あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

現代社会では、誰一人として、ストレスを免れることはできない。(自我153)

2019-07-09 18:55:12 | 思想
現代は、ストレス社会だとよく言われる。言うまでもなく、現代は、これまでの時代に比べてストレスが感じることが多いと思われるからである。それでは、なぜ、ストレスが感じることが多いのだろうか。現代は、それほど、嫌な時代なのか。むしろ、現代は、これまでの時代には無いような、自由な時代ではないのか。確かに、誰もが、現代は自由な時代だと思っている。しかし、誰もが現代は自由な時代であると思っていることがストレス社会を作り出しているのである。しかし、それは、現代は自由な時代であるということに疑問を呈しているのではない。現代はこれまでの時代に比べて不自由な時代であると言っているのでもない。ただ、現代人が現代を自由な時代だと思い込んでいることがストレスを感じる人を多く出現させ、現代をストレス社会にしていると主張しているだけなのである。そもそも、自由とは、どのような意味であるか。自由とは、自分の思い通りに行動できるということである。自由な社会とは、自分の実力が十分に発揮できる社会なのである。だから、自由な社会の旨味とは、自分の思い通りに行動でき、それが、他者から自分の力として評価されることなのである。逆に、自由な社会の苦味とは、自分の思い通りに行動できないために、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めたり、自分の思い通りに行動したのに、うまく行かず、他者から評価されず、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めたりすることである。自分の力不足を嘆き、自分自身を責めることはストレスになる。現代社会がストレス社会であるとは、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めている人が非常に多いことを意味しているのである。それでは、自分の思いとは、何か。自分の思いとは、自分の欲求や欲望である。すなわち、自分の思い通りに行動するとは、自分の欲求や欲望を満たすために行動することなのである。それでは、欲求とは、何か。欲求とは、食欲などの生命を維持するために動く心の渇望である。しかし、現代日本は、物質的に豊かであるから、欲求不満に陥る人が、過去の時代に比べて少なく、欲求不満がストレス社会を作り出しているのではない。つまり、欲求不満ではなく、欲望不満がストレス社会を作り出しているのである。それでは、欲望とは何か。それは、深層心理が生み出してくる自我の欲望である。それでは、深層心理とは何か。深層心理とは、我々自身は気付いていない(無意識である)が、我々の心の奥底にある心の動きである。人間は、意識していないが、深層心理が、常に、思考し、我々を動かそうとしているのである。表層心理が、時には、それを意識し、表層心理の言うままに行動したり、時には、深層心理の言うことを抑圧し、表層心理の言う通りに行動しなかったりするのである。また、我々は、時には、表層心理が深層心理の言うことを意識しないままに、深層心理の言う通りに行動することもある。それが、所謂、無意識の行動である。それでは、自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係について、具体的に言えば、次のようになる。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。それでは、自我の欲望とは何か。それは、構造体において、自我の働き(自己のポジションとしての働き)が、他者から評価されることなのである。人間は、自我の働きが認められ、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚し、自我の働きが認められないと、他者から、悪評価・低評価を受けて、気持ちが沈み込む。当然のごとく、人間は、自我として、他者から、好評価・高評価を受けることを目的として、行動するようになる。他者からの評価を絶対的なものとして、行動するのである。つまり、誰しも、現代社会は、自由な社会だから、自我の欲望を存分に満たすことができると思って行動している。しかし、いろいろな構造体において、自我の欲望通りに行動できないために、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めたり、自我の欲望通りに行動したのに、うまく行かず、他者から評価されず、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めたりする人が非常に多い。それが、ストレス社会を形成しているのである。ところで、ストレスの原因になることは何であろうか。いろいろあるが、一般的には、セクハラ、パワハラ、モラハラなどである。セクハラは、会社という構造体で、女性社員が、上司などから、受けることがある。「まだ、結婚しないの。」、「彼氏はいるの。」と尋ねられたり、「胸が大きいね。」などと言われたり、時には、体の一部が触られたりすることである。それがストレスになるのは、女性社員にとって、そんな扱いを受けるのは、社員としての力を認めてほしいという自我の欲望がかなわず、上司を含めた他者から評価されていない、セクハラを受けても良いような女性に思われているのではないかと思い、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるからである。さらに、セクハラを受けて、反論しない自分に対して、力不足を嘆き、いっそう、自分自身を責めるからである。パワハラも、会社という構造体で、社員が、上司などから、受けることがある。「おまえは、給料泥棒だ。」、「おまえは、役立たずだ。」、「おまえの換えなど、何人もいる。」などと言われたり、無報酬残業をさせられたりすることである。それがストレスになるのは、社員にとって、そんな扱いを受けるのは、社員としての力を認めてほしいという自我の欲望がかなわず、上司を含めた他者から評価されていない、パワハラを受けても良いような社員に思われているのではないかと思い、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるからである。さらに、パワハラを受けて、反論しない自分に対して、力不足を嘆き、いっそう、自分自身を責めるからである。モラハラは、夫婦という構造体で、妻が、年齢が相当に離れた夫から、受けることがある。客が帰って後で、夫が、妻に対して、「客に対する態度が良くない。」と言って、数時間にわたって、こんこんと、自分の道徳観を述べることなどである。それがストレスになるのは、妻にとって、夫からそんな扱いを受けるのは、妻としての力を認めてほしいという自我の欲望がかなわず、夫という他者から評価されていない、モラハラを受けても良いような妻だと思われているのではないかと思い、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるからである。さらに、モラハラを受けて、反論しない自分に対して、力不足を嘆き、いっそう、自分自身を責めるからである。しかし、逆に、上司が、社員に対して、セクハラやパワハラの行為をしなかったならば、ストレスを感じるのである。上司としての自我の欲望には、自分は社員に対して地位が高いということを、セクハラやパワハラという行為でそれを見せつけようという権力の意志の欲望があり、もしも、それらの行為を抑圧したならば、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるからである。年齢の離れた夫も、妻に対して、モラハラの行為をしなかったならば、ストレスを感じるのである。年齢の離れた夫としての自我の欲望には、妻に対して自分は人間のことをよく知っているということを、モラハラという行為でそれを見せつけようという権力の意志の欲望があり、もしも、それらの行為を抑圧したならば、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるからである。このように、女性社員と上司のどちらがストレスを感じ、社員と上司のどちらかがストレスを感じ、年齢の離れた夫と妻のどちらかがストレスを感じながら生きているのである。しかし、ストレスに堪えて暮らしている人も、いつかは、ストレスを与えている人に反撃する。なぜならば、ストレスに堪えながら暮らすことは苦痛であり、自由な社会とは、反撃することを許容している社会だからである。反撃されれば、ストレスを与えていた人が、今度は、ストレスを感じることになる。現代社会は、非権力者と権力者の、どちらかがストレスを与え、どちらかがストレスを感じながら暮らしているが、いつか、それが、逆転するのである。それは、誰しも、現代社会は、自由な社会だから、自我の欲望を思う存分に満たすことができると思って行動しているからである。つまり、現代社会では、誰一人として、ストレスを免れることはできないのである。