あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

「やればできる」という無意味な甘言(自我その148)

2019-07-04 21:14:08 | 思想
中学二年生の保護者懇談会で、担任教師が、親に向かって、「現在の成績では、第一志望の高校は無理だと思います。やればできる子なんですが。」と言う。親は、微かな希望を抱き、「うちの子は頭が悪いのではない。成績が悪いのは、勉強をやらないからなのだ。やる気を起こしてくれさえすれば。」と思う。しかし、その希望は、一時の気休めにしか過ぎない。勉強をしないことが習慣になっている子が、勉強をしようという気になって勉強を始めるのは、天地がひっくり返るような革命的な出来事なのである。それは、大人にも、言えることである。怠けてだらだら生活することが習慣になっている人が、やる気を起こして、仕事に就くことは、天地がひっくり返るような革命的な出来事である。人間には、常に、心の中に、感情や気分があり、それが、人間を動かしている。ほとんどの人は、感情や気分について簡単に考えているが、現在の感情や気分を変えることも、新しい感情や気分を生み出すことも、簡単にはできない。なぜならば、感情や気分は、心の奥底から生まれてくるものであるから、意志では、それを変えることも、それを生み出すことも、簡単にはできないのである。つまり、感情や気分は、深層心理の範疇にあるから、表層心理でそれを意識して、意志の力でそれを変えようとしても、新しくそれを作り出そうとしても、できないのである。勉強をしないことが習慣になっている子、仕事をしないことが習慣になっている大人の心の中には、常に、勉強をしない、仕事をしない感情や気分が漂っているのである。つまり、深層心理が、常に、勉強をしない、仕事をしない感情や気分を生み出し、本人は、それに従って、勉強をせず、仕事をしないのである。ラカンが、「人間は、あることを理解しようとしないのは、心の中に、それを理解することを、積極的に拒否する気持ちがあるからである。」と言っているのは、この謂である。そして、外に出ず、勉強をしない、仕事をしないことに凝り固まった状態、凝り固まった人が、引き籠もりである。彼らの心の中には、常に、勉強をしない、仕事をしない感情や気分と共に、外に出ないという感情が漂っているのである。なぜ、彼らは、外に出ないのか。それは、人に会うのが、恐いからである。過去において、学校・会社などの家の外で、心を傷付けられた経験があるから、人に会うのが恐いのである。しかも、学校へ行って勉強をしていない、会社・店・施設などへ行って仕事をしていないという自らの現況を恥じているから、心が重いのである。毎日、後悔ばかりしているから、日を追うごとに、いっそう、心が重くなっていくのである。しかし、人間は、心の重さを堪え続けることは辛いことであるから、このような状態に陥った原因を他者に求めるのである。責任転嫁することによって心の重さから逃れようとするのである。だから、引き籠もりの人は、外に出ることを恐れ、外に出られないことを恥じ、このような状態に陥らせた人を恨みながら、辛い日々を過ごすのである。ところで、深層心理は、保守的な志向性の下にある。深層心理は、毎日、同じような感情や気分で、同じようなことをすることを志向している。ニーチェの「永劫回帰」の思想を支えているのは、この深層心理なのである。つまり、深層心理の志向は、習慣的な行動なのである。ルーティーン通り、行動することなのである。それでは、なぜ、深層心理は、毎日、同じような感情や気分で、同じようなことをすることを志向するのか。それは、その方が、楽だからである。人間にとって、深層心理による習慣的な行動の方が楽なのである。なぜならば、考えないで済むからである。思考という言葉がある。そのため、思うと考えるとは、意味が同じだというように捉えている人が多く、確かに、中国では、同じようなものであるが、日本では、全く異なる。思うは、「修学旅行のことを思う」、「好きな人のことを思う」、「将来を思う」など、楽しいこと、喜ばしいことを思い浮かべ、考えるは、「解決方法を考える」、「治療方法を考える」、「逃げ道を考える」など、苦悩の中で考えることである。無意識による行動が楽なのは、無意識とは深層心理のことであり、深層心理の指針だけで済み、考えないで行動できるからである。意識とは表層心理の働きであるから、表層心理が意識して考え時には、必ず、そこに苦悩が存在するのである。悩むという言葉がある。悩むとは、考えながら苦しむこと、苦しみながら考えることである。つまり、考えるには、必ず、苦しみがつきまとうのである。