本」である。


ディア・グロリア -戦争で投函されなかった250通りの手紙ー

2011-12-11 16:17:24 | 日記
木村太郎著  新潮社刊

帰国子女にも、帰国のタイミングというものがあるのだろう。帰国直後の横浜港で「私が船を降りた時、一人の男が間違いなく悪意をもって私を蹴った」という一行がある。無理もない。主人公一行が日本に帰国した時は、第二次世界大戦から二年後(1941)で「贅沢は敵だ」が日本国民の共通標語だったからだ。
主人公は、元NHKのニュースキャスターの木村太郎氏の姉上。6歳で父親の仕事の関係で渡米し、7年間そこで教育を受けた人。つまり英語が母語であり、アイデンティティーも米国人だった。本書は彼女の没後発見されたアメリカの同級生に宛てた「投函されなかった手紙(投函できる筈はなかった。投函したらスパイ罪で投獄されていただろう)」を元に木村太郎氏が再構成したもの。
彼女は終生、アメリカに好感を持ち続けた。手紙も綺麗な筆記体で書かれており、途中からもう英語は使わないと言いながら、日本語が自由にならないもどかしさから途中から英語になっているほどである。
冒頭にもどる。同じような状況下で帰国した、哲学者の鶴見俊輔氏は二度とアメリカに行くことを拒んだ(詳しくは『日米交換船』新潮社刊を参照)。敗戦後ではあるが、チェコスロバキアから帰国した米原万理は、日本の教育制度に義憤を憶え亡くなるまで抗議の声を挙げ続けた。
つまり、どのような状況下に帰国したかで、その心理の葛藤は違ってくる。本書はそこの所を考えさせる本だ。と同時に、アイデンティティーがどのように形成されるものなのか、外国語を話せれば国際人なのか、本人の生まれた国の歴史も知らず他国の人々と対等に意思の疎通が測れるものなのか、そういった様々な事を考えさせられた。 



翁 OKINA ―秘帖・源氏物語ー

2011-12-08 16:40:51 | 日記
夢枕獏著  角川文庫

夢枕獏と『源氏物語』はちょっと違和感がある。その直感は当たった。登場するのは光源氏・葵の上・六条御息所の三人(夕顔の君がちょこっと登場するが)。そして狂言廻しは外法の陰陽師・蘆屋道満。
道満が登場する以上、源氏物語の展開とはことなり、夢枕獏ワールドになる、筈なのだが。一応「秘帖」と断っているが、とてもこれだけでは「秘帖」とは言えない。いつものとおり、彼はあとがきで「すみませんが傑作です」と書いているが、今度ばかりはオーバーラン。彼の精緻な物語構成も、奥の深さもない。次回作を期待しよう。

猛女とよばれた淑女  -祖母・齋藤輝子の生き方ー

2011-12-06 09:55:43 | 日記
斎藤由香著  新潮文庫

著者は斎藤茂吉の孫娘、北杜夫(斎藤宗吉)の娘。主人公の輝子さんは茂吉の奥さん。
一族の中で斎藤茂吉を大学の卒業論文のテーマにしたのは、著者ひとりということに不思議な気がした。精神医学の血脈は連綿と受け継がれているのに……。
なにより嬉しいのは、美しい日本語である。もちろん日常で身についたものだろうが、一族すべての人たちが、実に丁寧語を使いこなしている。とても今の我々には使いこなせないのではないだろうか。
本書の内容については、いろいろな書物を読んで知っていることばかりだけれど、家族だから書ける臨場感がこの本の読みどころではないか。読後に誰もが思うのは「明治生まれの女性は強い」ということだろう。齋藤輝子だけではない。無名の人々もそうだつた。私の祖母もそうだつたので、よく分かる。

スエズ運河を消せ -トリックで戦った男たちー

2011-12-01 09:49:41 | 日記
デヴィッド・フィッシャー著  柏書房刊

無茶苦茶面白い。大人が読む劇画です。
戦争にカモフラージュは付き物で、トロイの木馬はその代表だろう。ただし、これを立案・実行したのは多くが軍人だった(と言うか、軍人の発想に基本を置いていた)。この本のユニークなのは、それを担当したのイギリスで10代続く名門のマジシャンだったことである。ここに、発想の違いがある。マジシャンは限られた空間でマジックを披露する。広大な戦場でそれは可能か? 彼をスカウトした軍の関係者も、それに応えたマジシャンも凄い。
主人公はジャスパー・マスケリン。現代マジックの父と言われたジョン・ネビィル・マスケリン(八代目・業界標準のタイプライターのキーボード配列も発案した)の孫。優秀な家系らしく、三代目のネビィル・マスケリン宮廷天文学者としても有名で、世界で初めて一秒の十分の一の時間を測定したそうだ(勿論、本業はマジシャン)。
時は第二次世界大戦、舞台はアフリカの西方砂漠、騙す相手はドイツ軍の砂漠のキツネと言われたロンメル将軍。アレクサンドリア港を2キロ動かしたり、スエズ運河を消したり……。
ついていけない部分、凡人には想像できない話が出てくるが、イメージを助ける口絵もあるので十分楽しめる。
そう言えば、現代でもベニヤ板で高層ビルを建てて、見栄を張っていた国がありましたよねぇ。