あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間、誰しも、周囲の人となじめない時がある。(自我その169)

2019-07-28 17:01:37 | 思想
人間、誰しも、周囲の人となじめない時がある。常になじめない人、時折なじめない人、時としてなじめない人などさまざまな人がいるが、必ず、なじめない時がある。また、人間、誰しも、自分が周囲の人から正しく評価されていないと思う時がある。常に正しく評価されていないと思う人、時折正しく評価されていないと思う人、時として正しく評価されていないと思う人などさまざまな人がいるが、必ず、正しく評価されていないと思う時がある。そして、人間、誰しも、周囲の人となじめない時、自分が周囲の人から正しく評価されていないと思う時があるために、現在所属している構造体(家族、会社、店、学校、仲間などの人間の組織・構造体)から出たいと思う時がある。常に出たいと思う人、時折出たいと思う人、時として出たいと思う人などさまざまな人がいるが、必ず、出たいと思う時がある。しかし、それは、当然のことである。人間、誰しも、自己として生きているのではなく、自我として生きているからである。自己という主体的な存在ではなく、構造体の中の自我として暮らさざるを得ない存在だからである。しかも、存在だけでなく、意識も、自我なのである。つまり、意識も自分のポジションと一体化しているのである。人間は、常に、構造体という組織・集合体の中で、あるポジションを自我として行動し、深層心理が、自我を生かすために、他者を対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて暮らしているが、思うようにいかないから、周囲の人となじめない時、自分が周囲の人から正しく評価されていないと思う時があり、現在所属している構造体(家族、学校、会社、店、仲間などの人間の組織・構造体)から出たいと思う時があるのである。それでも、現在所属している構造体から出ることを逡巡するのは、一つの構造体を出ることは一つの自我を失うことを意味し、それに不安を覚えるからである。これから、それを再説しながら、細説・詳説していこうと思う。先に述べたように、人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。構造体とは、家族、学校、会社、店、仲間などの人間の組織・集合体である。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体と自我の関係について、具体的に言えば、次のようになる。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教頭・教諭・生徒などの自我があり、クラスという構造体では、担任・クラスメートという自我があり、クラブという構造体では、顧問・部員などの自我があり、会社という構造体では、社長・会長・部長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があるのである。そして、深層心理が、自我を生かすために、他者を対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて暮らしているのだが、深層心理、対他化・対自化・共感化とはどのようなものであろうか。深層心理とは、フロイトの言う無意識である。その意味は、次の通りである。人間は、決して、意識的に自分の意志で考えて、言い換えれば、表層心理が考えて行動しているのではない。人間は、無意識的に、言い換えれば、深層心理が対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて考えて、行動しているのである。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。共感化とは、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と愛し合い、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。さらに、自我は構造体の存続・発展にも尽力するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。だから、周囲の人となじめない時、自分が周囲の人から正しく評価されていないと思う時があっても、現在所属している構造体から出ることに逡巡するのである。さて、人間は、自我の動物であるから、自我を生かすために、他者を利用するのである。それが、深層心理が働かせる対他化・対自化・共感化の機能である。人間は、互いに、自我を生かすために、他者を利用しようとするのであるから、周囲の人となじめない時、自分が周囲の人から正しく評価されていないと思う時、現在所属している構造体から出たいと思う時があるのは当然のことである。