あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

地獄であるこの世に生まれた運命を引き受ける覚悟(自我その151)

2019-07-07 11:54:28 | 思想
カミユは、『シーシュポスの神話』という随筆で、「神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩を転がして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび、山頂に達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。無益で希望の無い労働ほど恐ろしい懲罰は無いと神々が考えたのは、確かに、幾らかは、もっともなことであった。無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨なありさまを隅々まで知っている。まさにこの無残なあり方を、彼は下山の間中考えているのだ。彼を苦しめたに違いない明哲な視力が、同時に、彼の勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り越えられぬ運命は無いのである。」と述べている。つまり、カミユは、ここで、自らの行為は、全て無になるという運命を知っていながらも、それでも、それを見据えながら、生き続けていくという人間の覚悟の崇高さを示しているのである。地獄であるこの世に生まれた運命を引き受ける覚悟である。ニーチェも、また、「この世は、同じことを永遠に繰り返す。」という「永劫回帰」の思想を説く。しかし、それでいて、「もう一度人生を。」と言う。ニーチェも、また、地獄であるこの世に生まれた運命を引き受ける覚悟でいるのである。