あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自我の欲望を誠らしく話す人にだまされてはいけない「ギャラより高い交通費」。(自我その167)

2019-07-26 17:54:24 | 思想
吉本興業(吉本興業ホールディングス株式会社)の岡本社長は、7月22日の会見で、「タレント、社員を含めて、吉本興業は、全員が、家族、ファミリーであると考えています。」と語った。「人間関係がベース」の会社なのだと主張する。だから、書面契約を交わさず、口頭契約にしていたと言う。書面契約は水臭いというわけである。あきれ果てた主張である。しかし、現代社会においても、このような詭弁がまかり通っていた会社が存在するのである。言うまでもなく、会社が芸人に対して書面契約をしなかったのは、高額の上前をはねるためである。高額のピンハネをするためである。法外に高額の上前・ピンハネが露見するのを恐れて、書面契約を交わさなかったのである。吉本興業は、「若者の夢を叶える会社」という触れ込みで、NSC(吉本総合芸能学院)で、若者から年間54万円もの授業料を納めさせ、芸人からは、法外に高額の上前・ピンハネを掠め取ってのし上がった会社なのである。いわば、吉本興業は、若者・芸人の生き血を吸って、肥え太った会社なのである。しかし、資本主義という経済体制において、吉本興業の経営陣だけが労働者を搾取することを考えているのではない。全ての資本家階級・経営陣が考えていることなのである。現代日本においても、資本家階級・経営陣は、日本の若者・外国人労働者を搾取している。それは、ブラック企業と言われている。しかし、吉本興業は、ブラック企業と呼ばれたことは一度も無い。しかし、吉本興業は、ブラック企業と同じことをしていたのである。つまり、吉本興業がブラック企業であると露見したのである。「若者の夢を叶える会社」であるはずの、日本最多の芸人を抱える、有名な吉本企業がブラック企業であったことに、マスコミも大衆も驚いたのである。そもそも、資本主義は、封建体制下に現れ、18世紀のイギリスの産業革命によって確立され、それが、ヨーロッパ、アメリカ、そして、日本に広まったものである。初期の頃は、日本でも戦前もそうであったが、全ての企業はブラック企業であった。しかも、国家権力は、警察や軍隊や暴力団を使って、そのブラック企業を守ろうとした。それに対して、ドイツの哲学者、マルクスは、労働者(プロレタリア)に、団結して、資本家(ブルジョア)に対して革命を起こして、私有財産制の否定と共有財産制の実現によって、貧富の差の無い、共産主義社会を実現するように呼びかけた。全世界の労働者(プロレタリア)が、Iその呼びかけに応じて、各国で、共産主義革命運動が起こった。成功したのは、ソ連、中国、北朝鮮、キューバなどの一部の国であったが、各国の権力者や各企業の経営者(資本家)は、共産主義革命運動に恐れを成し、企業を、経営者(資本家)の権利だけを認めるブラック企業形態から、労働者の権利も認める開かれた企業形態に変えていった。日本の企業も、戦前は、国家権力、警察、軍隊、暴力団によって、ブラック企業だったが、戦後は、アメリカの力で、労働者の権利も認める開かれた企業形態に変えられた。しかし、労働者(プロレタリア)自らが勝ち取った権利では無いので、吉本興業などのブラック企業が残ったのである。労働者(プロレタリア)自らが団結して勝ち取らない限り、ブラック企業形態は残存するのである。吉本興業には労働組合が無い。吉本興業がブラック企業であり続けているのは当然のことである。ちなみは、マルクスは天才である。資本主義の正体を暴き、共産主義革命の必然性を説いたところには、一点の狂いも無い。よく、テレビ番組で、東大生や東大出身者を天才と呼ぶが、彼らは天才では無い。単に、日本の受験競争に勝ち抜いただけである。マルクスと彼らの才能は、天と地のほどの差がある。安倍源基は、東京帝大法学部法律学科卒業であるが、戦前の特高部長時代、小林多喜二など、数十人を拷問死させている。岸信介は、東京帝大法学部法律学科卒業であるが、戦前、満州国実業部部長時代、アヘンを売りさばき、戦争を起こした東条内閣の商工大臣であり、戦後、A級戦犯から解放され、首相となり、60年安保闘争時には。デモ隊を抑えようとして、自衛隊だけで無く、暴力団まで使おうとした。佐藤栄作は、東京帝大法学部法律学科卒業であるが、沖縄返還時に、密約で、アメリカに多額のお金を払い、沖縄に、核を持ち込むことも、核を置くことも、認めている。そして、日本国民と共に世界の人々に対して、アメリカに非核三原則を守らせるとだまし、ノーベル平和賞を受賞している。現在、テレビ番組のクイズ番組によく出る東大生の二人が、交際していた女性に、妊娠中絶させている。ところで、天才のマルクスであるが、構造体における、深層心理から起こる自我の欲望に気付かなかった。それは、マルクスの活躍以後、フロイトの無意識(意識や意志という表層心理では無く、人間が直接に意識できない、深層心理が人間の心を動かしている)の思想、ニーチェの力への意志(他を征服し同化しいっそう強大になろうという意欲)の思想が現れたために、マルクスがそれらに気付かなかったからである。マルクスは、どのような国になろうと、たとえ共産主義の国家になろうと、権力者は自我の欲望に基づいて行動することに気付かなかったのである。だから、マルクスは、ソ連という共産主義国家の構造体でも中国という共産主義国家の構造体でも、共産党幹部という政治権力者が自我の欲望に基づいて独裁政治を行い、北朝鮮という共産主義国家の構造体でも、金一族が政治権力者という自我の欲望に基づいて独裁政治を行うなどということは考える由も無かったのである。さて、次に、構造体と自我について、三つの特徴を挙げ、それを吉本興業という構造体に当てはめて考えていこうと思う。第一の特徴として、人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動しているということである。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。吉本興業という構造体について言えば、社長・会長・社員・マネージャー・芸人などの自我があるのである。第二の特徴として、自我は構造体の存続・発展に尽力するということである。それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。吉本興業という構造体について言えば、現在の岡本社長・大崎会長の吉本体制を支持している芸人たちが、現体制批判者を非難するのは、吉本興業が消滅してしまうと、芸人という自我を失う虞あるからである。第三の特徴として、人間は、構造体において、自我を主人にして、深層心理が対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて、行動しているということである。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。共感化とは、何か。共感化とは、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と愛し合い、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。往々にして、人間は、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探る。