あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

苦痛は、人間を人間たらしめるが、命さえも奪う。(自我その155)

2019-07-11 18:23:05 | 思想
デカルトに、「コギト・エルゴ・スム」(略してコギトと言う)(「我思う、ゆえに、我あり。」という有名な言葉がある。「私は、いろいろなことの存在に疑問を持つが、自分が疑問が持つことができるのは、自分が存在しているからだから、自分の存在だけは疑問を持つことができない。」という意味である。そこから、デカルトは、自分の存在に確証を得て、いろいろな存在に疑問を持っても、確証が得られるまで、自信を持って、思考を推し進めていくことができるようになったのである。それでは、なぜ、デカルトは、コギトと言われるような思考をしたのか。それは、いろいろなことや自分の存在に疑問を抱き、不安を持ち、それらの存在の確証を得られないことに苦痛に感じていたからである。人間は、苦痛を感じて、その苦痛を取り除くために、初めて、思考を始めるのである。パスカルに、「人間は考える葦である。」という有名な言葉がある。「人間は、自然において、葦のように脆弱だが、思考できるということで、他の存在を圧倒している。」という意味である。なぜ、パスカルは、このようなことを考え出したのだろうか。それは、パスカルは、「広大無辺の宇宙に比べれば、人間は、無に等しい。」と考え、不安を抱き、苦痛を感じたからなのである。そこで、「人間は、一本の葦のごとく、弱く悲惨な存在に過ぎないが、それは、考える葦であり、思考によって宇宙を包むことができる。ここに、人間の尊厳があり、偉大さがある。」と考えることによって、その不安、苦痛から脱したのである。つまり、パスカルは、人間の存在が無に等しいような脆弱であることに苦痛を感じていて、その苦痛から脱するために考え抜き、人間には、他の存在ができない、思考という能力があり、そこに、人間の尊厳や偉大さがあると確信し、その苦痛から脱することができたのである。アリストテレスは、「哲学は、驚くことから始まる。」と言った。驚くとは、はっと気付くという意味である。しかし、ハイデッガーが言うように、「人間は、既に、心の中にあるものやことにしか気付かない。」のである。そして、はっと気付いたものやことが、全て、哲学という深く思考することに繋がらないのである。喜ばしいことや楽しいことに気付いても、哲学には繋がらない。浮き浮きした気分になるだけなのである。はっと気付いたものやことに対して、その真理を解明しないでは苦痛から免れることはできないと感じた人だけが、哲学に向かうのである。つまり、はっと気付いたものやことの真理解明なしでは苦痛だと感じた人だけが、苦痛から解放されるために、思考を始めるのである。ニーチェの「人間は、快楽を感じている時には、その状態の主人になれない。苦悩を感じている時、その状態の主人である。」という言葉は至言である。人間は、快楽を感じている時、その状態に安住して、何も考えないが、苦悩している時、その苦悩を脱するために、深く思考するからである。さて、我々は、日常生活においても、肉体的にも精神的にも、苦痛を感じている時に、その苦痛から脱するために、考えるのである。最初に、肉体的な苦痛について、説明しようと思う。肉体的な苦痛は、肉体自身(深層肉体)が、我々(の表層心理)に、苦痛によって、肉体のその部分に損傷があることを知らせ、治療方法と今後の対策を考えさせるのである。思考は、苦痛から始まり苦痛の消滅で終了するのである。例えば、指の怪我であるであるが、その発見も治療もその後の対策も苦痛が起点であり最終地点なのである。時系列で言えば、最初に指の怪我、次に苦痛が来るのであるが、我々にとっては、最初に指に苦痛があり、次に指の怪我の発見があるのである。つまり、指に苦痛があるからこそ、我々は、指に着目し、出血している指を発見し、その指の苦痛から解放されようとして治療に専念し、次に、二度とこの苦痛を味わうことの無いように、これからは慎重に包丁を扱おうというように、今後の対策を講ずるのである。つまり、指の怪我に限らず、苦痛があるからこそ、我々は、その部分が損傷していることに気付き、その苦痛から解放されるために、その損傷部分を治すための方法を考え出そうとするのであり、苦痛があるからこそ、人間は、損傷の原因を考え、二度と同じ過ちを犯さないように対策を講ずるのである。