あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

いじめ自殺事件における校長の記者会見について(自我その165)

2019-07-23 16:21:57 | 思想
いじめによる自殺生徒が出ると、常に、テレビの情報番組が次のようなシーンを映し出す。当該の学校の校長が、教頭を伴って、事件の経緯を説明するために、テーブルを前にして椅子に座り、こちらに向かって、マスコミの質問に答えている。校長たちは、異口同音に、「いじめ教育を毎年行い、いじめの有無を確認するアンケートも実施していたのですが、本人は書いていなかったようです。」、「いじめにあっているとは、知りませんでした。」、「担任も、本人から訴えが無かったので、いじめがあったことは知らなかったようです。」、「今の段階では、いじめが自殺の原因だと断定できません。」などと答える。すると、番組のコメンテーターは、異口同音に、「生徒一人が亡くなっているのに、誠実に対応していない。」、「校長先生として無責任だ。」、「校長としての資質を疑ってしまう。」などと感想を述べる。しかし、校長とは、こういう人なのだ。校長とは、前校長に気に入られ、教育委員会の意向に沿った人がなるのであって、決して、人格の高潔な人がなるのではないのである。校長とは、学校という構造体で、校長という自我を持っている人を意味するだけである。校長に特別な人格も才能も必要ないのである。教育委員会に指名された人が校長なのである。だから、誰しも、校長になると、いじめ自殺事件の記者会見では、このような応答をするのである。コメンテーターも校長になっていれば、同じような答弁をしていただろう。さて、学校という構造体、校長という自我に限らず、人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動しているのである。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体と自我の関係について、具体的に言えば、次のようになる。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、学校という構造体では、校長・教頭・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。さて、人間は、そのような構造体において、どのように考えて行動しているのだろうか。人間は、構造体において、自我の思いを主人にして、深層心理が対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、行動しているのである。だから、人間は、決して、意識的に自分の意志で考えて、言い換えれば、表層心理が考えて行動しているのではない。人間は、無意識的に、言い換えれば、深層心理が対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて考えて、行動しているのである。また、自我は構造体の存続・発展にも尽力するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。さて、それでは、対他化とは、何か。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。対自化とは、何か。対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。共感化とは、何か。共感化とは、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と愛し合い、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。往々にして、人間は、自らの存在が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探る。人間は、自分の存在が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、不安な時は、他者と共感化して、自分の存在を確かなものにしようとする。だから、サルトルは、人間は対他化と対自化の相克であり、対自化を目指さなければならないと言ったのである。それでは、なぜ、校長は、コメンテーターから、誠実ではない、無責任だ、資質を疑うなどの批判を受けるような記者会見をしたのだろうか。それは、校長は、深層心理の対他化の機能の働きによって、教育委員会から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する教育委員会の思いを探ったからである。その結論が、あの記者会見だったのである。あのような記者会見をすれば、教育委員会の覚えがめでたいと思ったのである。深層心理の対他化の機能の働きは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。校長の他者の欲望は、教育委員会の欲望なのである。校長は、教育委員会の期待に応えようとしたのである。そこには、自殺した生徒、その家族、マスコミ、大衆への思いは存在しないのである。なぜならば、教育委員会の覚えさえめでたければ、校長という自我が保証され、有名校への栄転の道が開かれるからである。逆に、教育委員会に嫌われると、無名校へと左遷される可能性が高まり、最悪、教頭へと降格させられる可能性が出てくるからである。また、コメンテーターが、校長に幻滅したのはなぜだろうか。それは、コメンテーターの深層心理が、校長を対自化して見たからである。コメンテーターの理想の校長像と比較して、校長を見たからである。深層心理の対自化の機能の働きは、「人は自己の欲望を他者に投影させる。」(人間は、自己の欲望が他者にも存在すると感じる。人間は、自己の欲望に寄り添うかどうかで他者を判断する。人間は、自己の欲望を他者にも持たせようとする。)という言葉に集約されている。コメンテーターは、高潔な校長像を思い描いていたから、幻滅したのである。校長は、学校の最高権力者である。コメンテーターやマスコミや大衆は、権力者に理想を描き過ぎである。テレビ番組で、『水戸黄門』、『暴れん坊将軍』、『大岡越前』が好評を博したが、徳川光圀は、女癖が悪い上に、城内で部下を斬殺し、徳川吉宗の享保の改革は失敗し、大岡越前忠相の大岡裁きは虚構である。権力者に、徒らに憧れを持つから、幻滅し、また、まんまと騙されるのである。