人間は、自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、自我が不安な時は、他者と共感化して、自我のの存在を確かなものにしようとする。吉本興業という構造体について言えば、経営者側は、書面契約をせずに、自我の立場を優位にして、芸人たちを対自化して、支配しているのである。芸人たちは、自我の立場が弱いから、経営者側に対して、自らを対他化して、気に入られようと振る舞ってきたのである。芸人たちは、互いに共感化して、経営者側に、書面契約などの権利を要求すべきだったのである。確かに、吉本興業は、ブラック企業であり、経営者側は、芸人に対して書面契約をせずに、法外に高額の上前・ピンハネをかすめたのは、とんでもないことである。しかし、誰が、吉本興業の経営者になろうと、芸人に対して書面契約をせずに、法外に高額の上前・ピンハネをかすめただろう。なぜならば、人間は、どのような構造体であろうと、自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとするからである。第三者の権力が介入するか、芸人たちが、共感化して、待遇改善を求めなければ、事態は動かないのである。今回、マスコミが騒ぎ、公正取引委員会が、書面契約にするように促したから、書面契約の流れができたのである。しかし、それに対しても、岡本社長は、希望する芸人に対しては書面契約をすると言い、依然として、書面契約の無い状態の旨味に執着し、それに固執しているのである。希望者だけということにすれば、芸人に圧力を掛けて、希望しないという選択をさせることができるからである。また、岡本社長は、会社とタレントとのギャラ配分について、「ざっくりとした平均値で言っても、5対5か、6対4です。」と語ったが、芸人たちは、自らの経験を挙げて、「9対1」、「8対2」なのでは無いかと反論している。かつて、「ギャラより高い交通費 大きなお金は会社側 小さいお金は芸人に おもしろそうに稼いでる」と、明石家さんまが、吉本興業の芸人たちのギャラ事情を、自らの経験を踏まえて、自虐的に歌っていた。言うまでもなく、多くの日本国民に親しまれている、童謡「こいのぼり」の「屋根より高い鯉のぼり 大きい真鯉はお父さん 小さい緋鯉は子供たち おもしろそうに泳いでる」の替え歌である。もしも、岡本社長の言う通りならば、この替え歌はできなかったはずである。また、大谷由里子という、吉本興業の元マネージャーの女性が、テレビの情報番組に、頻繁に登場し、「売れっ子になれば、書面契約になります。」と言っていた。しかし、友近も、ハリセンボンの春菜も、コロコロチキチキペッパーズのナダルも、書面契約はおろか、口頭契約すらしていないと言う。他の売れっ子芸人も異口同音に言う。一人として、書面契約は、もちろんのこと、口頭契約すらしていないと言う。吉本興業の芸人たちは、グッズの売り上げ、単独ライブ、興行、テレビ出演料の全額を知らず、明細を渡されること無く、雀の涙ほどのギャラに甘んじてきたのである。大谷由里子は嘘を付いているのである。彼女は、かつては、吉本興業に勤め、マネージャーとしての自我があり、言わば、吉本興業の共犯者だったから、嘘を付くのである。テレビ局は、吉本興業に自我のある者、自我のあったものを、コメンテーターとして呼ぶべきでは無いのである。なぜならば、自我の欲望に基づいて、嘘を付き、解説するからである。テレビ局は、政治解説者の人選も誤っている。その政治解説者とは、安倍晋三や自民党国会議員と仲間になっている田崎史郎である。田崎史郎は、彼らと仲間を作り、友人という自我を持っていることに喜びを感じている。だから、田崎史郎は、定期的に、彼らと会食し、彼らから情報を得られたとことを自慢げに話す。政治権力者たちと友人になった政治評論家は、政治評論家では無い。なぜならば、権力者と友人になれば、権力者の批判ができないからである。だから、田崎史郎は、安倍晋三、安倍政権、自民党を擁護する発言を繰り返す。と金は、顔を真っ赤にして、彼らの批判者に対して、彼らを擁護する。単なる支持者ならば、そういう人も存在するだろう。しかし、このような人は政治評論家では無い。このような人を情報番組によく呼ぶテレビ局もどうかしている。おそらく、テレビ局の上層部も、安倍晋三や自民党国会議員と仲間になり、友人という自我を持っているのだろう。                   

学校からいじめ自殺者が出なくなることは永遠に無い。(自我その166)

2019-07-24 17:10:54 | 思想
なぜ、日本では、大学生には、いじめが原因の自殺がほとんど無いのに、小学生、中学生、高校生には、多いのだろうか。第一の理由として、大学生は、小学生、中学生、高校生より精神年齢が高く、いじめる気にもならず、また、いじめられても、泣き寝入りをせずに、戦うことが考えられる。第二の理由として、大学生は、講義や演習を受けるために部屋を移動しなければならないのに対して、小学生・中学生・高校生は、授業を受けるための教室が固定しているということが考えられる。さて、人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。大学生にとって、構造体は、大学であり、自我は学生であるが、小学生・中学生・高校生にとって、構造体はクラスやクラブであり、自我はクラスメートや部員である。それが、いじめの原因になっているのである。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体と自我の関係について、具体的に言えば、次のようになる。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教頭・教諭・生徒などの自我があり、クラスという構造体では、担任の教師・クラスメートという自我があり、クラブという構造体では、顧問の教師・部員などの自我があり、大学という構造体では、学長・教授・准教授・学生などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。それでは、人間は、各々の構造体において、どのように考えて行動しているのだろうか。人間は、構造体において、自我の思いを主人にして、深層心理が対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、行動しているのである。しかし、人間は、決して、意識的に自分の意志で考えて、言い換えれば、表層心理が考えて行動しているのではない。人間は、無意識的に、言い換えれば、深層心理が対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて考えて、行動しているのである。また、自我は構造体の存続・発展にも尽力するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。さて、それでは、対他化とは、何か。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。対自化とは、何か。対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。共感化とは、何か。共感化とは、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と愛し合い、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。