習慣を破り、新しいことをすることには、考えることが必要であり、考えることには常に苦しみがつきまとうから、人間は、嫌なのである。勉強をしないことが習慣になっている子が、「勉強しろ。」と言われて、怒るのは、どのように勉強すべきかと苦しみながら考えなければいけないからである。仕事をしないことが習慣になっている大人が、「仕事に就け。」と言われて、怒るのは、どのように仕事を探すべきかと苦しみながら考えなければいけないからである。そもそも、人間が、考えるのは、習慣が打ち破られた時である。その時、表層心理が、動き出し、現在の状態を意識し、意志して、苦悩の中で、その解決法を考えるのである。すなわち、深層心理の言うままに行動していたことが破られたから、表層心理が、意識して考えるのである。例えば、包丁で、キャベツを切り刻んでいる時に、突然、指に痛みが走った。見ると、指に血がにじんでいる。急いで、傷のある指にカットバンを張り、それからは、慎重に、包丁を扱うことにする。この場合、指に痛みがあったから、表層心理が、指を意識して見、血と共に、傷を発見したのである。そして、表層心理の意志で、カットバンを張り、それ以後は、慎重に、包丁を使うことにしたのである。つまり、痛みという苦悩と共に、表層心理が動き出し、処置と今後の対応を考えたのである。痛みがなければ、いつも行っている、キャベツを切り刻むことだから、指を見ることもなく、包丁裁きをこれから慎重にしようとも考えることも無かったはずである。つまり、習慣が破られた時、表層心理が現在の状態を意識し、苦悩とともに考え始めるのである。ところで、勉強をしない子、仕事をしない大人、引き籠りの人に、親は、どのように対応したら、良いのだろうか。フロイトは、人間の行動には、二つの大きな原則があると言う。現実原則と快感原則である。現実原則とは、必要性に駆られて行動するということである。快感原則とは、楽しさや喜びを求めて行動するということである。それでは、勉強をしない子に対して、この二原則を当てはめると、どのようになるだろうか。勉強の必要性を説いても、子供たちには、理解できない。だから、快感原則である、喜びや楽しみを求めての方へ持っていくべきである。しかし、成績の良い子でも、楽しいから、勉強するのではない。成績が良いと、教師や親やクラスメートに褒められ、嬉しいから、勉強をするのである。だから、親は、点数が低くても、短時間勉強していても、褒めることである。また、成績が上がったら、小遣いを上げる、旅行に連れて行く、欲しいものを買ってやるなどの約束することである。もちろん、これは、邪道だが、子供は、本来的に、勉強そのものに必要性を実感できずおもしろみを感じないのだから、勉強をする全ての理由は邪道である。次に、仕事をしない大人に対してであるが、仕事のおもしろみや楽しみは、人に仕える場合、本質的に、存在しない。と言って、今まで仕事を拒否していた人が、自ら、起業する気になることは期待できない。だから、快感原則は、これは説得要因にはならない。また、必要性であるが、今まで、親の懐を頼って生きてこられたのであるから、言葉だけでは、説得できないだろう。親が、激しい親子げんかを覚悟しながら、支援しないことである。そうすれば、渋々ながらでも、職を求めるだろう。しかし、そうしなくても、時間が解決する。時間が経てば、親の手持ちの金がなくなっていき、最後には、親が亡くなってしまうからである。そうすれば、必要に駆られて、働くことになる。そして、引き籠もりの人に対してであるが、これが、最も難しい。家族と対話がない上に、家の外に出ることを恐れ、人間一般に対して憎悪と不信感を抱き、現在の状態の自らを恥じ、重い気持ちで、毎日過ごしているからである。現実原則、快感原則共に通用しない。小さなことを積み上げて行くしかない。機嫌の良い時などの機会を捕らえて、まず、対話をし、次に、部屋の外に出る、そして、外に出れらるようにする。時間を掛けて、ゆっくり、積み上げていくしかない。一挙に解決しようとして、叱ったり、健常者と同じことを求めても、逆上するばかりである。しかし、暴力を振るったら、警察を呼ぶべきである。事件が表面化して、親の責任を問われても、甘んじて受けるべきである。引き籠もりであろうと、最低限の社会的ルールは守らせなければならない。それが、本人のためでもある。しかし、引き籠もりの中には、親が突然して、自分が外に出られないために、餓死する人もいる。また、親の支援が受けられなくなりそうになると、自暴自棄になり、親を殺したり、外に出て、無差別殺人を起こす人もいる。引き籠もりに対して、自業自得だと見放さず、社会全体で、考える必要がある。本人が、最も、現在の自分の状態に苦悩しているのである。