あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

学校からいじめ自殺者が出なくなることは永遠に無い。(自我その166)

2019-07-24 17:10:54 | 思想
なぜ、日本では、大学生には、いじめが原因の自殺がほとんど無いのに、小学生、中学生、高校生には、多いのだろうか。第一の理由として、大学生は、小学生、中学生、高校生より精神年齢が高く、いじめる気にもならず、また、いじめられても、泣き寝入りをせずに、戦うことが考えられる。第二の理由として、大学生は、講義や演習を受けるために部屋を移動しなければならないのに対して、小学生・中学生・高校生は、授業を受けるための教室が固定しているということが考えられる。さて、人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。大学生にとって、構造体は、大学であり、自我は学生であるが、小学生・中学生・高校生にとって、構造体はクラスやクラブであり、自我はクラスメートや部員である。それが、いじめの原因になっているのである。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体と自我の関係について、具体的に言えば、次のようになる。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教頭・教諭・生徒などの自我があり、クラスという構造体では、担任の教師・クラスメートという自我があり、クラブという構造体では、顧問の教師・部員などの自我があり、大学という構造体では、学長・教授・准教授・学生などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。それでは、人間は、各々の構造体において、どのように考えて行動しているのだろうか。人間は、構造体において、自我の思いを主人にして、深層心理が対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、行動しているのである。しかし、人間は、決して、意識的に自分の意志で考えて、言い換えれば、表層心理が考えて行動しているのではない。人間は、無意識的に、言い換えれば、深層心理が対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて考えて、行動しているのである。また、自我は構造体の存続・発展にも尽力するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。さて、それでは、対他化とは、何か。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。対自化とは、何か。対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。共感化とは、何か。共感化とは、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と愛し合い、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。往々にして、人間は、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探る。人間は、自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、自我が不安な時は、他者と共感化して、自我のの存在を確かなものにしようとする。だから、サルトルは、人間は対他化と対自化の相克であり、対自化を目指さなければならないと言ったのである。さて、それでは、なぜ、小学生・中学生・高校生にとって、毎日の生活の構造体はクラスであり、自我はクラスメートであることが、いじめを生むのか。それは、閉ざされ、固定されたクラスという構造体で、毎日、同じクラスメートと暮らしているからである。毎日、同じクラスメートと暮らしていると、必ず、嫌いなクラスメートが出てくる。好きなクラスメートばかりでなく、必ず、嫌いなクラスメートが出てくるのである。しかし、人間は、好き嫌いの判断・感情を、自ら意識して、自らの意志で、行っているわけではない。意志や意識という表層心理とは関わりなく、深層心理が嫌いなクラスメートを出現させるのである。しかし、生徒は、クラスに嫌いなクラスメートがいても、それを理由にして、自分が別のクラスに移ることもその嫌いなクラスメートを別のクラスに移すことも許されない。わがままだと非難されるから、また、恥ずかしくて、言えない。しかし、クラスという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いなクラスメートと共に生活することは苦痛である。トラブルが無くても、そのクラスメートがそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。いつしか、不倶戴天の敵にしてしまう。すると、自らの深層心理が、自らに、その嫌いなクラスメートに対して攻撃を命じる。しかし、自分一人ならば、勝てないかも知れない。また、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れない。そこで、自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちは、仲間という構造体から、自分が放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。担任の教師も、いじめに気付いていても、いじめている生徒たちはクラスのイニシアチブを握っていることが多く、彼らを敵に回すと、クラス運営が難しくなるから、いじめに気付いても、厳しく咎めることはせず、軽く注意するか見て見ぬふりをするのである。また、いじめられている生徒というのは、クラスメート間で力が無いからいじめられるだけでなく、往々にして、担任の教師の言うことをそのままを実行する力が無いから、担任にとっても、嫌いな生徒の部類に属し、積極的に助ける気にならないのである。往々にして、よく、いじめが原因で自殺した生徒が出ると、担任の教師はいじめられているのに気付かなかったと言う。しかし、それは、嘘である。毎日、顔を合わせているのに、知らないはずが無い。また、クラブという閉ざされ、固定した構造体においても、同じである。生徒は、毎日、同じ部員と活動していると、必ず、嫌いな部員が現れる。しかし、クラブの参加は自由だと言われながらも、退部や転部は、顧問の教師が恫喝し、担任の教師や親が反対し、他の部員たちが白い目で見るから、その部に留まるしか無いのである。しかし、クラスと同じく、クラブという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いな部員と活動することは苦痛であり、その生徒から攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。すると、深層心理が、その生徒に対して攻撃を命じる。しかし、クラスと同じく、自分一人ならば、勝てないかも知れないし、周囲から顰蹙を買うかも知れないから、ためらう。そこで、自分に、仲間という構造体があり、共感化する友人たちがいるので、友人たちに話し、友人たちが加勢し、いじめが可能になるのである。顧問の教師も、同じである。毎日、同じ部員たちに接していると、必ず、嫌いな部員が出てくる。これも、自分の意志で嫌いになろうと思ってそうなるのではなく、深層心理が嫌いな部員を出現させるのである。生徒と同じく、クラブという閉ざされ、固定された空間で、毎日、嫌いな部員に接することは苦痛であり、その部員から攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。すると、深層心理が、その部員に対して攻撃を命じる。ここは、生徒と違い、顧問の教師は、部員に対して権力があり、クラブは鍛錬の場であるという言い訳が利くから、部員に辛く当たっても、許されると思い、体罰を行うのである。そして、苦痛から逃れ、心を癒やそうとするのである。しかも、クラブは、顧問の教師と部員、先輩と後輩の上下関係を中心に動いているから、顧問の教師が、嫌いな部員から、何かの形でプライドが傷付けられると、容易に、体罰の形になって、復讐心を発揮する。よく、自分の体罰が原因で自殺した部員が出ると、顧問の教師は、指導の一環だったと答える。しかし、それは、嘘である。その部員が嫌いだったから、厳しく当たり、体罰を加えたのである。さて、先に述べたように、人間の深層心理は、他者を好悪する機能を有している。だから、人間には、いつの間にか、無意識のままに、好きになる人ができ、嫌いになる人ができている。だから、クラスという構造体にも、クラブという構造体にも、嫌いな人ができるのは当然のことである。しかし、クラスという構造体にしろ、クラブという構造体にしろ、閉ざされ、固定した空間であるから、嫌いなクラスメートや部員ができても、毎日顔を合わせなければいけない。そこに、問題が生じるのである。毎日顔を合わせ、その度に苦痛を感じ、心が傷付く。そして、その復讐のために、いじめを行うのである。だから、クラスやクラブという構造体が閉ざされ、固定した空間である限り、いじめが無くなることは無いのである。小学校・中学校・高校も、大学のように、授業を受ける時は、生徒自らが教室を移動し、クラスという閉ざされ、固定した構造体で無くなれば、いじめは激減し、自殺する生徒はいなくなるだろう。中学校・高校のクラブという構造体も、転部、退部が自由という解放された空間にすれば、いじめは激減し、自殺する生徒はいなくなるだろう。しかし、日本人の多くは、小学校、中学校、高校という構造体においては、クラスやクラブを閉ざされた構造体にし、固定したクラスメートたち、固定した部員たち、固定した担任の教師、固定した顧問の教師にしなければ、有効な指導ができないと思っている。だから、クラスやクラブという構造体が解放されることは無いのである。それ故に、日本の小学校・中学校・高校から、いじめが激減することも、いじめによる自殺者がいなくなることも、永遠に無いのである。