往々にして、人間は、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探る。人間は、自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、自我が不安な時は、他者と共感化して、自我のの存在を確かなものにしようとする。だから、サルトルは、人間は対他化と対自化の相克であり、対自化を目指さなければならないと言ったのである。さて、それでは、なぜ、小学生・中学生・高校生にとって、毎日の生活の構造体はクラスであり、自我はクラスメートであることが、いじめを生むのか。それは、閉ざされ、固定されたクラスという構造体で、毎日、同じクラスメートと暮らしているからである。毎日、同じクラスメートと暮らしていると、必ず、嫌いなクラスメートが出てくる。好きなクラスメートばかりでなく、必ず、嫌いなクラスメートが出てくるのである。しかし、人間は、好き嫌いの判断・感情を、自ら意識して、自らの意志で、行っているわけではない。意志や意識という表層心理とは関わりなく、深層心理が嫌いなクラスメートを出現させるのである。しかし、生徒は、クラスに嫌いなクラスメートがいても、それを理由にして、自分が別のクラスに移ることもその嫌いなクラスメートを別のクラスに移すことも許されない。わがままだと非難されるから、また、恥ずかしくて、言えない。しかし、クラスという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いなクラスメートと共に生活することは苦痛である。トラブルが無くても、そのクラスメートがそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。いつしか、不倶戴天の敵にしてしまう。すると、自らの深層心理が、自らに、その嫌いなクラスメートに対して攻撃を命じる。しかし、自分一人ならば、勝てないかも知れない。また、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れない。そこで、自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちは、仲間という構造体から、自分が放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。担任の教師も、いじめに気付いていても、いじめている生徒たちはクラスのイニシアチブを握っていることが多く、彼らを敵に回すと、クラス運営が難しくなるから、いじめに気付いても、厳しく咎めることはせず、軽く注意するか見て見ぬふりをするのである。また、いじめられている生徒というのは、クラスメート間で力が無いからいじめられるだけでなく、往々にして、担任の教師の言うことをそのままを実行する力が無いから、担任にとっても、嫌いな生徒の部類に属し、積極的に助ける気にならないのである。往々にして、よく、いじめが原因で自殺した生徒が出ると、担任の教師はいじめられているのに気付かなかったと言う。しかし、それは、嘘である。毎日、顔を合わせているのに、知らないはずが無い。また、クラブという閉ざされ、固定した構造体においても、同じである。生徒は、毎日、同じ部員と活動していると、必ず、嫌いな部員が現れる。しかし、クラブの参加は自由だと言われながらも、退部や転部は、顧問の教師が恫喝し、担任の教師や親が反対し、他の部員たちが白い目で見るから、その部に留まるしか無いのである。しかし、クラスと同じく、クラブという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いな部員と活動することは苦痛であり、その生徒から攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。すると、深層心理が、その生徒に対して攻撃を命じる。しかし、クラスと同じく、自分一人ならば、勝てないかも知れないし、周囲から顰蹙を買うかも知れないから、ためらう。そこで、自分に、仲間という構造体があり、共感化する友人たちがいるので、友人たちに話し、友人たちが加勢し、いじめが可能になるのである。顧問の教師も、同じである。毎日、同じ部員たちに接していると、必ず、嫌いな部員が出てくる。これも、自分の意志で嫌いになろうと思ってそうなるのではなく、深層心理が嫌いな部員を出現させるのである。生徒と同じく、クラブという閉ざされ、固定された空間で、毎日、嫌いな部員に接することは苦痛であり、その部員から攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。すると、深層心理が、その部員に対して攻撃を命じる。ここは、生徒と違い、顧問の教師は、部員に対して権力があり、クラブは鍛錬の場であるという言い訳が利くから、部員に辛く当たっても、許されると思い、体罰を行うのである。そして、苦痛から逃れ、心を癒やそうとするのである。しかも、クラブは、顧問の教師と部員、先輩と後輩の上下関係を中心に動いているから、顧問の教師が、嫌いな部員から、何かの形でプライドが傷付けられると、容易に、体罰の形になって、復讐心を発揮する。よく、自分の体罰が原因で自殺した部員が出ると、顧問の教師は、指導の一環だったと答える。しかし、それは、嘘である。その部員が嫌いだったから、厳しく当たり、体罰を加えたのである。さて、先に述べたように、人間の深層心理は、他者を好悪する機能を有している。だから、人間には、いつの間にか、無意識のままに、好きになる人ができ、嫌いになる人ができている。だから、クラスという構造体にも、クラブという構造体にも、嫌いな人ができるのは当然のことである。しかし、クラスという構造体にしろ、クラブという構造体にしろ、閉ざされ、固定した空間であるから、嫌いなクラスメートや部員ができても、毎日顔を合わせなければいけない。そこに、問題が生じるのである。毎日顔を合わせ、その度に苦痛を感じ、心が傷付く。そして、その復讐のために、いじめを行うのである。だから、クラスやクラブという構造体が閉ざされ、固定した空間である限り、いじめが無くなることは無いのである。小学校・中学校・高校も、大学のように、授業を受ける時は、生徒自らが教室を移動し、クラスという閉ざされ、固定した構造体で無くなれば、いじめは激減し、自殺する生徒はいなくなるだろう。中学校・高校のクラブという構造体も、転部、退部が自由という解放された空間にすれば、いじめは激減し、自殺する生徒はいなくなるだろう。しかし、日本人の多くは、小学校、中学校、高校という構造体においては、クラスやクラブを閉ざされた構造体にし、固定したクラスメートたち、固定した部員たち、固定した担任の教師、固定した顧問の教師にしなければ、有効な指導ができないと思っている。だから、クラスやクラブという構造体が解放されることは無いのである。それ故に、日本の小学校・中学校・高校から、いじめが激減することも、いじめによる自殺者がいなくなることも、永遠に無いのである。

いじめ自殺事件における校長の記者会見について(自我その165)

2019-07-23 16:21:57 | 思想
