あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

「ありのまま」という軽くて危険な言葉(自我その150)

2019-07-06 20:34:17 | 思想
カントは、「私たちが直感する事物は現象であって、私がそのように直感している事物そのものではない。私たちが直感する事物の間の関係は、私たちにそのように現れるとしても、事物において存在している関係そのものではない。対象その物がどのような物であるか、また、それが私たちの感性のこれらの全ての受容性と切り離された場合にどのような状態であるかについては、私たちは全く知るところが無い。」と述べている。このカントの物自体についての思考は、一般に、「人間が認識しているのは現象であって、現象の背後にある物自体ではない。物自体その物は認識できない。」と解説されて、普遍化している。カントの言うように、人間は、物自体その物を認識できない。そればかりでなく、事柄自体も、生物自体も、人間自体も、理解できないのである。すなわち、人間は、森羅万象について、それ自体を理解することはできないのである。つまり、人間は、森羅万象を、ありのままに捉えることはできないのである。それは、人間は、ある視点・観点という、ある志向性からでしか、森羅万象を捉えることができないからである。つまり、人間は、対象に、特定の仕方・方向性をもって、向かうことでしか、対象を捉えることはできないのである。普遍的な仕方・方向性は存在しない。そして、特定の仕方・方向性をもたずに対象を捉えることはできないのである。つまり、普遍的な視点・観点、すなわち、普遍的な志向性は存在しない。そして、特定の志向性(視点・観点)をもたないでは、対象を理解することはできないのである。科学にも、普遍的な視点・観点、すなわち、普遍的な志向性は存在しない。科学は、パラダイムに支配されている。パラダイムとは、ある時代・ある領域の科学者集団の物の見方や考え方を支配する概念的な枠組み、思考の規範を意味する。つまり、科学者には、パラダイムに応じて、現象がそのように見えてくるのである。だから、パラダイムが変わらない限り、現象の見え方は変わらないのである。クーンは、「パラダイムが危機に陥ると、科学革命が起こり、別のパラダイムに取って代わられる。」と言う。それが、パラダイムシフトである。例えば、天動説が急に地動説に取って代わられた科学界の大転換などである。つまり、科学の発展とは、パラダイムシフトという、志向性(視点・観点)の変更によって起こったことであり、決して、志向性(視点・観点)が消滅したわけでもなく、志向性(視点・観点)から離れたわけでもないのである。さて、人間は、ありのままに憧れ、人間関係の中でも、よく、ありのままという言葉が使われる。まず、他者に対して、「私のことについて思っていることをありのままに話して。」と要求する。人間は、対他存在の動物だからである。対他存在とは、相手から、好評価・高評価を得たい気持ちから、相手の自分の気持ちを探るという対他化の動きを深層心理にもっている、人間のあり方を意味する。この言葉は、愛し合っていると確信のある関係や親しい関係の中で、よく使われる。それは、話し手は、いっそう、二人の関係を深めたいからである。しかし、聞き手は、真にありのままに思っていることを話すことはできない。確かに、愛している、信頼していると感じることは多い。しかし、人間の感情とは、無意識の世界である深層心理から発し、意志や意識という表層心理で、感情を生み出すことができないから、愛や信頼以外に、いろいろな思いが湧いてくるのである。嫌悪感を抱いたり、不信感を抱いたり、嫉妬心を抱いたり、別れようと思ったことなどがあるのである。もちろん、それは言えない。選んで、答える。だから、ありのままで答えたのではないのである。ありのままに答えれば、関係が壊れることが多い。次に、人間は、時に、「ありのままの自分を見せたい 。」という気持ちが起こる。それは、対他存在のあり方に疲れたからである。すなわち、相手から、好評価・高評価を得たい気持ちから、相手の気持ちを慮って、自分の言いたいことも言えず、自分のしたいことができないことに、ストレスを感じてきたからである。しかし、容貌で言えば、ありのままの自分を見せるとは、男性は、身だしなみを整えず、女性は、化粧をしないということである。誰が、無精ひげの男性を評価し、すっぴんの女性に好感を覚えるだろうか。また、自分の言いたいことを言い、自分のしたいことをするようになったら、人間社会はとんでもないことになる。人間の欲望は、深層心理から湧いてくるから、欲望通りにすると、悪口雑言を言い、罵倒し、蹴り、殴り、時には、殺人という惨劇も生じる。表層心理の深層心理の欲望に対する抑圧があって、初めて、平穏な人間社会が築けるのであって、自分の言いたいことを言い、自分のしたいことをするというように、深層心理の欲望を解放したら、とんでもないことになるのである。よく、「ぶりっこ。」と言って、それらしく見せようと態度を取る人を非難する人が存在するが、人間は、皆、ぶりっこである。「ぶりっこ。」と非難する人も、ぶりっこである。皆、ぶりっこであるから、人間社会が、平穏に営まれるのである。ぶりっこをやめて、欲望という本性をむき出しにしたら、そこは、修羅場と化す。そして、人間は、対自存在のあり方からも、ありのままを他者に要求することがある。対自存在とは、自分の思いで他者を支配し、自分の欲望を他者にも抱かせようという対自化の動きを持った、人間のあり方を意味する。高校で、生徒指導課主任の教師が、よく遅刻し、今日も遅刻してきた生徒を生徒指導室に連れてきて、訓戒する。彼は、生徒に、向かって、「遅刻した理由を、ありのままに話せ。」と言う。生徒は、「寝坊したからです。すみません。」と、答える。彼は、母が起こしてくれなかったから、夜更かしをしたから、学校に行きたくなかったなどとは決して答えない。そのように答えると、厳しく長い説教になるからである。彼は、幾度も注意され、生徒主任の欲望を知っているから、その欲望に添って答えたのである。ここでも、ありのままという言葉は、意味を為していないのである。