あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、皆、いついかなる時でも、利我主義者である。(自我その164)

2019-07-22 20:52:47 | 思想
利己主義という言葉は、人間を非難する時に使われる。「あいつは利己主義だから、信用できない。」、「おまえは利己主義だから、みんなに嫌われているんだ。」などと使われる。あまり使われないが、利己主義の対意語が利他主義である。利己主義について、辞書では、「自己の利害だけを行為の基準とし、社会一般の利害を念頭に置かない考え方。」と説明されている。利他主義について、辞書では、「他人の幸福や利益を第一にする考え方。」と説明されている。しかし、個人の最大犯罪である殺人も国の最大犯罪である戦争も、利他主義の考えから起こりうるはずがないことは当然であるが、利己主義からも、起こりうるはずが無いのである。殺人を犯しても、露見すれば、厳罰に処され、日本では、死刑もあり得る。戦争を起こして、勝利しても、自国兵士も相手兵士も大勢死ぬばかりでなく、時には、自国民も相手国民も巻き込まれて死に、相手国民の中ではゲリラ闘争を起こす者もいて、戦争は割に合わない仕掛けである。つまり、勝利国も敗戦国も、敗戦国なのである。それをわかっていながら、なぜ、個人は人殺しをし、国の為政者は戦争をし、国民はその後押しをするのだろうか。それは、俗に言う、めんつ、プライド、名誉が原因である。メンツが潰されたから、プライドが傷付けられたから、名誉が傷付けられたからである。だから、殺人犯は、異口同音に、「自分は被害者だ。」と言い、戦争を仕掛けた国の為政者は、異口同音に、「自国は被害者だ。」と言うのである。第三者から見れば、客観的見れば、傍目から見れば、割に合わない殺人や戦争を、人間は起こしてしまうのである。人間は、自分が第三者ならば、殺人や戦争を愚かな行為だと思うが、当事者になると、めんつ、プライド、名誉のために、起こしてしまうのである。だから、人間の行動の基点は、利己主義、利他主義ではないのである。めんつ、プライド、名誉は、利他主義にはもちろんのこと、利己主義にも入らないからである。めんつにこだわる思い、プライドを守る思い、名誉を守る思いは、他者に自我が認められたいという思いから発しているのである。自己に利する思考を利己主義と言い、他者に利する思考を利他主義と言うが、これになぞらえて言うと、自我を利する思考は利我主義になる。人間は、皆、利我主義者であり、いついかなる時でも、それに則って行動しているのである。それでは、自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動しているのである。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係について、具体的に言えば、次のようになる。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、いついかなる時でも、何らかの構造体に属し、何らかのポジションを得て、それを自我として、めんつにこだわる思い・プライドを守る思い・名誉を守る思いで、行動しているのである。言い換えれば、構造体において、自我の働き(自己のポジションとしての働き)が、他者から好評価・高評価を受けることを目標に、行動しているのである。それが、自我の欲望なのである。それでは、なぜ、自我の欲望が、他者から好評価・高評価を受けることにあるのか。それは、構造体において、自我の働き(自己のポジションとしての働き)が、他者から好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚し、大きな喜び・満足感を得るからである。この大きな喜び・満足感は、深層心理がもたらすもので、自分の意志や意志による表層心理がもたらしたものではない。ちなみに、不正薬物に手を出す人は、自我の働き(自己のポジションとしての働き)が他者から好評価・高評価を受けることがなく、従って、深層心理から、大きな喜び・満足感がもたらされないので、表層心理の意識や意志が、それを使って、気持ちを高揚させようとしているのである。しかし、人間は、自我の働きが認められ、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚し、大きな喜び・満足を得るが、逆に、自我の働きが認められず、他者から、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込み、苦痛・苦悩に陥る。当然のごとく、人間は、自我の働きが、他者から、好評価・高評価を受けることを目的として、行動するようになる。他者からの評価を絶対的なものとして、行動するようになるのである。だから、社員は、会社という構造体全体で悪事を働いていると、社内の他者から認められようとして、その悪事に荷担することがあるのである。