いじめによる自殺生徒が出ると、常に、テレビの情報番組が次のようなシーンを映し出す。当該の学校の校長が、教頭を伴って、事件の経緯を説明するために、テーブルを前にして椅子に座り、こちらに向かって、マスコミの質問に答えている。校長たちは、異口同音に、「いじめ教育を毎年行い、いじめの有無を確認するアンケートも実施していたのですが、本人は書いていなかったようです。」、「いじめにあっているとは、知りませんでした。」、「担任も、本人から訴えが無かったので、いじめがあったことは知らなかったようです。」、「今の段階では、いじめが自殺の原因だと断定できません。」などと答える。すると、番組のコメンテーターは、異口同音に、「生徒一人が亡くなっているのに、誠実に対応していない。」、「校長先生として無責任だ。」、「校長としての資質を疑ってしまう。」などと感想を述べる。しかし、校長とは、こういう人なのだ。校長とは、前校長に気に入られ、教育委員会の意向に沿った人がなるのであって、決して、人格の高潔な人がなるのではないのである。校長とは、学校という構造体で、校長という自我を持っている人を意味するだけである。校長に特別な人格も才能も必要ないのである。教育委員会に指名された人が校長なのである。だから、誰しも、校長になると、いじめ自殺事件の記者会見では、このような応答をするのである。コメンテーターも校長になっていれば、同じような答弁をしていただろう。さて、学校という構造体、校長という自我に限らず、人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動しているのである。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体と自我の関係について、具体的に言えば、次のようになる。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、学校という構造体では、校長・教頭・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。さて、人間は、そのような構造体において、どのように考えて行動しているのだろうか。人間は、構造体において、自我の思いを主人にして、深層心理が対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、行動しているのである。だから、人間は、決して、意識的に自分の意志で考えて、言い換えれば、表層心理が考えて行動しているのではない。人間は、無意識的に、言い換えれば、深層心理が対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて考えて、行動しているのである。また、自我は構造体の存続・発展にも尽力するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。さて、それでは、対他化とは、何か。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。対自化とは、何か。対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。共感化とは、何か。共感化とは、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と愛し合い、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。往々にして、人間は、自らの存在が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探る。人間は、自分の存在が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、不安な時は、他者と共感化して、自分の存在を確かなものにしようとする。だから、サルトルは、人間は対他化と対自化の相克であり、対自化を目指さなければならないと言ったのである。それでは、なぜ、校長は、コメンテーターから、誠実ではない、無責任だ、資質を疑うなどの批判を受けるような記者会見をしたのだろうか。それは、校長は、深層心理の対他化の機能の働きによって、教育委員会から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する教育委員会の思いを探ったからである。その結論が、あの記者会見だったのである。あのような記者会見をすれば、教育委員会の覚えがめでたいと思ったのである。深層心理の対他化の機能の働きは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。校長の他者の欲望は、教育委員会の欲望なのである。校長は、教育委員会の期待に応えようとしたのである。そこには、自殺した生徒、その家族、マスコミ、大衆への思いは存在しないのである。なぜならば、教育委員会の覚えさえめでたければ、校長という自我が保証され、有名校への栄転の道が開かれるからである。逆に、教育委員会に嫌われると、無名校へと左遷される可能性が高まり、最悪、教頭へと降格させられる可能性が出てくるからである。また、コメンテーターが、校長に幻滅したのはなぜだろうか。それは、コメンテーターの深層心理が、校長を対自化して見たからである。コメンテーターの理想の校長像と比較して、校長を見たからである。深層心理の対自化の機能の働きは、「人は自己の欲望を他者に投影させる。」(人間は、自己の欲望が他者にも存在すると感じる。人間は、自己の欲望に寄り添うかどうかで他者を判断する。人間は、自己の欲望を他者にも持たせようとする。)という言葉に集約されている。コメンテーターは、高潔な校長像を思い描いていたから、幻滅したのである。校長は、学校の最高権力者である。コメンテーターやマスコミや大衆は、権力者に理想を描き過ぎである。テレビ番組で、『水戸黄門』、『暴れん坊将軍』、『大岡越前』が好評を博したが、徳川光圀は、女癖が悪い上に、城内で部下を斬殺し、徳川吉宗の享保の改革は失敗し、大岡越前忠相の大岡裁きは虚構である。権力者に、徒らに憧れを持つから、幻滅し、また、まんまと騙されるのである。

人間は、皆、いついかなる時でも、利我主義者である。(自我その164)

2019-07-22 20:52:47 | 思想
利己主義という言葉は、人間を非難する時に使われる。「あいつは利己主義だから、信用できない。」、「おまえは利己主義だから、みんなに嫌われているんだ。」などと使われる。あまり使われないが、利己主義の対意語が利他主義である。利己主義について、辞書では、「自己の利害だけを行為の基準とし、社会一般の利害を念頭に置かない考え方。」と説明されている。利他主義について、辞書では、「他人の幸福や利益を第一にする考え方。」と説明されている。しかし、個人の最大犯罪である殺人も国の最大犯罪である戦争も、利他主義の考えから起こりうるはずがないことは当然であるが、利己主義からも、起こりうるはずが無いのである。殺人を犯しても、露見すれば、厳罰に処され、日本では、死刑もあり得る。戦争を起こして、勝利しても、自国兵士も相手兵士も大勢死ぬばかりでなく、時には、自国民も相手国民も巻き込まれて死に、相手国民の中ではゲリラ闘争を起こす者もいて、戦争は割に合わない仕掛けである。つまり、勝利国も敗戦国も、敗戦国なのである。それをわかっていながら、なぜ、個人は人殺しをし、国の為政者は戦争をし、国民はその後押しをするのだろうか。それは、俗に言う、めんつ、プライド、名誉が原因である。