あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

そこに山があるからだ。(自我その156)

2019-07-12 19:27:37 | 思想
「そこに山があるからだ。」という言葉は、イギリスの登山家のジョージ・ハーバート・リー・マロリーの言として知られている。しかし、彼の言った言葉は、「そこにエベレストがあるからだ。」である。1923年3月18日付きのニューヨーク・タイムズの記事に、彼が記者から、「あなたはなぜエベレストに登りたいのですか。」と聞かれ、「そこにエベレストがあるからだ。」と答えたということが載せられているのである。翻訳した日本人が、「そこにエベレストがあるからだ。」を「そこに山があるからだ。」と意訳し、それが、一般的に知れ渡ったのである。しかし、エベレスト山に登る理由を尋ねられ、そこにエベレスト山があるからと答えたのでは、答えになっていない。しかし、ジョージ・ハーバート・リー・マロリーにとって、エベレスト山は世界最高峰だから、登山家が登頂を目指すことは当然のことであるので、改まって尋ねられると、返答に窮し、「そこにエベレストがあるからだ。」と答えるしかなかったのである。しかし、彼に限らず、登山家が山に登る理由ははっきりしている。山と対峙し、山を征服したいのである。山頂を極めることが山を征服することなのである。特に、エベレスト山は世界最高峰だから、山頂を極め、征服することが登山家の憧れなのである。ジョージ・ハーバート・リー・マロリーは、1924年6月、アンドリュー・アーヴィンと共に、エベレスト山登頂を目指したが、北東稜の上部、山頂付近で行方不明になり、遺体は、1999年5月1日、国際探検隊によって発見されている。しかし、日本では、古来、山は、神が降下し領する所や神が住む清浄の地として信仰の対象とされたり、自然の恵みをもたらしてくれる感謝すべき場所とされたり、恐ろしいものを住む畏怖すべき場所とされたりして、決して、人間と対峙するものではなかった。確かに、明治時代以来、日本にも、登山する風習が始まったが、それは、欧米人が、明治初期、日本の山々を登ることだけを目的としたもの、すなわち、登山したことを模倣したのである。つまり、日本人は、欧米人から、登山の概念を学んだのである。しかし、なぜ、欧米人は登山を始めたのだろうか。確かに、キリスト教には、自然は、人間より格下と見る教えがある。しかし、自然が格下と決まっているならば、敢えて、登山することによって、征服する必要はなかったはずである。また、なぜ、日本人は、信仰・感謝・畏怖すべき対象としての山の意味合いを捨てて、山を、登山という形で、征服する対象としたのだろうか。それは、人間の深層心理には、対自化という、全ての存在者・存在物を支配・征服したいという欲望があるからである。ニーチェの言う「権力への意志」とは、対自化が最高潮に達した時、若しくは、人間が意識して対自化を行う時に使われる。欧米人が、山頂を極めることで、山を征服しようと考えたのは、人間が山を見上げなければならない立場にいることが我慢ならなかったからである。山の屹立している姿に、我慢ならなかったのである。日本人が、登山という形を採用したのは、欧米人から、山を征服する喜びを学んだからである。しかし、人間は、山に対してだけでなく、人間に対しても、対自化する時がある。人間の深層心理の機能として、対自化の他に、対他化、共感化がある。対自化とは、これまで述べてきたように、他者や存在物に対して、征服欲・支配欲の視点から観察し、できうれば、征服欲・支配欲を満たすことである。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。言わば、被征服・被支配の視点である。だから、サルトルは、人間は対自化と対他化の相克であり、対自化を目指さなければならないと言ったのである。共感化とは、敵や周囲の者と対峙するために、他者と愛し合ったり協力し合ったりして、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにすることである。人間は、自らの存在が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探る。人間は、自分の存在が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、不安な時は、他者と共感化して、自分の存在を確かなものにしようとする。このように、人間は、自我の思いを主人にして、深層心理が対自化・対他化・共感化の機能を働かせている。だから、決して、他者や組織・集団のために、自我が存在するのではない。自我のために、他者や組織・集団が存在するのである。他者と協力するのは、共通の目的があるからである。自殺するのは、それによって、自我の存在をアピールするためである。互いに、自我が他者をそのように扱っているから、サルトルは、「地獄とは、他者のことである。」と言ったのである。ちなみに、「そこに山があるからだ。」という言葉は、「登山は、人生の目的に似ている。そこに山があるから登るのであり、登る理由は分からない。それと同じように、今目的としていることは、なぜ、目的としなければいけないか、その理由は分からない。それでも、登山は良いことであり、人生も、何か目的に向かってひたすら進むのは良いことだ。」という人生訓になっているのである。確かに、この人生訓は励ましにはなるが、人生の内実には当たらない。人生は、登山と異なり、最初から最後まで目的が同じでもなく、ルートも決まっていない。