さて、現代社会は、ストレス社会だとよく言われる。全ての人が何らかのストレスを抱えているからである。これは、精神科医に患者(クライアント)が殺到し、違法薬物に手を出す人が跡を絶たないという現象からも窺うことができる。言うまでもなく、現代は、これまでの時代に比べてストレスが感じることが多いからである。それでは、なぜ、ストレスが感じることが多いのだろうか。むしろ、現代は、これまでの時代には無いような、自由な時代ではないのか。しかし、誰もが現代は自由な時代であると思っていることがストレス社会を作り出しているのである。自由とは、自分の思い通りに行動できるということである。自由な社会とは、自我の実力が十分に発揮できる社会なのである。自由な社会の旨味とは、自分の思い通りに、自我の力を存分に発揮でき、それが、他者から好評価・高評価を受けることにあるのである。しかし、逆に、自由な社会の苦味として、自分の思い通りに行動できず、自我の力を発揮できず、他者から悪評価・低評価を受けると、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるのである。それが、ストレスになるのである。自我の欲望が満たされないことがストレスになるのである。現代社会がストレス社会であるとは、自我の欲望が満たされないために、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めている人が非常に多いことを意味しているのである。ところで、ストレスの原因になることは何であろうか。いろいろあるが、一般的には、セクハラ、パワハラ、モラハラなどである。さて、セクハラであるが、会社という構造体で、女性社員が、よく、上司などから受ける。「まだ、結婚しないの。」、「彼氏はいるの。」と尋ねられたり、「胸が大きいね。」などと言われたり、時には、体の一部が触られたりすることである。それがストレスになるのは、女性社員にとって、そんな扱いを受けるのは、社員としての力を認めてほしいという自我の欲望がかなわず、上司を含めた他者から評価されていない、セクハラを受けても良いような女性に思われているのではないかと思い、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるからである。さらに、セクハラを受けても、反論しない自分に対して、力不足を嘆き、いっそう、自分自身を責めるからである。次に、パワハラであるが、会社という構造体で、社員が、上司などから、受けることがある。「おまえは、給料泥棒だ。」、「おまえは、役立たずだ。」、「おまえの換えなど、何人もいる。」などと言われたり、無報酬残業をさせられたりすることである。それがストレスになるのは、社員にとって、そんな扱いを受けるのは、社員としての力を認めてほしいという自我の欲望がかなわず、上司を含めた他者から評価されていない、パワハラを受けても良いような社員に思われているのではないかと思い、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるからである。さらに、パワハラを受けても、反論しない自分に対して、力不足を嘆き、いっそう、自分自身を責めるからである。モラハラは、夫婦という構造体で、妻が、年齢が相当に離れた夫から、受けることがある。客が帰った後で、夫が、妻に対して、「お客さんに対する態度が良くない。」と言って、数時間にわたって、こんこんと、自分の道徳観を述べることなどである。それがストレスになるのは、妻にとって、夫からそんな扱いを受けるのは、妻としての力を認めてほしいという自我の欲望がかなわず、夫という他者から評価されていない、モラハラを受けても良いような妻だと思われているのではないかと思い、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるからである。さらに、モラハラを受けても、反論しない自分に対して、力不足を嘆き、いっそう、自分自身を責めるからである。しかし、セクハラ・パワハラ・モラハラをする人間は、どの構造体にも存在する。これらを行う人間は、ニーチェの言う「力への意志」が強いのである。「力への意志」とは、他を征服し、いっそう強大になろうとする深層心理から湧き上がってくる欲望である。「力への意志」の強い上司は、社員に対して、セクハラやパワハラの行為をしなかったならば、ストレスを感じるのである。このような上司の自我の欲望には、自分は社員に対して地位が高いということを、セクハラやパワハラという行為でそれを見せつけようという、深層心理から強い「力への意志」が起こってくるのである。もしも、それらの行為を、表層心理で抑圧したならば、自分の力不足を嘆き、自分自身を責め、ストレスを感じるのである。「力への意志」の強い年齢の離れた夫も、妻に対して、モラハラの行為をしなかったならば、ストレスを感じるのである。