メンツが潰されたから、プライドが傷付けられたから、名誉が傷付けられたからである。だから、殺人犯は、異口同音に、「自分は被害者だ。」と言い、戦争を仕掛けた国の為政者は、異口同音に、「自国は被害者だ。」と言うのである。第三者から見れば、客観的見れば、傍目から見れば、割に合わない殺人や戦争を、人間は起こしてしまうのである。人間は、自分が第三者ならば、殺人や戦争を愚かな行為だと思うが、当事者になると、めんつ、プライド、名誉のために、起こしてしまうのである。だから、人間の行動の基点は、利己主義、利他主義ではないのである。めんつ、プライド、名誉は、利他主義にはもちろんのこと、利己主義にも入らないからである。めんつにこだわる思い、プライドを守る思い、名誉を守る思いは、他者に自我が認められたいという思いから発しているのである。自己に利する思考を利己主義と言い、他者に利する思考を利他主義と言うが、これになぞらえて言うと、自我を利する思考は利我主義になる。人間は、皆、利我主義者であり、いついかなる時でも、それに則って行動しているのである。それでは、自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動しているのである。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係について、具体的に言えば、次のようになる。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、いついかなる時でも、何らかの構造体に属し、何らかのポジションを得て、それを自我として、めんつにこだわる思い・プライドを守る思い・名誉を守る思いで、行動しているのである。言い換えれば、構造体において、自我の働き(自己のポジションとしての働き)が、他者から好評価・高評価を受けることを目標に、行動しているのである。それが、自我の欲望なのである。それでは、なぜ、自我の欲望が、他者から好評価・高評価を受けることにあるのか。それは、構造体において、自我の働き(自己のポジションとしての働き)が、他者から好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚し、大きな喜び・満足感を得るからである。この大きな喜び・満足感は、深層心理がもたらすもので、自分の意志や意志による表層心理がもたらしたものではない。ちなみに、不正薬物に手を出す人は、自我の働き(自己のポジションとしての働き)が他者から好評価・高評価を受けることがなく、従って、深層心理から、大きな喜び・満足感がもたらされないので、表層心理の意識や意志が、それを使って、気持ちを高揚させようとしているのである。しかし、人間は、自我の働きが認められ、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚し、大きな喜び・満足を得るが、逆に、自我の働きが認められず、他者から、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込み、苦痛・苦悩に陥る。当然のごとく、人間は、自我の働きが、他者から、好評価・高評価を受けることを目的として、行動するようになる。他者からの評価を絶対的なものとして、行動するようになるのである。だから、社員は、会社という構造体全体で悪事を働いていると、社内の他者から認められようとして、その悪事に荷担することがあるのである。さて、現代社会は、ストレス社会だとよく言われる。全ての人が何らかのストレスを抱えているからである。これは、精神科医に患者(クライアント)が殺到し、違法薬物に手を出す人が跡を絶たないという現象からも窺うことができる。言うまでもなく、現代は、これまでの時代に比べてストレスが感じることが多いからである。それでは、なぜ、ストレスが感じることが多いのだろうか。むしろ、現代は、これまでの時代には無いような、自由な時代ではないのか。しかし、誰もが現代は自由な時代であると思っていることがストレス社会を作り出しているのである。自由とは、自分の思い通りに行動できるということである。自由な社会とは、自我の実力が十分に発揮できる社会なのである。自由な社会の旨味とは、自分の思い通りに、自我の力を存分に発揮でき、それが、他者から好評価・高評価を受けることにあるのである。しかし、逆に、自由な社会の苦味として、自分の思い通りに行動できず、自我の力を発揮できず、他者から悪評価・低評価を受けると、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるのである。それが、ストレスになるのである。自我の欲望が満たされないことがストレスになるのである。現代社会がストレス社会であるとは、自我の欲望が満たされないために、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めている人が非常に多いことを意味しているのである。ところで、ストレスの原因になることは何であろうか。いろいろあるが、一般的には、セクハラ、パワハラ、モラハラなどである。さて、セクハラであるが、会社という構造体で、女性社員が、よく、上司などから受ける。「まだ、結婚しないの。」、「彼氏はいるの。」と尋ねられたり、「胸が大きいね。」などと言われたり、時には、体の一部が触られたりすることである。それがストレスになるのは、女性社員にとって、そんな扱いを受けるのは、社員としての力を認めてほしいという自我の欲望がかなわず、上司を含めた他者から評価されていない、セクハラを受けても良いような女性に思われているのではないかと思い、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるからである。さらに、セクハラを受けても、反論しない自分に対して、力不足を嘆き、いっそう、自分自身を責めるからである。次に、パワハラであるが、会社という構造体で、社員が、上司などから、受けることがある。「おまえは、給料泥棒だ。」、「おまえは、役立たずだ。」、「おまえの換えなど、何人もいる。」などと言われたり、無報酬残業をさせられたりすることである。それがストレスになるのは、社員にとって、そんな扱いを受けるのは、社員としての力を認めてほしいという自我の欲望がかなわず、上司を含めた他者から評価されていない、パワハラを受けても良いような社員に思われているのではないかと思い、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるからである。さらに、パワハラを受けても、反論しない自分に対して、力不足を嘆き、いっそう、自分自身を責めるからである。モラハラは、夫婦という構造体で、妻が、年齢が相当に離れた夫から、受けることがある。客が帰った後で、夫が、妻に対して、「お客さんに対する態度が良くない。」と言って、数時間にわたって、こんこんと、自分の道徳観を述べることなどである。それがストレスになるのは、妻にとって、夫からそんな扱いを受けるのは、妻としての力を認めてほしいという自我の欲望がかなわず、夫という他者から評価されていない、モラハラを受けても良いような妻だと思われているのではないかと思い、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるからである。さらに、モラハラを受けても、反論しない自分に対して、力不足を嘆き、いっそう、自分自身を責めるからである。