伝えたんく

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アホ煙突。

2018-11-09 23:51:18 | 言いたんく

 

 

 

前回はアホまでしか書かなかったので,今回は正式名称を載せる。

いや,正式名称は「第三煙突」であった。

1913年6月に鉄筋コンクリート造の第3煙突は完成した。
この煙突の主な仕事は,排煙中の亜硫酸ガス濃度を薄めて排出することだ。
農商務省(1925年廃止)の提示した規制値はテストの結果クリアされていた。
これで,周辺住民は煙害から解放されるのである。
 
電力不足のため扇風機が使用できない状況においても規制値はクリアしていた。
 
排煙は順調に薄めて排出されていたのだ。
 
ただ,肝心の煙害の軽減には全く役に立たなかったのである。
 
茨城県北部の主要作物の1つ,タバコに甚大な煙害が発生したり,日立鉱山関係者にまでも被害が及んだ。

小学校の子供達も煙害による咳で苦しんでいた。

政府の命令によって建設されたこの煙突は、農商務省に提出された計画書内では第3煙突という名称が付けられていた。

しかし,その名前で呼ばれることはほとんどなかった。

ずんぐりしたその形状から「タンク煙突」,「ダルマ煙突」、また政府の命令によって建設されたため「命令煙突」と呼ばれた。

しまいには政府の命令に従って日時と費用を費やして建設したのにも関わらず、全く煙害軽減に役立たなかったために「阿呆煙突」と呼ばれるようになった。

阿保煙突は大煙突の使用開始後に廃止された。

廃止後、第3煙突は神峰煙道とは異なり、取り壊されること無く残っている。



久原房之助像…日鉱記念館 2008.12.28 


 久原房之助(くはら ふさのすけ)は日立製作所,日産自動車,日立造船,日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)の創業者だ。

阿保煙突を残したのも,「無能な政府の所業を残せ。」という久原の一言があったからだという。

足尾銅山と異なり,この後の大煙突の登場により煙害は激減した。

もっとも大煙突だけでなく,その他の工夫もあったのだ。

それは後で述べることにする。

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