あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、なぜ苦悩するのか。(自我その172)

2019-07-31 18:48:23 | 思想
人間は、なぜ苦悩するのか。それは、自らは主体的に生きることができると思っているからである。主体的とは、自分がある思考や判断や行動などをする時、自分が主体となって動くことを意味する。人間は、誰しも、自分は、自ら考え、自ら判断して、自らの意志で行動したいと思っている。そして、自分が主体的に行動できない時があるとすれば、強力な他者の介入があった時か自分に実力が無い時だと思っている。他者の介入に抗することができない無力な自分、無力だから目標を達成することができない自分に堪えきれず、苦悩するのである。つまり、自分のプライドが粉粉にうち砕かれた時、苦悩するのである。しかし、果たして、そこまで、人間はプライドを持つ必要があるのであろうか。なぜならば、人間は、人間社会の中で生きていかなければならないから、その時点で、既に、自己を捨て、自我に捕らわれて、主体的な生き方は失われているからである。自分が主体的な生き方だと思い込んでいる生き方は、自我と他者の欲望に動かされている生き方なのであり、決して、主体的な生き方ではないのである。それでは、なぜ、人間は、主体的な生き方ができず、自我として生きていかざるを得ないのか。それは、人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我を負って生きることしか生き方が無いからである。つまり、人間は、人間社会の中で生きていかざるを得ないのであるから、いつ、いかなる時でも、常に、ある人間の組織・集合体という構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように、自我として生きていかざるを得ないのである。具体的に言えば、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。だから、総理大臣、校長、社長、店長、運転手と言えども、単に、一つの自我に過ぎない。単に、一つの役割を果たしているのに過ぎない。国民、教諭・生徒、社員、店員・客、車掌・客などに支えられて存在する。だから、どの自我が絶対的なものではないのである。そして、日本、学校、会社、店、電車という構造体も、家族、仲間、カップルという構造体も、ある時代、ある時期において誕生し、そして、時代の推移、時間の経過によって消滅する。だから、どの構造体も絶対的なものではないのである。つまり、自我にプライドを持ついわれは無いのである。自我にプライドを持つから、プライドが打ち砕かれると、苦悩するのである。自我の務めを淡々と果たせば良いのである。失敗すれば、矯正すれば良いのである。自分のミスが原因で、現在の構造体を放逐されれば、別の構造体を探せば良いのである。その構造体も放逐されれば、また、別の構造体を探せば良いのである。構造体に使われるのが嫌ならば、自分が構造体を作れば良いのである。死を迎えるまで変化し続ければ良いのである。それを、立ち止まってプライドを持とうとするから、それが打ち砕かれて苦悩するのである。また、そもそも、人間は、自らのプライドと言えども、、自ら、生み出したものではないのである。他者の欲望に動かされて、生み出したものなのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」と言っている。この言葉の意味は、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。つまり、人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、自らが、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。プライドを持とうという意欲、プライドを気にするという思いも、全て、他者の欲望を取り入れたからである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断して、つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。