花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

万葉歌人への処方箋

2014-12-31 | 漢方の世界
早いもので今年も余すところ一日、二大万葉歌人への処方箋という話を御紹介して、本年最後の「花紅柳緑~院長のブログ」と致したい。今年、三谷和男先生御診療の陪席に伺っていた時に「香蘇散は柿本人麿に、半夏厚朴湯は大伴家持に」というお話が出て、帰宅後に花輪壽彦先生の『漢方診療のレッスン』(金原出版)を改めて読み返してみた。ちなみに香蘇散は、香附子、紫蘇葉、陳皮、甘草、生姜の生薬から構成され、作用は疏散風寒、理気和中であり、中焦・脾胃の気の滞りを整えて、体表面の風寒の邪を取り除く漢方方剤である。そして半夏厚朴湯は、半夏、厚朴、茯苓、紫蘇葉、生姜を含み、作用は行気開鬱、降逆化痰であり、気の流通を改善し鬱滞を開き、痰の上逆を下に引き下ろす方剤である。

『漢方診療のレッスン』では、香蘇散と半夏厚朴湯の処方鑑別として、「香蘇散は本態は中枢性の気うつにあるが、発現する部位のフォーカスは定まらないことが多い。半夏厚朴湯は本態は同じく中枢にあるが、末梢に具体的な症状を示す気うつに用いる。」(p408)と記載されている。さらに同書のコラム「「心もしのに」には香蘇散、「心疼く」は半夏厚朴湯」(p187-188)には、下記の二首を挙げて、「心もしのに」と気が滅入り心がくたくたになった人麻呂には香蘇散を、「心疼く」と身体表現をしている家持には半夏厚朴湯の処方をしてさしあげたいと、実に興味深い見解を述べておられる。本年度の綴喜医師会学術講演会発表の演題「後鼻漏の漢方治療」におけるスライドの一枚にも、この二首の話を取り上げさせて頂いた。まこと漢方は臨床と浪漫が共存する大人の医学である。

近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしえ思ほゆ     柿本人麿 万葉集巻三・二六六
移り行く時見る毎に 心疼く 昔の人し 思ほゆるかも         大伴家持 万葉集巻二十・四四八三

ところで柿本人麿であるが、かつて『隠された十字架』(新潮社)に続き『水底の歌』(同)、『梅原猛著作集、さまよえる歌集』(集英社)等々と、哲学者、梅原猛先生が上梓された御本に魅了されてひたすら読み漁っていた時期があった。従来の契沖、真淵が唱えた下級官吏としての柿本人麿像に異議を唱え、高官からの左遷という流罪の後に非業の最期を遂げた人麿像を提唱なさったのが『水底の歌』である。この御本は、宮廷歌人である非凡なる歌聖が政治的事件に巻き込まれ失脚してゆく過程を辿り、反骨と好色に溢れた強く激しい人生を生きた人麻呂に対する、哀惜に溢れた挽歌である。そして同じく万葉歌人として忘れることの出来ない大伴家持もまた、古代氏族の御曹司に生まれ、藤原氏の台頭の下、傾いてゆく名家の総領として一族をひきいて現世での生き残りをめざしたに違いない男であった。「わが宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも」(万葉集巻十九・四二九一)は、私が一番好きな歌である。そこはかとない寂寥を感じさせる歌であり、一見、セレブ階級のシティボーイが漂わせる憂鬱風であるが、決してその様なたやすい歌ではない。

振り返れば京教大付属高校時代の漢文の時間に、日本では詩人といえば世俗を超越し浮世離れした、感傷的で気弱なイメージを思い浮かべるかもしれないが、中国の詩人は時の政に非を唱え積極的に現世にかかわろうとした人が少なくないという意味の話を伺い、国が異なればそういうものかと感心したものだった。改めて人麿や家持に思いを馳せるとき、今はどれ程の違いがあるだろうかと思い始めている。常人にはない鋭い感性の持ち主の詩人であるならば、ひたひたと迫り来る諸々の黒い影に気が付かぬままに、或はそれらをそ知らぬふりで黙してやり過ごすことなど決してできはしない。そこに詩人の心を持ったが故の悲劇がおこるのだろう。

末筆ながら、御縁がありこのブログを見て下さった皆々様に、本年の最後にあたり心より御礼を申し上げたい。
どうぞ良いお年を!



