あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理の存在について(自我その159)

2019-07-15 19:22:52 | 思想
ウィトゲンシュタインは、「哲学おけるあなたの目的は何かと尋ねられれば、私は、蠅に蠅取り壺からの出口を示してやることだと答えるだろう。」と述べている。ここにおける蠅とは哲学者のことである。ウィトゲンシュタインは、哲学者は、言語に対して誤った考え方をし、哲学的な言語使用を重用し、日常の言語ゲームを軽視しているために、心は存在するのかや観念とは何かという誤った問いの立て方をし、袋小路に入ってしまっているのだと言っている。私も、ほとんどの人は、心について誤った考え方をし、表層心理を重用し、深層心理を軽視しているために、自分の心の悩みを解決することが袋小路に入っていると思っている。また、ウィトゲンシュタインは、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない。」と述べている。ウィトゲンシュタインは、倫理や言語がどのようにして世界を表現するかというようなことは、示すだけしかできず、語り得ないことであるから、沈黙するしかないと言っているのである。私も、ここで、深層心理はなぜ存在するのかということは語り得ないことだから説明せず、深層心理の存在の働きについてだけ示そうと思う。さて、人間は、常に、心が動いている。自分の意志で、心を動かしているのではない。無意識のうちに、心が動いているのである。しかし、無作為に、心が動くはずはない。心を動かしているものがある。それが、深層心理である。人間は、眠っている時でも、心が動いている。夢を見るのである。しかし、夢は、主体なく、生まれてくるはずがない。無作為に、夢は生まれてこない。夢を生み出しているものがある。それも、深層心理である。また、一般に、無意識と深層心理は同じものと見なされている。確かに、深層心理と無意識は深い関わりがある。深層心理の動きは、人間、誰しも意識していず、また、意識できないことである。しかし、無意識は、思考する能力を有していない。無意識は、単に、状態を意味しているだけなのである。しかい、深層心理は、思考する能力を有している。つまり、無意識とは、人間の無意識のうちで、深層心理が働いているということなのである。ところが、多くの人々は、深層心理の存在を認めようとしない。なぜならば、自分は、自分の意志の下で行動し、意識して行動していると思っているからである。いや、そう思い込もうとしているのである。自分自身を、自分の意志の下で、意識して行動する、主体的な存在者だと思いたいからである。また、感情についても、多くの人は、ただ単に、物事に対して生じる、快・不快などの気持ちだとし、中には、行動を促す大きな力になっていることに気付いている人はいるが、感情が、深層心理によって生み出されていることに気付いている人は少ない。多くの人は、「自分は、常に自分を意識していて、自分の意志に基づいて行動している。無意識に行動することもあるが、それは、異常な、稀なことである。」と思っている。つまり、多くの人は、自らの意識や意志で、自らを動かし、自らを統御して生きているが、ひどい疲労や睡眠不足などが原因で、意識や意志が十分に働かない時、無意識的に行動することがあると思っている。さらに、その無意識による行動も、習慣、条件反射などの主体性の無い行動のみだと思っている。しかし、果たしてそうであろうか。真実は、無意識のうちで、深層心理が働くことが中心で、意識や意志という表層心理が働くことの方が稀れな現象ではないのか。深層心理が主体となって人間を動かし、時として、表層心理が、深層心理が生み出した感情と行動の指令を意識することがあるのではないか。表層心理が、時として、深層心理が生み出した感情と行動の指令を意識し、その後、行動の指令を抑圧したり、そのまま行動に移したりすることがあるのではないか。そして、たとえ、表層心理が抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、深層心理の指令による行動を止めることができずに、行動してしまうことがあるのではないか。それが、多くの場合、犯罪に繋がるように思われる。ストーカーがそうである。ストーカーも、表層心理では、自分の行動が間違いだとわかっているのだが、深層心理が生み出した感情が強過ぎるので、深層心理の生み出した指令を抑圧できず、そのまま行動に移してしまうのである。また、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、そのまま行動に移した場合、表層心理の意志によるものだと思っているのではないか。しかし、ほとんどの場合、表層心理は、深層心理が起こした感情と行動の指令を意識せず、深層心理が起こした行動の指令のままに行動するのではないか。これが、所謂、無意識の行動である。このように、多くの人は気付いていないが、深層心理は、主体的に思考している。それが、ラカンの言う「無意識は言葉によって構造化されている」という言葉の意味である。