しかし、セクハラ・パワハラ・モラハラをする人間は、どの構造体にも存在する。これらを行う人間は、ニーチェの言う「力への意志」が強いのである。「力への意志」とは、他を征服し、いっそう強大になろうとする深層心理から湧き上がってくる欲望である。「力への意志」の強い上司は、社員に対して、セクハラやパワハラの行為をしなかったならば、ストレスを感じるのである。このような上司の自我の欲望には、自分は社員に対して地位が高いということを、セクハラやパワハラという行為でそれを見せつけようという、深層心理から強い「力への意志」が起こってくるのである。もしも、それらの行為を、表層心理で抑圧したならば、自分の力不足を嘆き、自分自身を責め、ストレスを感じるのである。「力への意志」の強い年齢の離れた夫も、妻に対して、モラハラの行為をしなかったならば、ストレスを感じるのである。年齢の離れた夫としての自我の欲望には、妻に対して、自分はおまえよりも人間のことをよく知っているということを、モラハラという行為でそれを見せつけようという、深層心理から強い「力への意志」が起こってくる。もしも、表層心理で、それらの行為を抑圧したならば、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるからである。だから、「力への意志」の強い上司の社員に対するセクハラやパワハラの行為も「力への意志」の強い年齢の離れた夫の妻に対するモラハラの行為も、自ら、収めることは無い。「力への意志」とは、深層心理から湧き上がってくる欲望だからである。もしも、女性社員や社員が上司のセクハラやパワハラをやめさせ、妻が年齢の離れた夫のモラハラをやめさせたいと思うならば、反撃するか、他者に訴えて、第三者の強い介入を頼むしか無い。しかし、会社という構造体では上司が権力を握り、家族という構造体では年上の夫が権力を握っているので、構造体から放逐されることを恐れ、大事になることは恥だと思い、女性社員も社員も妻も、他者に訴えず、反撃もせず、ストレスをうちに抱え込むのである。ストレスに堪えながら暮らすのである。しかし、それは、大きな苦痛になる。毎日、会社や家族という構造体の中で、上司や歳の離れた夫から、自我に好評価・高評価をもらおうと暮らしているのに、自我が否定され、悪評価・低評価を与え続けられるのである。それは、精神的な大きな苦痛をもたらすのは当然である。そうすると、表層心理は、その苦痛から脱するために思考を始めるのである。表層心理に、苦痛から脱するために、プライドの損傷を回復させる方策を考えようとするのである。もちろん、上司や年上の夫に反論するか、他者に訴えることが良いのだが、彼らにはその選択肢が無いのである。そうして、苦痛を除去しようとするのである。つまり。苦痛が無くなることだけが目標なのである。そうして、酒、カラオケ、長電話などで、苦痛を忘れようとする。それでも、たいてい、苦痛は除去されない。ストレスの事実はそのままで、重なるだけだからである。今までの生活スタイルの中で解決されない時は、残された道は四方法しか無い。第一の方法は、精神科医を訪ねる道である。精神科医は、丁寧に、話を聞いてくれ、薬も出してくれる。しかし、互いに理解できない精神科医も存在する。薬も効かず、副作用で苦しむこともある。また、全国の精神科医が、毎日、予約患者で埋められ、一ヶ月に一回の診療、診療時間が15分という短時間も珍しくなく、それだけの時間で、どれだけ理解し合えるか疑問である。第二の方法は、苦痛そのものを感じないようにさせる道である。覚醒剤や麻薬などの違法薬物を体内に取り入れる方法である。身も心もぼろぼろにされるのがわかっていながら、覚醒剤や麻薬などに手を出す人が後を絶たないのは、苦痛がそれほど激しい人が多いことを示しているのである。第三の方法は、苦痛を覚えさせる現実を忘れる道である。鬱病・離人症・統合失調症などの精神疾患に罹患する方法である。意識して(表層心理で)考え出した方法ではない。無意識のうちに、深層心理が、鬱病・離人症・統合失調症などの精神疾患に罹患させ、現実から逃避させたり、現実を認識させないようにするのである。第四の方法は、死ぬ道である。言うまでもなく、自殺する方法である。この方法を採用する人は、苦痛がひどく、苦痛から解放される可能性が全くなく、この苦痛から、一刻も早く、解放されたいのである。さて、先に、人間は、自我の働きが認められ、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚し、大きな喜び・満足を得る。当然のごとく、人間は、自我の働きが、他者から、好評価・高評価を受けることを目的として、行動するようになると述べた。これは、深層心理の対他化の機能のである。対他化とは、人間は、他者に対した時、自分が好評価・高評価を受けたいという気持ちで、彼(彼女)が自分をどのように思っているか、相手の気持ちを探ることを言うのである。しかし、対他化の作用によって、逆に、自我の働きが認められず、他者から、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込み、苦痛・苦悩に陥り、それが重なると、ストレスになるのである。しかし、深層心理の作用は、対他化だけではない。他に、対自化と共感化がある。対自化とは、人間が、物や動物や他者に対した時、それをどのように利用するか、それをどのように支配するか、彼(彼女)がどのように考え何を目的としているかなどと考えて、対応を考えることである。物や動物や他者に対して、征服欲・支配欲の視点から観察し、できうれば、征服欲・支配欲を満たしたいと思っているのである。ニーチェの言う「力への意志」は対自化の視点から来ている。そういう意味では、対他化とは、人間は、他者に対した時、自分が好評価・高評価を受けたいという気持ちで、彼(彼女)が自分をどのように思っているか、相手の気持ちを探ることを意味するから、被征服・被支配の視点である。だから、サルトルは、人間は、対自化と対他化の相克だと言ったのである。共感化とは、敵や周囲の者に当たるために、他者と協力したり、友情を紡いだり、愛情を育んだりすることを言う。敵や周囲の者と対峙するために、他者と愛し合ったり協力し合ったりして、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにすることが目的である。カップルという構造体、仲間という構造体は、共感化から成り立っている。仲の悪い者同士が共通の敵がいれば、「呉越同舟」の状態で、共感化して、協力して、敵に当たることもある。このように、深層心理の欲望は、深層心理自らが持っている、対自化・対他化・共感化の三作用のいずれかによって生まれてくる。一般に、人間は、他者に対した時、自分の自我(ポジション)が相手より強い・優位であると思えば、相手を対自化して、相手の思いを探り、相手を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、自分の自我(ポジション)が相手より弱い・優位であると思えば、自らを対他化して、相手が自分のことをどのように思っているか探る。人間は、自我が不安な時は、他者と共感化して、自我の存在を確かなものにしようとする。このように、人間は、常に、深層心理が対自化・対他化・共感化の三化のいずれかの機能を働かせて、自我の安定・拡充を図っているのである。次に、例を挙げて、対自化・対他化・共感化を説明しようと思う。まず、支配者階級の深層心理の対自化の機能である。