それ故に、我々にとって、苦痛からの解放が、損傷箇所の治療と対策の終了を意味しているのである。もちろん、苦痛が無くなっても、損傷箇所が十分に治癒していない場合もあるが、それでも、たいていの場合、このまま放置していても、自然に治癒する段階に来ているのである。肉体自身(深層肉体)が、このまま放置していても、自然に治癒する段階に来ていると判断したから、表層心理に、苦痛を送らないのである。しかし、もしも、苦痛が無ければ、人間は、肉体に損傷があってもそれに気付かないのである。もちろん、治療やその後の対策を考慮するはずが無い。だから、肉体が損傷したならば、苦痛は必要なのである。次に、精神的な苦痛について、説明しようと思う。肉体の損傷は骨折や怪我や腫瘍などであるが、精神の損傷は対他存在の損傷である。対他存在の損傷とは、簡単に言えば、プライドの損傷である。対他存在とは、我々が、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、他者が自分がどのように見ているか気にしながら、暮らしているあり方である。対他存在の損傷、つまり、プライドの損傷は、他者からの評価が悪評価・低評価の時、起こるのである。その時、精神的に苦痛を感じ、その苦痛から脱するために、思考が始まるのである。さて、我々は、いついかなる時でも、常に、家、会社、店、学校、仲間、カップルなどの構造体に所属し、家族関係、職場関係、教育関係、友人関係、恋愛関係などを結び、父・母・息子・娘、営業部長・経理課長・一般社員、店主・店員・客、校長・教頭・教諭・生徒、友人、恋人などのポジションを自分として自我を持って暮らしている。淡々と漠然と暮らしているのではなく、常に、我々は、他者から自我(自分のポジションとしての働き)に対して、好評価・高評価を受けたいと思って暮らしている。それが、対他存在のあり方なのである。だから、他者から、自我が好評価・高評価をもらえれば嬉しいが、他者から、自我が悪評価・低評価を与えられたならば心が傷付くのである。これが、精神の損傷、プライドであり、精神的な苦痛をもたらすのである。そうすると、我々(の表層心理)は、その苦痛から脱するために思考を始めるのである。表層心理に、苦痛から脱するために、対他存在、プライドの損傷を回復させる方策を考えようとするのである。このように、我々は、精神的にも肉体的にも、苦痛から、その損傷、その原因に気付き、苦痛から解放されようとして、思考するのである。つまり、肉体的な損傷も精神的な損傷も、その発見も治療も、苦痛を感じることが起点であり、苦痛が無くなることが最終地点なのである。つまり、苦痛の有無が、損傷の治癒のバロメーターになっているのである。それ故に、苦痛が我々を支配していると言えるだろう。しかし、精神的にしろ、肉体的にしろ、苦痛を除去しようと考えても、適当な方法が考え出されず、いろいろと方法を考えて実行しても効果が無く、酒などを試しても効果が無くて、苦痛がそのままだったならば、我々は、どうするだろうか。残された道は三つしか無いのである。一つ目は、苦痛そのものを感じないようにさせる道である。二つ目は、苦痛を覚えさせる現実を忘れるようにさせる道である。三つ目は、死ぬ道である。一つ目の苦痛そのものを感じないようにさせる道は、我々が、意識して(表層心理で)考えた方法で、覚醒剤や麻薬などの違法薬物を体内に取り入れる方法である。身も心もぼろぼろにされるのがわかっていながら、覚醒剤や麻薬などに手を出す人が後を絶たないのは、苦痛がそれほど激しい人が多いことを示しているのである。二つ目の苦痛を覚えさせる現実を忘れようにさせる道は、鬱病・離人症・統合失調症などの精神疾患に罹患する方法であるが、我々が、意識して(表層心理で)考え出した方法ではない。我々の無意識のうちに、深層心理は、我々を、鬱病・離人症・統合失調症などの精神疾患に罹患するさせ、現実から逃避させたり、現実を認識させないようにするのである。全国の精神科医が、毎日、予約患者で埋められ、診療時間が15分という短時間が珍しくないのも、いかに、精神疾患に罹患している人が多いか示している。三つ目の死ぬ道は、言うまでもなく、自殺する方法である。この方法を採用する人は、苦痛がひどく、苦痛から解放される可能性が全くなく、この苦痛から、一刻も早く、解放されたいのである。毎年、三万人前後の日本人が自殺しているのを見ても、苦痛に満ち、絶望的な毎日を送っている人の多さが窺われる。