深層心理の主体的な思考が感情や行動の指令を生み出し、それが、人間の行動の起点になっているのである。表層心理は、時として、深層心理が生み出した感情や行動の指令を意識することがあるが、自らの意志の下で、感情や行動の指令を生み出すことはできない。意志があったとしても、それは、深層心理の働きによるものである。それが、ニーチェの言う「意志を意志することはできない」という言葉の意味である。さて、深層心理は、人間が意識することなく動き、表層心理は時としてそれを意識することがあると述べたが、深層心理は、決して、任意に、無世界で、無方向に動くわけではない。深層心理は、構造体という世界の中で、関係性を結び、自らのポジションが与えられ、そのポジションを自分だという自我意識を持って活動しているのである。ハイデッガーに「人間は世界内存在のあり方をしている」という有名な言葉があるが、我々の日々の世界内存在のあり方が、構造体存在として活動していることなのである。構造体とは、家、学校、店。カップルなどの人間の組織・集合体である。家という構造体では、家族関係が結ばれ、各人が父・母・息子・娘などのポジションが与えられ、各人がそのポジションが自分だという自我意識を持って活動している。高校という構造体では、教育という関係性が結ばれ、各人が一年生・二年生・三年生・教諭・教頭・校長などのポジションが与えられ、各人がそのポジションが自分だという自我意識を持って活動している。コンビニという構造体では、商品の売買という関係性が結ばれ、各人が客・店員・店主というポジションが与えられ、各人がそのポジションが自分だという自我意識を持って活動している。カップルという構造体では、恋愛関係という関係性が結ばれ、二人は恋人というポジションが与えられ、二人はそのポジションが自分だという自我意識を持って行動している。また、深層心理には、対自化、対他化、共感化という機能がある。対自化とは、物や自然を対象としてそれを利用する目的で見ることであり、人を対象としてその人を利用する目的で見ることやその人が何を考えているか考えることである。簡単に言えば、支配化である。対他化とは、人の視線を意識し、自らを対象化し、その人に好評価や高評価を受けたいと思いつつ、その人が自分をどのように思っているか考えることである。簡単に言えば、被支配化である。共感化とは、対自化(支配化)・対他化(被支配化)の枠を取り払い、愛し合ったり、友情を分かち合ったり、共通の敵や目標に向かって協力したり、人間の活動・芸術作品・自然などに感動したりすることである。例えば、家という構造体において、父・母・息子・娘などの自我を持った人たちは、深層心理の対自化という機能の働きによって、互いに相手がどのような思いで行動しているか考え、対他化という機能を働きによって、互いに相手が自分をどのように思っているか考え、共感化という機能の働によって、互いに信頼し合いいたわり合うという感情を持っている。学校という構造体において、校長という自我を持った人は、深層心理の対自化の機能の働きによって、教頭や教諭たちがどのような思いで教育活動をしているか仕事ぶりはどうかを考え、対他化の機能の働きによって、教頭や教諭たちが自分をどのように思っているか考え、生徒会役員という自我を持った生徒たちは、共感化の機能の働きによって、一般の生徒たちと協力して、校則改正を校長や教頭や教諭たちに要求するのである。店という構造体において、店長という自我を持った人は、対自化の機能の働きによって、店員たちはどのような思いで仕事をしているかその仕事ぶりはどうかを考え、対他化の機能の働きによって、店員たちや客が自分の仕事ぶりをどのように思っているかを考え、店員という自我を持った人たちは、共感化の機能の働きによって、協力して、店長に給料アップを要求するのである。カップルという構造体において、恋人という自我を持った二人には、対自化の機能も対他化の機能も働かず、愛し合うという共感化の機能だけしか働かない。しかし、相手に不審な行動を感じると、対自化という機能の働きによって、相手の行動を探り、対他化の機能の働きによって、相手が自分をどのように思っているか詮索するようになる。サルトルは、「人間関係は見るか見られるかの闘争である」と言ったが、確かに、恋愛や友情や協力などの心の交流が無い人間同士では、相手との関係は、見る(対自化・支配化)と見られる(対他化・被支配化)のどちらかしか存在しないであろう。しかし、サルトルには、ボーヴォワールという生涯連れ添った恋人がいたのだから、共感化に思いが至らなかったのは不思議である。サルトルにとって、ボーヴォワールは例外の存在だったのだろうか。さて、このような仕組みで、我々は深層心理によって動かされているのである。表層心理は、時には、深層心理の生み出す感情や指令の行動を意識し、ある場合は、抑圧し、ある場合は、そのまま行動することだけなのである。ところが、多くの人は、表層心理によって自分は活動していると思っているから、無力感に陥ったり、自己嫌悪に陥ったり、自分に絶望したり、他者を羨望したり嫉妬したり、挙げ句の果てには、犯罪を犯したり、精神疾患に陥ったり、自殺したりするのである。そのような状態に陥らないためにも、深層真理の働きを正確に認識することが大切なのである。