あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自らが変わるということ、情況を変えるということについて(自我その170)

2019-07-29 15:20:31 | 思想
テレビのドキュメンタリー番組を見ると、開発途上国の子供たちが、嬉しそうに学校に行き、熱心に学んでいる。彼らは、将来、医者になりたい、先生になりたい、エンジニアになりたいなどの夢を語る。学ぶことによって、自らを変え、将来の夢に向かって邁進しようと思っているのである。その一方、学校に行けず、子守をしたり、街頭で花を売ったりしている子供たちがいる。彼らは、学校に行きたいが、親を助けなければ家計が成り立たないから、そのようにしているのである。彼らは、異口同音に、現在の家庭の状況では仕方が無いと言う。彼らも、現在の貧しさを脱するためには、教育を受けることが大切だと知っているのであるが、家庭の事情から、現在の自分を変えることができないのである。しかし、イスラム教の原理主義者たちが、学校に通う少女の暗殺を企てる。彼らは、現況から変わろうという彼女の思いが気に入らないのだ。女性は男性の支配下にあるべきだという思いが強いののである。しかし、男尊女卑の考えは、イスラム教成立当初から存在し、それは、その時代の遊牧民族の考えをそのまま反映したものである。イスラム挙の原理主義者は、自らの思考と異なるイスラム教信者やイスラム教以外の宗教を信じている者の暗殺を企てている。日本の右翼が、日本の方向性に関して自らと異なる考え方をする者を反日だと非難したり、在日朝鮮人や在日韓国に対して日本から出て行けと言ったりするのと同じである。彼らは、古い思考法に留まり、形を変えることを良しとしないのである。むしろ、彼らこそ、学習して、自らを変えるべきなのである。学習するということは、自らを変え、成長させることを目的にしているからである。しかし、ニーチェの「永劫回帰」の思想が言うように、人間には、同じことを毎日繰り返す習性がある。人間は、毎日、同じ構造体(人間の組織・集合体)に行き、同じ自我(あるポジションを自分の存在として認めること)を持ち、同じことを繰り返している。人間は、無意識のうちに、深層心理によって、そのようにするように仕向けられているのである。もちろん、変化が成長となるためには、変化、繰り返し、定着、成長、そして変化へというような流れがある。しかし、繰り返しだけでは成長できないのである。人間は、転職などの機会が訪れているのに、自ら拒否し、今までの暮らしを繰り返そうとするから、後悔するのである。もちろん、転職しても上手く行かないかも知れない。しかし、それでも、そこから、得るものがあり、成長できるのである。また、転職しなくても、会社の方針が気に入らなければ、会社を変えるように動けば良いのである。それこそが、会社の方針に忍従してきたこれまでの自分を変えることなのである。もちろん、それに対して。会社は圧力を掛け、退職を余儀なくされることも多いであろう。しかし、そうでなければ、会社は変わらないのである。佐高信は、ある県の教職員組合の幹部から、「教師は、どのような考えを持って行動することが大切ですか。」と尋ねられ、「いつでも、教師を辞める覚悟を持って行動することです。」と答えると、「それには賛同できません、」と言われたそうです。私は、佐高信の意見に賛成である。しかし、現在の教師は、組合員であろうと、非組合員であろうと、あまりにも、自分を変える意識、学校を変える意識に乏しい。だから、中学校でも、高校でも、教師が生徒の服装検査をし、野球部は丸刈り、そして、体育クラブでは、監督・顧問による生徒への暴力事件が絶えないのである。いじめ自殺事件が起きても、校長だけで無く、クラス担任教師、クラブ顧問教師までもが、校長・教師という自我を守るために、いじめの事実を隠蔽しようとするのである。そのような教師たちに、どのようなアドバイスも無効であろう。自らが変わる勇気を持たず、環境を変える勇気を持たない者は、現況を甘受するか忍従するしかない。それは、また、生き方の一つであろう。しかし、そのような保守的な生き方をしている人が、往々にして、何かを変えようとする人たちの足を引っ張ることが多いのである。経営者ならば、自我に捕らわれているから、そうするのは、賛同できないが、理解できる。しかし、被雇用者が、そのようにするのは、嫉妬心からである。ニーチェの言うルサンチマン(奴隷道徳)からである。だから、現在の自らの情況を憂えていても、自らを変えようとしない人、情況を変えようとしない人に対して、同情できないのである。