吉本隆明が、「人間はわがままに生まれてきながら、協調しなくては生きていけないことに、人間の不幸がある。」と言ったのは至言である。人間は、ストレスから逃げることはできないのである。バタイユが、「人間は、愛し合っている二人でも、セックスの際には、男性には強姦と同じ欲望があり、女性には、売春と同じ欲望がある。」と言ったのは至言である。愛とは、相手の愛情を征服する欲望なのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)と言ったのは、至言である。人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、主体的な判断ができないのである。他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。そのような人間なのであるから、他者の評価によって、簡単に崩れるのである。ヘーゲルは、「主人と奴隷の関係において、主人は、奴隷に生活を依存しているが、奴隷は、労働によって、自然を知り、自己を形成することができる。」と言った。果たして、ヘーゲルの言うように、会社や店などにおいて、恵まれない境遇・嫌な上司・嫌みな先輩や同僚の中で、それが自分の人間形成に役に立つと思えるかどうかが問題である。マルクスは、ヘーゲルの言うような観念的な自立は意味を為さず、労働者(奴隷)は現実に自立するために、団結して、資本家(主人)と戦うこと、つまり、革命を起こすことを勧めたのである。そして、目指す社会は、主人(資本家)と奴隷(労働者)の無い社会、つまり、公平・平等な社会である。しかし、吉本興業のようなブラック企業は、労働組合が無く、芸人がそれぞれ孤立させられているから、書面契約をせずに、主人側(経営者側)は、自らの都合の良いように、芸人を処理するのである。つまり、芸人は、操られているのである。ハイデッガーは、「死の覚悟を持たない限り、自分の生き方を変えることはできない。」(ハイデッガーの実存主義)と言ったのは、至言である。しかし、本当に死の覚悟を持ったら、多くの人は自殺してしまうのではないだろうか。また、苦悩したら、死の覚悟を持つ前に、深層心理が自らを精神疾患に陥らせて、苦悩から逃れ・忘れようとするのではないだろうか。死の覚悟を持つことで自分の生き方を変えられる人は幸いである。ところで、往々にして、人間は、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探る。自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。自我が不安な時は、他者と共感化して、自我の存在を確かなものにしようとする。このように、人間とは自我が中心の生き物であるから、他者を利用とするのは当然のことなのである。この思いは、深層心理から湧き上がってくるから、どうしようもないのである。さらに、毎日、同じ構造体で暮らしていると、必ず、嫌いな人が出てくる。好きな人ばかりでなく、必ず、嫌いな人が出てくるのである。しかし、人間は、好き嫌いの判断・感情を、自ら意識して、自らの意志で、行っているわけではない。意志や意識という表層心理とは関わりなく、深層心理が嫌いな人を出現させるのである。しかし、人は、構造体に嫌いな人がいても、それを理由にして、その人を構造体から放逐することは許されない。わがままだと非難されるだけであり、また、恥ずかしくて、言えない。また、自分が今の構造体から出ると、今の自我が失われ、新しい構造体に受け入れられて新しい自我を得られるという保証も無く、不安だから、今の構造体に留まろうとする。しかし、閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いな人と共に生活することは苦痛である。トラブルが無くても、その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。いつしか、不倶戴天の敵になってしまう。すると、自らの深層心理が、自らに、その嫌いなクラスメートに対して攻撃を命じる。しかし、自分一人だと、勝てないかも知れない。また、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れない。そこで、仲間という構造体に頼み、友人に加勢を求め、いじめを行い、嫌いな人を下位におとしめるか、構造体から放逐しようとするのである。友人は、仲間という構造体から、自分が放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。上司も、いじめに気付いても、いじめている人たちは構造体の戦力になっていることが多く、彼らを敵に回すと、構造体の運営が難しくなるから、見て見ぬふりをするのである。また、いじめられている人というのは、構造体の戦力になっていても、個性が強いから、往々にして、上司の言うことをそのまま従うということが無いから、助ける気にならないのである。しかし、これが、逆の立場になり、自分が、いじめの被害者になることもあるのである。このように、人間、誰しも、自我中心に生きているから、周囲の人となじめない時、自分が周囲の人から正しく評価されていないと思う時があるために、現在所属している構造体から出たいと思う時があるのである。