玩辞楼十二曲の内 藤十郎の恋

2014-12-30 | アート・文化


河原町四条、南座の劇場正面にまねきが掲げられると、京都は師走である。吉例顔見世興行、新檜舞台開き、東西合同大歌舞伎を、本年吉日、二階正面の最前列で観劇する機会を得た。昼の演目は、第一「玩辞楼十二曲の内、藤十郎の恋」、第二「恋飛脚大和往来、新口村」、第三「新皿屋舗月雨暈、魚屋宗五郎」、第四「仮名手本忠臣蔵七段目、祇園一力茶屋の場」であった。

「藤十郎の恋」は中村扇雀の坂田藤十郎、片岡孝太郎のお梶で、はんなりと情感豊かな舞台であった。藤十郎が役作りの思案に暮れた挙句、茶屋宗清の女房お梶に道ならぬ恋を仕掛ける。諸々の逡巡の果てに覚悟を決めて行燈の灯りを吹き消したお梶のさまに、演技の手立てを盗み取った藤十郎は、漆黒の暗闇に女をひとり残して立ち去ってゆく。新境地を得た藤十郎の芝居は連日大入りとなる。その都万太夫座を訪れたお梶は、さぐりを入れてくる者達に、もしそうならば三国一の果報者であると返した後に楽屋で最期を迎える。それを知った藤十郎は、芸のためには一人や二人のと舞台に向かって独り言つ。以上が菊池寛原作のこの芝居の筋書である。元禄の名優が密夫の工夫に本当の所は何を加えたのか、はるか後代のど素人が知る由もないが、あらぬ妄想をめぐらせたみたのが以下の私見である。

不義密通の果てには命を差し出さねばならない過酷な運命が待ち受けている時代である。踏み越えてはならない桎梏が厳然とあり、心の欲する所に従って矩を踰えては外道よと誹りを浴びた社会であった。それでも女は、かつて連舞を舞った頃からと積年秘めた思いの丈を打ち明けた男の情けを受け止めて、この世とあの世を隔てる、いまだ渡らぬ朝川を渡ろうとしたのである。ところが振り返ってみれば、そこに居てくれる筈の、共に地獄の業火で焼かれてもかまわぬという心意気の男の姿は消えていた。お梶は逃げた藤十郎に対する絶望で、浮世のその身を捨てたのではない。全てのからくりを知ってしまった後、あの時、無明の闇の中で腹を括ったおのれの実(まこと)の覚悟に殉じてみせた。今度は藤十郎がひとり、明るく煌びやかな虚(つくりごと)の舞台の上に残されたのである。

虚実皮膜の境のところに芸の真実があるのならば、役者にとって、実(まこと)は花鏡で述べられたところの離見の見、見所同心の眼を経て、発酵し熟成されてこそ虚空の大舞台に捧げる美酒となる。その藤十郎とお梶の心持の違いは、他の道行きの男女の思いの相違にも連なる。お梶は周囲が見えぬ様に行燈の灯りを消した。女は自己の世界で完結し、それが女にとっての実(まこと)となる。反して藤十郎は闇から出でて背後の障子を閉めた。ことのはじまりから落魄の果てまで、男は何処までも見所(世間)と同じ心でおのれを見る眼を引きずり、その眼を捨て去ることは金輪際出来ないのではないか。それとの葛藤をその身に滲ませずして、道行きの男の立ち姿は成り立ちはしない気がするのである。

遥か時代は下るが、「貧しさに負けた、いえ世間に負けた」のフレーズで始まるのは、1974年に一世を風靡した歌謡曲『昭和枯れすすき』であった。古典芸能も大衆芸能も、取り出してみせる人の機微に何の違いがあるものか。この昭和の道行に描かれた男と女の心の持ち方もまた、異なるものであったに違いない。

不在証明の街

2014-12-29 | 日記・エッセイ


若い頃、学会発表を控えて京都駅から新幹線に乗り込む時、さあ出陣だという気負いを感じた。その様な感覚はもはや古い人間のものかもしれない。学会出張という数日間の非日常の中に降り立ち、東京の街中に溶け込めたつもりで何ら疎外感を抱くことはなかった。年経て拠ん所ない事情で、山手線沿線からほど近い東京の下町と京都の二重生活をすることになった時、単なる通りすがりではない形でそこで確かに生活していた筈だった。しかし、その土地で生活を営み暮らしを立てる人達に触れるとともに、かえって私の本当の居場所はここではないという思いが募り始めた。何処まで行ってもエトランゼだという思いを抱いたのは周りのせいではない、根無し草で揺れていた私の心のあり様の故であった。下に記した「不在証明の街」はその頃に書き留めた、取るに足らない私の心象風景である。
 あの下町の街角にふたたび佇むことはもうこの先ないだろう。それははひとえに私が背負う事情が変わったからである。今も街路を彩っていた万朶の桜と赤い提灯の光景、街外れの小店で包んでもらった出来立ての豆乳の味を思い出すことができる。相容れぬと袂を分かった訳でもなく、それでもおのが人生を歩んで行く上で別れてゆかねばならない人も街もある。