日本・学校・会社・店などの構造体において、総理大臣・校長・社長・店長などの支配者階級グループが、自らの自我の安定・拡充を図り、自らの描いた構造体の発展のために、被支配階級グループの国民・教諭と生徒・社員・店員などをどのように利用し、どのように支配するかを考え、彼らがどのように考え、何を目的としているかなどを考慮して、対応を考え、行動するのである。もちろん、根本は、征服欲・支配欲を満たすことである。次に、被支配者階級グループの深層心理の共感化の機能である。日本・学校・会社・店などの構造体において、被支配階級グループの国民・教諭・社員・店員などが、力を合わせて、総理大臣・校長・社長・店長などの支配者階級グループに対して、自らの人権擁護・待遇改善・パワハラやセクハラの防止を求めて、デモ行進・ストライキ・団体交渉などをすることである。次に、被支配者階級グループの深層心理の対他化の機能である。日本・学校・会社・店などの構造体において、被支配階級グループの国民・教諭・社員・店員などが、現状に不満はあるが、不満を唱えると、構造体から追放される可能性があり、支配者階級グループを変えても、現状より良くなると思えず、現在、何とか暮らせていけるので、現在の支配者階級グループの指示を受け入れるのである。ニーチェの言う「永劫回帰」の生活である。次に、共感化の機能である。仲間という構造体を形成している、友人という自我の者たちも、カップルという構造体を形成している、恋人という自我の二人も、現在の生活形態に従い、互いに、共感化して、友情を紡いだり、愛情を育んだりして、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにしようとしている。次に、父の対自化の機能である。家族という構造体における父という自我も、かつては、支配者階級グループに属し、家族を対自化し、支配して暮らしていたが、現在は、家族と共感化して、現在の家族形態に従わなければ、認めてもらえない。ところが、時代錯誤の、幼稚な父は、家族を対自化しようとして、反発され、幼児虐待などを行うのである。つまり、人間は、日常生活において、自我に基づいて、深層心理の対他化・対自化・共感化という三化の機能によって引き起こされた自我の欲望に導かれて、判断し、行動しているのである。しかし、自我の欲望は、自我の保存・評価(他者からの評価)・発展だけでなく、自我が所属している構造体の保存・評価(他者からの評価)・発展に向かっても発揮されるのである。日本という構造体においては、日本人という自我を、中国人や韓国人に知らしめるために、無人島の尖閣諸島や竹島の領有権を主張するのである。森友学園問題・加計学園問題事件で、安倍晋三首相が犯罪を犯していると、誰もが知っているのに、国民の支持率が下がらず、マスコミは厳しく追及せず、官僚は共犯者となり、且つ、国会で嘘を証言し、東京地方検察庁特捜部が動かないのは、安倍政権の力は、日本という構造体の保存・評価(他者からの評価)・発展に向かって発揮されると思っているからである。日本人という自我を持った人たちは、ワールドカップ・オリンピック・世界選手権大会などで、日本チーム・日本人選手が出場すると、日本国という構造体を他者である世界中の人々から評価してもらいたいために、応援するのである。しかし、飛行機事故があって、死者が出ても、日本人が含まれていないとわかるやいなや、飛行機事故そのものの関心が薄れていくのである。

感情(気分を含む)が人間を統御している(自我その163)

2019-07-19 17:39:56 | 思想
ハイデッガーは、人間は、常に、何らかの感情や気分の状態の中にあるとした。それが、情態性である。情態性は、単なる状態ではない。人間は、自分がある感情や気分にあるから、自分の存在を認識できるのである。また、人間は、ある情態性の中にいるから、いろいろな事象を認識できるのである。人間が情態性になければ、いろいろな事象は無味乾燥になり、認識できないだろう。つまり、感情や気分が、人間そのものの存在を認識させ、人間に人間の内なる現象と外なる現象を認識させるのである。つまり、感情や気分が無ければ、人間は、自己そのものも、自己の内外の現象を認識できないのである。その典型が、不安という気分の情態性である。人間は、常日頃、周囲に死者が出ても、いつか自分も死ぬだろうが、まだ、それは先のことだとして、自分の死を考えることを回避している。しかし、ある時、自分にも確実に死がやって来るのだと思う時や死を引き受けねばならぬ時がやって来る。死が自分にも必ず及ぶのだと思うと、人間は、不安に陥る。人間は、不安に陥ると、自己そのものも、自己の内外の現象も、自己から滑り落ちる。言わば、無の状態に陥る。なぜ、不安の情態性に陥ると、無の状態に陥ってしまうのか。それは、自己に対する見方も、自己の内外の現象の見方も、他者から与えられたものだからである。不安の状態が、それを露見させ、無の状態におとしめるのである。他者(ハイデッガーの用語では「ひと」)から与えられた見方を、自分で構築した見方に変えない限り、不安の情態性、無の状態から逃れることはできないのである。ハイデッガーは、自らの死を引き受ける覚悟、不安を辞さない覚悟を持てば、自己に対する見方も、自己の内外の現象の見方も、自分自身で、構築し直すことができるとした。これが、ハイデッガーが実存主義者と言われるゆえんである。(ハイデッガー自身は、自らを、実存主義者ではなく、存在の思考者であると言っている。)しかし、古来、西洋では、感情を理性と対立した概念と見なし、理性が感情を克服することに人間の尊厳を見出していた。日本の辞書でも、感情について、「喜怒哀楽や好悪など、物事に起こる気持ち。精神の働きを知・情・意に分けた時の情的過程全般を指す。情動・気分・情操などが含まれる。快い、美しい、感じが悪いなどというような、主体が情況や対象に対する態度あるいは価値付けをする心的過程。」と説明している。つまり、感情とは、自己の外にある事象についての単なる印象にしか過ぎないのである。このような捉え方をするのならば、感情を軽視するのもうなずける。そして、理性については、「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。真偽・善悪を識別する能力。古来、人間だけが有し、動物は有していないとされ、人間が動物よりも優れている根拠の一つとされた。」と説明している。日本の辞書も、感情に対しても理性に対しても、西洋古来の見方と同じなのである。まず、「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。」という一文についてであるが、「本能」とあるが、心理学者の岸田秀は、「人間は、本能が壊れている。」と言っているように、人間の本能は定義できないのである。母性愛などは本能として存在しないのである。次に、「本能や感情に支配されず」とあるが、ハイデッガーが言うように、人間は、行動している時であろうと思考している時であろうと、必ず、心の奥底に、感情や気分が流れているのである。感情や気分が行動や思考を生み出して、そして、その行動や思考が再び感情や気分を生み出しているのである。つまり、理性と感情は、支配・被支配の関係ではないのである。次に、「道理に基づいて思考し」とあるが、人間は、思考する場合、単語を重ね、文を連ねて、文章を形成していくのであるが、そこには、既に、道理が働いているのである。