メダル数を競うことの愚かさ(自我その168)

2019-07-28 12:13:47 | 思想
来年、日本で、オリンピックが開催される。マスコミは、連日、「今、日本全体が東京オリンピックの期待感で盛り上がっていて、来年になれば、いっそう高まるだろう。」と報じている。なぜ、東京オリンピックに、マスコミも国民も期待するのか。それは、オリンピックは、国威発揚の良い機会であり、地元開催ならば、その期待がいっそう高まるからである。そんな中、「オリンピックなんかに、興味ないよ。そんな金があったら、母子家庭や身体障害者や知的障害者などの弱者を支援することに充てたら良いのに。」と言ったならば、無視されるか、顰蹙を買うか、袋だたきに遭うだろう。さて、6月27日、JOC(日本オリンピック委員会)は、理事会で、山下泰裕を新会長に選出した。彼は、会長就任の記者会見で、「目標は、金メダル30個。自覚を持って挑戦すれば、十分に可能。」と述べた。なぜ、彼は、金メダルの獲得数を、具体的に数値目標として掲げなければならなかったのか。それは、マスコミも国民も、金メダルを数多く獲得することをを期待しているからだ。オリンピックが終われば、いや、途中でも、マスコミは、金メダルを中心に、各国のメダル獲得数を順位付けする。その結果が上位であればあるほど、国民は喜ぶというわけである。まさしく、オリンピックは国威発揚の機会なのである。しかし、オリンピックに出場する選手の気持ちはどうであろうか。もちろん、プロであろうとアマチュアであろうと、毎日、その競技を練習し、種々の大会に参加・出場しているから、自国開催のオリンピックならば、なおさらのこと、出場し、活躍したいだろう。できれば、金メダル獲得の栄誉を担いたいだろう。しかし、金メダル候補と言われながら、それを逃したならば、また、メダル候補と言われながら、それを逃したならば、国民は大いに落胆するであろう。しかし、決して、非難しないだろう。日本国民は、現実を目の当たりにするのは恐いから、傷心を受けないように、現実を糊塗して見たり、未来に可能性を引き延ばそうとしたりするのである。しかし、選手にしてみれば、期待外れの結果になり、国民が落胆し、それを隠そうと、無視したり、慰めの言葉を掛けてくることが、いっそう辛いのである。なぜ、マスコミや国民は、東京オリンピックを、選手がのびのびと自分の力を発揮する晴れ舞台にしないのだろうか。なぜ、金メダルという十字架を負わせるのだろうか。それは、オリンピックに限らず、国際大会は、国威発揚の大会だと思い込み、その思いに全く疑念を抱かないからである。だから、選手がどのように良い試合をしても、メダルを獲得しなければ、意味が無いのである。選手が、どのように良い試合・演技をしても、金メダルはベストであるが、最悪でも、銅メダルを獲得しなければ、それは何の意味も為さないのである。メダル獲得という結果が全てなのである。それが、金メダルを中心にして、国別、メダル獲得数の順位付けに現れているのである。それでは、なぜ、日本国民は、オリンピックを国威発揚の機会にし、金メダル獲得数を中心にしたメダル獲得の国別の順位にこだわり、日本選手を応援するのか。それは、日本選手も自分も、日本という構造体(人間の組織・集合体)に所属し、日本人という自我を持っているからである。日本国民は、日本選手が金メダルを中心にしたメダルを獲得すれば、世界中の人々から、日本という国・日本人という自我の存在・力が認められると思うから、嬉しいのである。それは、父(母)が息子(娘)が有名私立中学校に合格した時、高校生が自分が所属している高校のサッカー部が全国高校サッカー選手権大会で優勝した時、社員が自分が所属している会社の野球部が都市対抗野球大会で優勝した時の喜びと同じである。しかし、選手の中には、国民の期待に潰される人も存在する。それが、円谷光吉の悲劇である。円谷光吉は、1964年の東京オリンピックのマラソン競技で銅メダルを獲得し、次回の1968年のメキシコオリンピックでも日本中から活躍を期待されていたが、腰痛や椎間板ヘルニアの手術のために、十分に走れなくなり、同年の1月、「光吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。」という遺書を残して自殺している。27歳だった。また、ヒットラーは、1936年のベルリン大会では開会宣言をし、これまでに無い壮大なスケールで大会を行い、新しい式典を設けるなどして、ドイツ国民を陶酔させ、文字通り、ドイツの国威発揚のために、大いにオリンピックを利用した。第二次世界大戦の勃発は、その僅か三年後である。オリンピックと戦争は、同じものである。いずれも、愛国心に基づく国威発揚の機会なのである。