さて、我々は、物・動物・人間に対した時、まず、深層心理が、対自化・対他化・共感化という三機能の中の一機能を選び、その機能の働きの下で、それの対し方を思考するのである。そして、その思考の結果、ある感情と行動の指令を生み出す。この感情と行動の指令は一体化していて、感情が強いほど、行動への思いも強い。その中で、最も強い感情が怒りである。怒りは、対他化の機能の働きから生まれてくる。当然、その行動も過激なものにならざるを得ない。しかし、対自化という機能、共感化という機能からは、怒りの感情は湧き上がらない。対自化という機能からは静謐な感情、共感化という形態の機能からは喜びの感情しか湧き上がらない。人間は、他者からどのように思われているか気にする、深層心理の対他化の機能の働きが最も強いから、怒りという強い感情がわき上がるのである。例えば、我々は、他者から侮辱された時、怒りの感情が湧いてくる。それは、怒りの感情とともに、殴れという指令を伴っている。もちろん、怒りの感情も殴れという指令も、自然に湧いてくるのではない。それは、深層心理が、対他化の機能で、思考した結論なのである。我々は、他者に対した時、深層心理が、対他化という機能の働きで、その人に評価されようと思いつつ、その人が自分をどのように評価しているかを考えていた時、侮辱されたから、深層心理は、怒りの感情とともに殴れという指令を出したのである。侮辱されたままでいることは、その人の下位に居続けることになるからである。しかし、一般に、人間は、必ずしも、深層心理の指令通りには動かない。そこに、表層心理の意識による審査が行われるからである。表層心理は、深層心理から上ってきた、怒りの感情と殴れという指令に気付き、意識する。表層心理は、殴った後のことを考える。恐らく、周囲から顰蹙を買うだろう、警察に捕まり職場や学校を追われるかも知れない。相手はもっと激しく殴り返すだろうなどと考えて、殴ることをやめたり、殴ること以外での復讐の方法を考えることになるだろう。しかし、深層心理が強ければ、表層心理が意識して考える前に、若しくは、表層心理が止めても、怒りにまかせてその人を殴ってしまうのである。人間には、深層心理の強い(敏感な)人と弱い(鈍感な)人がいて、それは、深層心理だから、先天的なものである。深層心理は、表層心理の意志や意識の及ばないところにあるので、一生、その特徴は消えないのである。犯罪者には、深層心理の強い(敏感な)人が多いが、芸術家にも、深層心理の強い(敏感な)人が多いのである。さて、誰しも、人に対した時、対他化の機能の働きから、侮辱されると、深層心理は、心が傷付き、怒りの感情を生み出すが、その人に、褒められると、深層心理は、満足し、喜びの感情を生み出す。そこに、ポジションの共通性があるのである。例えば、高校という構造体がある。そこには、女子高校生というポジションを自我とする生徒と男子高校生というポジションを自我とした生徒が存在する。女子高校生は、可愛いと言われると最も満足し、ブスだと言われると最も心が傷付くだろう。しかし、男子高校生は、可愛いと言われても、満足する生徒と満足しない生徒がいるだろう。ぶおとこだと言われても、女子高校生のブスほどショックを受けないだろう。男子高校生は、カッコイイや頭が良いと言われると誰しも満足し、頭が悪いと言われると最も心が傷付くのである。もちろん、女子高校生は自分が女子高校生であるという自我を持ち、女子高校生という認められたいという自我の欲望を持っているから、可愛いと言われると自我の欲望が満足できるから喜び、ブスだと言われると自我の欲望が破壊されるから最も心が傷付くのである。男子高校生は自分が男子高校生であるという自我を持ち、男子高校生という認められたいという自我の欲望を持っているから、カッコイイや頭が良いと言われると自我の欲望が満足できるから喜び、頭が悪いと言われると自我の欲望が破壊されるから心が傷付くのである。また、高校のクラブという構造体に行くと、女子高校生も男子高校生も部員というポジションによる自我を持ち、上手な選手だと言われると自我の欲望が満足できるから喜び、下手な選手だと言われると自我の欲望が破壊されるから心が傷付くのである。さて、可愛い、カッコイイ、頭が良い、上手な選手だと言われたいという、高校生の自我の欲望は、どこから生まれてくるのか。全て。社会という他者から与えられたものなのである。もちろん、彼らは、自ら選んだのだと思い込んでいる。社会という他者から与えられたものを取り込んだことに気がついていないのである。彼らは、無意識のうちに、ラカンの言う、「人は他者の欲望を欲望する。」(人はいつのまにか他者の模倣をしている。人は他者から評価を受けようと行動する。人は他者の欲望に答えようとする。)を体現しているのである。このように、我々にとって、深層心理の三機能の中で、対他化の役割が最も大きい。ところが、多くの人は、意志という表層心理に重きを置いている。しかし、表層心理の働きは、深層心理に比べると、二番手の働きをする存在なのである。自らの深層心理の力・役割・傾向に心を致すべきである。自らの深層心理の大きさに気付いた時、真に、自らの表層心理の役割の重要さにも気付くはずである。