理性が道理を導入するのではなく、文章の形成そのものが道理そのものなのである。次に、「判断する能力」とあるが、確かに、文章を形成しながら思考していくのは、理性の働きであると言っても良いが、事象と思考が一致しているかどうかを判断するのは、深層心理なのである。深層心理が、理性による思考に納得し、事象と思考が一致していると判断したならば、心に満足感・納得感を与え、それが正しいとされるのである。つまり、道理に基づかない思考は存在せず、道理に基づかないで、単語を重ね、文を連ねて、文章を形成することはできないばかりでなく、理性による思考が正しいか間違っているかを判断するのは深層心理であり、深層心理が、正しいと判断すれば、心に、満足感・納得感を与え、それで、思考は終了するのである。深層心理が、心に、満足感・納得感という快い感情を与えなければ、快い感情を与えられるまで思考は継続するのである。それまでは、不満感・不快感が継続しているのである。つまり、判断の最終的な決め手は感情なのである。次に、「真偽・善悪を識別する能力。」とあるが、この文は、理性が、何の動力も無く、何の前提も無く、独自で、真偽・善悪を識別するということを意味している。しかい、必ず、心の奥底に、感情や気分が流れているのである。感情や気分が動力となって行動や思考を生み出しているのである。また、表層心理の理性が動き出すまでに、既に、深層心理が、真偽・善悪を識別しているのである。深層心理が動き出し、深層心理の真偽・善悪の識別が前提になっているのである。つまり、理性が、白紙の状態で、真偽・善悪の識別に取りかかるのではないのである。表層心理が、深層心理の識別の結果に不安を覚えたから、理性を使い、深層心理の識別の結果を前提にして、もう一度、事象の真偽・善悪を判断するのである。不安を覚えたことが、表層心理の理性の力になっているのである。しかし、同じ人が判断する場合、深層心理と表層心理の位相(考え方、方向性、志向性)は同じだから、表層心理の理性による判断は最初の深層心理の判断と同じものになることがほとんどである。最後に、「古来、人間だけが有し、動物は有していないとされ、人間が動物よりも優れている根拠の一つとされた。」という一文について、考えてみる。確かに、動物は言語を有していないから、理性を有していないのは当然である。理性とは、言語を駆使してなされる思考判断能力とされているからである。しかし、理性を有していることは、優位性を意味しない。動物は、同種を殺すことは稀れである。集団で殺し合うことはない。人間だけが、日常的に、同種を殺し、集団で殺し合う。日常的に、殺人があり、戦争があるのである。アドルノは、「理性が、第二次世界大戦を引き起こし、殺し合いをさせた。」と言っている。怒りという感情と憎悪という気分が、理性を使って殺し合いをさせたのである。つまり、理性と感情(気分)は対立した概念ではないのである。感情が理性を生み出し、理性が感情を生み出しているのである。まず、感情から始まるのである。それでは、日常生活において、どのようにして、感情が生まれるのであろうか。そして、どのようにして、感情から、思考が始まるのであろうか。ここでは、理性というような、なじみのない、大仰なものではなく、理性の原点である思考について述べようと思う。感情と思考の関係について述べようと思う。簡単に言えば、感情の多くは、自我と他者の関係によって生まれてくる。それでは、自我とは何か。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。具体的には、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。それでは、自我を動かす思いとは何か。その第一の思いは、他者から評価されたいという思いである。他者から評価されると、満足感・喜びという感情を得るのである。人間は、自我の働きが、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚し、心に、快い感情が流れるのである。逆に、自我の働きが認められず、他者から、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込み、心に不快な感情が流れるのである。そして、不快な感情が心に流れた時、人間は思考するのである。人間は、上手くいっている時、考えない。上手くいかない時、考える。上手くいかない時、心に不快感が流れ、その不快感をから解放されるには、どうしたら良いかを考えるのである。たとえば、学校に行けば、同級生たちと仲良く過ごしていたり、会社に行けば、上司から信頼されていたりすれば、深層心理は、本人に、快い感情を持たせると共に学校・会社に行くようにという指針を出し、思考することを求めない。上手くいっているから、このまま、登校・出勤すれば良いのである。しかし、学校に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしていれば、深層心理は、本人に対して、苦痛を与えると共に、どうすべきか、考えさせるのである。人間は、苦痛から解放されようとして、その方策を考えるのである。本人は、その方策が考えられない場合、学校・会社に行かないということも考える。また、本人が、学校・会社に行こうとしても、深層心理が、学校・会社に行って苦痛を味わわないように、深層心理が鬱病・腹痛・頭痛などを起こして、学校・会社に行かせないようにしたり、深層心理が自ら統合失調症・離人症に罹患して、学校・会社に行っても、苦痛を味わわないようにしたりする。ところで、気持ちの高揚や沈み込みの感情は、自ら、意識して、自らの意志で、生み出すことはできない。意識や意志などという人間の表層心理は、感情を生み出すことができない。人間は、自分が気付かない無意識というところで、つまり、深層心理が感情を生み出しているのである。もちろん、深層心理は、恣意的に感情を生み出すのではない。深層心理は、自我の状況を把握して、感情を生み出しているのである。つまり、人間は、自らは意識していないが、深層心理が、自我の状況を理解し、感情、それと共に、行動の指針を、本人に与えるのである。深層心理が、構造体において、自分のポジション(ステータス・地位)における役割(役目、役柄)を果たすという自我の働きが、他者から認められているかいないかを考慮しているのである。人間は、常に、自分が他者からどのように思われているか気にして生きているのも、深層心理が、常に、自我が他者からどのように思われているか配慮しているからである。このような、人間の、他者の視線、評価、思いが気になるあり方は、深層心理の対他化の作用なのである。対他化とは、深層心理による、他者の視線、評価、思いを気にしている働きなのである。人間にとって、他者の視線、評価、思いは、深層心理が起こすから、気にするから始まるのではなく、気になるから始まるのである。つまり、表層心理の意志で気にするのではなく、自分の意志と関わりなく、深層心理が気にするから、気にしないでおこうと思っても、気になるのである。気になるという気持ちは、自分の心の奥底から湧いてくるから、気にならないようになりたい・気にしないでおこうと思っても、気になってしまうのである。特に、不快であること・苦痛であることが気になるから、そこから解放されたく、その方策を人間は考えるのである。このように、人間は、構造体内で、自我と他者の関係で感情が生まれ、その感情に従って行動しているのである。つまり、感情が、人間を統御しているのである。