あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

川は流れる。(自我その158)

2019-07-14 19:37:33 | 思想
古来、西洋人にとって、流れる川は、万物の変化を象徴している。しかし、そこには、人間が含まれていない。西洋人にとって、人間は、万物の中では、別格の存在だからである。ギリシアの哲学者のヘラクレイトスは、「人々が同じ川に入ったとしても、常に違う水が流れている。」と言ったという。同じ意味ではあるが、「同じ川に二度入ることができない。」という言葉もある。極めつけは、「万物は流転する(パンタ・レイ)。」である。しかし、ヘラクレイトスは、万物は変化すると共に、対立や矛盾を含んでいると言い、「上り坂も下り坂も同じ一つの坂である。」「水は魚にとっては生だが、人間にとっては死である。」という喩えで示している。ヘラクレイトスは、変化、対立、矛盾があることが万物の真理であり、それらを包括した思想を、ロゴスとして、打ち立てなければいけないと主張したのである。ヘラクレイトスの思想は、ヘーゲルの「意見(定立)と反対意見(反定立)との対立と矛盾を通じてより高い段階の認識(総合)に至る」という、弁証法を主体とした哲学に影響を与えたことは言うまでもない。このヘラクレイトスの思想に対して、パルメニデスは、「存在は不変である。」と主張する。その理由を、パルメニデスは、「存在の生成の原因を存在だとすれば、その原因となった存在はどのような存在が原因になっているかと追究していくことができ、それは、とどのつまり、無限循環となって、矛盾が生じる。だから、存在の生成の原因は、存在ではない。しかし、存在の生成の原因を非存在だとすれば、非存在から存在が生じたことになり、矛盾が生じる。だから、存在の生成の原因は、非存在でもないのである。つまり、存在は生成することはないのである。また、存在が消滅するとすれば、存在が非存在に変化することになり、矛盾が生じる。だから、存在が消滅することは無い。つまり、存在は生成することも消滅することもないのである。」と説明している。パルメニデスは、世界が変化しているように考えるのは、感覚に基づいて思考しているからだと言う。そこから、パルメニデスは、感覚ではなく、理性による思考をしなければならないと主張したのである。一見すると、ヘラクレイトスとパルメニデスの思考は対立しているように思われるが、両者とも、外見の変化に捕らわれずに、本質を見よと主張している点では同じなのである。しかし、古来、日本人にとって、流れる川は、人生の変化を象徴している。鎌倉初期に成立した鴨長明の随筆『方丈記』は、「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる無し。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」という文で始まっている。無情厭世の仏教観に貫かれ、全てが変化することが真実であり、何に対しても愛着を持ってはいけないと説いているのである。1961年9月から、仲宗根美樹が歌った『川は流れる』は、レコードが100万枚以上売れ、大ヒットした。横井弘が作詞した。哀しみに満ちた人生であるが、希望を持って生きていこうという感傷歌である。歌詞の全文は、「病葉を今日も浮かべて 街の谷 川は流れる ささやかな望み破れて 哀しみに染まる瞳に 黄昏の水のまぶしさ 思い出の橋のたもとに 錆び付いた夢の数々 ある人は心冷たく ある人は好きで別れて 吹き抜ける風に泣いてる ともしびも 薄い谷間を ひとすじに川は流れる 人の世の塵にまみれて なお生きる 水を見つめて 嘆くまい 明日は明るく」である。1989年1月に発売された、美空ひばりが歌った『川は流れのように』は、彼女の生前最後に発表されたシングル作品である。秋元康が作詞した。長い人生を振り返って、よく生きてきたなあとしみじみと感慨にふけっている。歌詞の全文は、「知らず知らず歩いて来た 細く長いこの道 振り返れば 遙か遠く 故郷が見える でこぼこ道や曲がりくねった道 地図さえ無い それもまた人生 ああ 川の流れのように 緩やかに 幾つもの時代を過ぎて ああ 川の流れのように とめどなく 空が黄昏に染まるだけ」である。このように、『川は流れる』は、人生の途上にあり、これからも変化はあるだろうが、その変化を受け止めて生きていこうという希望の歌であるが、『川は流れのように』は、人生の最後にある人が、これまでの自分の人生を振り返って、いろいろな変化によって苦しめられてきたが、これも、自分の人生を形作っているのだと、しみじみ述懐した歌である。さて、誰しも、川は海や湖に流れ込んで、川で無くなるように、「自分は、いつか、死ぬ、」と思っている。しかし、死後の考え方は分かれている。死後、あの世があるという考え方をする人々がいる。宗教を信仰している人たちである。キリスト教やイスラム教を信仰する人々がいる。この人たちは、死後、あの世で、神の裁きにあい、天国に行かされるか、地獄に落とされるかの運命が待っていると信じている。このような人たちは、天国に行きたいがために、聖書やコーランなどを熟読し、教会や礼拝所などに通い、神の教えを日々実践しようとしている。しかし、日本の仏教では、浄土宗・浄土真宗が「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できると説き、日蓮宗は「南無妙法蓮華経」と唱えれば真理に帰依して成仏できると説くので、これは両方とも修行もなく、簡単にできるので、信者はこぞって唱えている。しかし、本来の仏教の教えは、人間が、修行して、悟りを開いて、迷いを去り、永遠の真理を会得して、仏(完全な悟りを得た聖者)になり、全ての煩悩を解脱するという涅槃の境地に入り、一切の苦しみから解放された不生不滅の悟りに入ることを説いている。そうすれば、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を輪廻転生し、永遠に迷い、苦しむという、生物全ての運命から脱することができるからである。つまり、仏教本来の教えとは、修行し、悟りを開き、涅槃の境地に入り、輪廻転生の苦しみから脱却することなのである。そして、死後、あの世が無いという考え方をする人々がいる。このような考え方をする人たちの中には、死後、宇宙の一部となれば良いと考える人、偶然生まれたのだから、死後の世界がある必然性が無いと考える人、この世に偶然生まれたのだから、この世で何かをする必然性は無く、自分の行動は自分の判断・決断によれば良いと考える人など、さまざまな考え方をする人が存在するのである。しかし、死後の世界があるという考え方をする人にしろ、死後の世界が無いという考え方をする人にしろ、死後、安定したいという思いは同じである。それほど、誰しも、この世に生きている間は、変化に満ち、苦難が絶えないのである。