あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

メダル数を競うことの愚かさ(自我その168)

2019-07-28 12:13:47 | 思想
来年、日本で、オリンピックが開催される。マスコミは、連日、「今、日本全体が東京オリンピックの期待感で盛り上がっていて、来年になれば、いっそう高まるだろう。」と報じている。なぜ、東京オリンピックに、マスコミも国民も期待するのか。それは、オリンピックは、国威発揚の良い機会であり、地元開催ならば、その期待がいっそう高まるからである。そんな中、「オリンピックなんかに、興味ないよ。そんな金があったら、母子家庭や身体障害者や知的障害者などの弱者を支援することに充てたら良いのに。」と言ったならば、無視されるか、顰蹙を買うか、袋だたきに遭うだろう。さて、6月27日、JOC(日本オリンピック委員会)は、理事会で、山下泰裕を新会長に選出した。彼は、会長就任の記者会見で、「目標は、金メダル30個。自覚を持って挑戦すれば、十分に可能。」と述べた。なぜ、彼は、金メダルの獲得数を、具体的に数値目標として掲げなければならなかったのか。それは、マスコミも国民も、金メダルを数多く獲得することをを期待しているからだ。オリンピックが終われば、いや、途中でも、マスコミは、金メダルを中心に、各国のメダル獲得数を順位付けする。その結果が上位であればあるほど、国民は喜ぶというわけである。まさしく、オリンピックは国威発揚の機会なのである。しかし、オリンピックに出場する選手の気持ちはどうであろうか。もちろん、プロであろうとアマチュアであろうと、毎日、その競技を練習し、種々の大会に参加・出場しているから、自国開催のオリンピックならば、なおさらのこと、出場し、活躍したいだろう。できれば、金メダル獲得の栄誉を担いたいだろう。しかし、金メダル候補と言われながら、それを逃したならば、また、メダル候補と言われながら、それを逃したならば、国民は大いに落胆するであろう。しかし、決して、非難しないだろう。日本国民は、現実を目の当たりにするのは恐いから、傷心を受けないように、現実を糊塗して見たり、未来に可能性を引き延ばそうとしたりするのである。しかし、選手にしてみれば、期待外れの結果になり、国民が落胆し、それを隠そうと、無視したり、慰めの言葉を掛けてくることが、いっそう辛いのである。なぜ、マスコミや国民は、東京オリンピックを、選手がのびのびと自分の力を発揮する晴れ舞台にしないのだろうか。なぜ、金メダルという十字架を負わせるのだろうか。それは、オリンピックに限らず、国際大会は、国威発揚の大会だと思い込み、その思いに全く疑念を抱かないからである。だから、選手がどのように良い試合をしても、メダルを獲得しなければ、意味が無いのである。選手が、どのように良い試合・演技をしても、金メダルはベストであるが、最悪でも、銅メダルを獲得しなければ、それは何の意味も為さないのである。メダル獲得という結果が全てなのである。それが、金メダルを中心にして、国別、メダル獲得数の順位付けに現れているのである。それでは、なぜ、日本国民は、オリンピックを国威発揚の機会にし、金メダル獲得数を中心にしたメダル獲得の国別の順位にこだわり、日本選手を応援するのか。それは、日本選手も自分も、日本という構造体(人間の組織・集合体)に所属し、日本人という自我を持っているからである。日本国民は、日本選手が金メダルを中心にしたメダルを獲得すれば、世界中の人々から、日本という国・日本人という自我の存在・力が認められると思うから、嬉しいのである。それは、父(母)が息子(娘)が有名私立中学校に合格した時、高校生が自分が所属している高校のサッカー部が全国高校サッカー選手権大会で優勝した時、社員が自分が所属している会社の野球部が都市対抗野球大会で優勝した時の喜びと同じである。しかし、選手の中には、国民の期待に潰される人も存在する。それが、円谷光吉の悲劇である。円谷光吉は、1964年の東京オリンピックのマラソン競技で銅メダルを獲得し、次回の1968年のメキシコオリンピックでも日本中から活躍を期待されていたが、腰痛や椎間板ヘルニアの手術のために、十分に走れなくなり、同年の1月、「光吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。」という遺書を残して自殺している。27歳だった。また、ヒットラーは、1936年のベルリン大会では開会宣言をし、これまでに無い壮大なスケールで大会を行い、新しい式典を設けるなどして、ドイツ国民を陶酔させ、文字通り、ドイツの国威発揚のために、大いにオリンピックを利用した。第二次世界大戦の勃発は、その僅か三年後である。オリンピックと戦争は、同じものである。いずれも、愛国心に基づく国威発揚の機会なのである。

コメントを投稿