年齢の離れた夫としての自我の欲望には、妻に対して、自分はおまえよりも人間のことをよく知っているということを、モラハラという行為でそれを見せつけようという、深層心理から強い「力への意志」が起こってくる。もしも、表層心理で、それらの行為を抑圧したならば、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるからである。だから、「力への意志」の強い上司の社員に対するセクハラやパワハラの行為も「力への意志」の強い年齢の離れた夫の妻に対するモラハラの行為も、自ら、収めることは無い。「力への意志」とは、深層心理から湧き上がってくる欲望だからである。もしも、女性社員や社員が上司のセクハラやパワハラをやめさせ、妻が年齢の離れた夫のモラハラをやめさせたいと思うならば、反撃するか、他者に訴えて、第三者の強い介入を頼むしか無い。しかし、会社という構造体では上司が権力を握り、家族という構造体では年上の夫が権力を握っているので、構造体から放逐されることを恐れ、大事になることは恥だと思い、女性社員も社員も妻も、他者に訴えず、反撃もせず、ストレスをうちに抱え込むのである。ストレスに堪えながら暮らすのである。しかし、それは、大きな苦痛になる。毎日、会社や家族という構造体の中で、上司や歳の離れた夫から、自我に好評価・高評価をもらおうと暮らしているのに、自我が否定され、悪評価・低評価を与え続けられるのである。それは、精神的な大きな苦痛をもたらすのは当然である。そうすると、表層心理は、その苦痛から脱するために思考を始めるのである。表層心理に、苦痛から脱するために、プライドの損傷を回復させる方策を考えようとするのである。もちろん、上司や年上の夫に反論するか、他者に訴えることが良いのだが、彼らにはその選択肢が無いのである。そうして、苦痛を除去しようとするのである。つまり。苦痛が無くなることだけが目標なのである。そうして、酒、カラオケ、長電話などで、苦痛を忘れようとする。それでも、たいてい、苦痛は除去されない。ストレスの事実はそのままで、重なるだけだからである。今までの生活スタイルの中で解決されない時は、残された道は四方法しか無い。第一の方法は、精神科医を訪ねる道である。精神科医は、丁寧に、話を聞いてくれ、薬も出してくれる。しかし、互いに理解できない精神科医も存在する。薬も効かず、副作用で苦しむこともある。また、全国の精神科医が、毎日、予約患者で埋められ、一ヶ月に一回の診療、診療時間が15分という短時間も珍しくなく、それだけの時間で、どれだけ理解し合えるか疑問である。第二の方法は、苦痛そのものを感じないようにさせる道である。覚醒剤や麻薬などの違法薬物を体内に取り入れる方法である。身も心もぼろぼろにされるのがわかっていながら、覚醒剤や麻薬などに手を出す人が後を絶たないのは、苦痛がそれほど激しい人が多いことを示しているのである。第三の方法は、苦痛を覚えさせる現実を忘れる道である。鬱病・離人症・統合失調症などの精神疾患に罹患する方法である。意識して(表層心理で)考え出した方法ではない。無意識のうちに、深層心理が、鬱病・離人症・統合失調症などの精神疾患に罹患させ、現実から逃避させたり、現実を認識させないようにするのである。第四の方法は、死ぬ道である。言うまでもなく、自殺する方法である。この方法を採用する人は、苦痛がひどく、苦痛から解放される可能性が全くなく、この苦痛から、一刻も早く、解放されたいのである。さて、先に、人間は、自我の働きが認められ、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚し、大きな喜び・満足を得る。当然のごとく、人間は、自我の働きが、他者から、好評価・高評価を受けることを目的として、行動するようになると述べた。これは、深層心理の対他化の機能のである。対他化とは、人間は、他者に対した時、自分が好評価・高評価を受けたいという気持ちで、彼(彼女)が自分をどのように思っているか、相手の気持ちを探ることを言うのである。しかし、対他化の作用によって、逆に、自我の働きが認められず、他者から、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込み、苦痛・苦悩に陥り、それが重なると、ストレスになるのである。しかし、深層心理の作用は、対他化だけではない。他に、対自化と共感化がある。対自化とは、人間が、物や動物や他者に対した時、それをどのように利用するか、それをどのように支配するか、彼(彼女)がどのように考え何を目的としているかなどと考えて、対応を考えることである。物や動物や他者に対して、征服欲・支配欲の視点から観察し、できうれば、征服欲・支配欲を満たしたいと思っているのである。ニーチェの言う「力への意志」は対自化の視点から来ている。そういう意味では、対他化とは、人間は、他者に対した時、自分が好評価・高評価を受けたいという気持ちで、彼(彼女)が自分をどのように思っているか、相手の気持ちを探ることを意味するから、被征服・被支配の視点である。だから、サルトルは、人間は、対自化と対他化の相克だと言ったのである。共感化とは、敵や周囲の者に当たるために、他者と協力したり、友情を紡いだり、愛情を育んだりすることを言う。敵や周囲の者と対峙するために、他者と愛し合ったり協力し合ったりして、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにすることが目的である。カップルという構造体、仲間という構造体は、共感化から成り立っている。仲の悪い者同士が共通の敵がいれば、「呉越同舟」の状態で、共感化して、協力して、敵に当たることもある。このように、深層心理の欲望は、深層心理自らが持っている、対自化・対他化・共感化の三作用のいずれかによって生まれてくる。一般に、人間は、他者に対した時、自分の自我(ポジション)が相手より強い・優位であると思えば、相手を対自化して、相手の思いを探り、相手を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、自分の自我(ポジション)が相手より弱い・優位であると思えば、自らを対他化して、相手が自分のことをどのように思っているか探る。人間は、自我が不安な時は、他者と共感化して、自我の存在を確かなものにしようとする。このように、人間は、常に、深層心理が対自化・対他化・共感化の三化のいずれかの機能を働かせて、自我の安定・拡充を図っているのである。次に、例を挙げて、対自化・対他化・共感化を説明しようと思う。まず、支配者階級の深層心理の対自化の機能である。日本・学校・会社・店などの構造体において、総理大臣・校長・社長・店長などの支配者階級グループが、自らの自我の安定・拡充を図り、自らの描いた構造体の発展のために、被支配階級グループの国民・教諭と生徒・社員・店員などをどのように利用し、どのように支配するかを考え、彼らがどのように考え、何を目的としているかなどを考慮して、対応を考え、行動するのである。もちろん、根本は、征服欲・支配欲を満たすことである。次に、被支配者階級グループの深層心理の共感化の機能である。日本・学校・会社・店などの構造体において、被支配階級グループの国民・教諭・社員・店員などが、力を合わせて、総理大臣・校長・社長・店長などの支配者階級グループに対して、自らの人権擁護・待遇改善・パワハラやセクハラの防止を求めて、デモ行進・ストライキ・団体交渉などをすることである。次に、被支配者階級グループの深層心理の対他化の機能である。日本・学校・会社・店などの構造体において、被支配階級グループの国民・教諭・社員・店員などが、現状に不満はあるが、不満を唱えると、構造体から追放される可能性があり、支配者階級グループを変えても、現状より良くなると思えず、現在、何とか暮らせていけるので、現在の支配者階級グループの指示を受け入れるのである。ニーチェの言う「永劫回帰」の生活である。次に、共感化の機能である。仲間という構造体を形成している、友人という自我の者たちも、カップルという構造体を形成している、恋人という自我の二人も、現在の生活形態に従い、互いに、共感化して、友情を紡いだり、愛情を育んだりして、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにしようとしている。次に、父の対自化の機能である。家族という構造体における父という自我も、かつては、支配者階級グループに属し、家族を対自化し、支配して暮らしていたが、現在は、家族と共感化して、現在の家族形態に従わなければ、認めてもらえない。ところが、時代錯誤の、幼稚な父は、家族を対自化しようとして、反発され、幼児虐待などを行うのである。つまり、人間は、日常生活において、自我に基づいて、深層心理の対他化・対自化・共感化という三化の機能によって引き起こされた自我の欲望に導かれて、判断し、行動しているのである。しかし、自我の欲望は、自我の保存・評価(他者からの評価)・発展だけでなく、自我が所属している構造体の保存・評価(他者からの評価)・発展に向かっても発揮されるのである。日本という構造体においては、日本人という自我を、中国人や韓国人に知らしめるために、無人島の尖閣諸島や竹島の領有権を主張するのである。森友学園問題・加計学園問題事件で、安倍晋三首相が犯罪を犯していると、誰もが知っているのに、国民の支持率が下がらず、マスコミは厳しく追及せず、官僚は共犯者となり、且つ、国会で嘘を証言し、東京地方検察庁特捜部が動かないのは、安倍政権の力は、日本という構造体の保存・評価(他者からの評価)・発展に向かって発揮されると思っているからである。日本人という自我を持った人たちは、ワールドカップ・オリンピック・世界選手権大会などで、日本チーム・日本人選手が出場すると、日本国という構造体を他者である世界中の人々から評価してもらいたいために、応援するのである。しかし、飛行機事故があって、死者が出ても、日本人が含まれていないとわかるやいなや、飛行機事故そのものの関心が薄れていくのである。