「故あって今とある下町に滞在している。これが本年最後の東京生活となった。ここには広重の名所江戸百景に描かれた頃の文化の匂いが残っている。年末の商店街に足を運び、滞在日数に合わせた種類や量の食材だけを買う。立ち去る時には何も後に残さない。此処あそこで威勢のよい声が飛び交い、通りは正月準備の買い物客で溢れている。その頃此処には居ない、正月飾りとは無縁の身はただ眺めるだけの存在でしかない。何度か訪れると馴染みの店もできる。双方が忘れた頃に立ち寄るのだが、どうしていたかとか、また何処に帰るのかとか、野暮天の会話はない。別にこちらに聞かれてこまる事情がある訳ではないが、もし尋ねられたら話が長くなる。むこうは数ある中の一人にすぎない客を記憶の中から手繰り寄せて、忘れてないぜという風に笑顔を見せる。今年はお世話になりました、来年も宜しくと、年の瀬の言葉をかわして店を出る。
 あんたは此処には居ねえよ、また京都に帰って元気にやりな。貰った不在証明を懐に大切にしまい、根無し草に水をくれた街を背に、私はふたたび地に帰ってゆく。」

伏見京橋妻敵討

2014-12-28 | アート・文化


行燈の灯り華やかな橋が舞台奥に優しい弧を描く。切り子灯篭が軒先に揺れて、その手前にはこれから来たることの予感をはらんで河原がほの暗く浮かび上がる。鑓の権三重帷子、伏見京橋妻敵討の段で、決して本意ではなく不義密通の果ての道行となったおさゐと権三が、夫の市之進に討たれ最期を迎える場面である。本年の7月27日、華道、大和未生流の教養講座として、文楽の観劇会が大阪日本橋、国立文楽劇場で開催された。
 おさゐと権三の二人は、理不尽な成行きに当初は身悶えしても、「時の座興の戯れごとも過去の悪世の縁」の運命に挑み諍う訳ではなく、敢えて因果を飲み込んで従容と堕ちてゆく。成敗する者も成敗される者もこの上もなく共に暗く煮詰まっていく一方で、鉦や太鼓、三味線の音も賑やかに軽快な足取りの盆踊りの一行が彼等に何度も絡んでくる。盆踊りは元来は供養のための行事であり、後代は男女の出会いの場となった。言うなればエロスとタナトスが交錯する世界である。弦歌さんざめく盆踊りが象徴する儚き一夜の喧騒の光、そして人生で何時誰が落ちるかもしれないぽっかりと開いた陥穽の闇。二つの相反する世界を繰り返し対比させる演出の意味は、この光と闇が何時も背中合わせにこの世に存在すると言わんが為なのだろうか。
 大暑の空の遥か高みを帰り道に見上げた時、知らぬげに他人事の様に観ていたあんた方も例外やないのやでという声が、静かに降り注いでくる様な気がしていた。

自作PC第一号

2014-12-27 | デジタル


ともかく一度は自分の手でやってみないと気が済まない難儀な性格もあり、2005年の某日に思い立って第一号の自作PCに挑戦した。丁度季節は今頃で、週刊アスキーの特集記事「冬休みに一日でPCを自作する!!」にお勧めの最新パーツ構成が紹介されていたのを参考に、ツクモの通販であれこれと買い集めたのである。当初購入したケースがマザーをしっかりと固定してくれずに買い換えたのだが、その際に白もいいけれどやはり黒もいいなと、他のことはあまり深くは考えずにケースのボディーカラーを変更した。その結果、最初の色に合わせて注文したマウス、キーボード、光学ドライブのベゼルの白色と、ケース、ディスプレイの黒色が混在する、白黒パンダのPCセットが出来上がってしまった。史実はそうでもなかったらしいが、忠臣蔵のお約束の討ち入り装束を連想させるので、出来上がった第一号につけた名前が「Kuranosuke」である。

その後、長らく不遇をかこった「Kuranosuke」であったが、人の世と同じで、挫けず潰れず続いておれば、いつかは花が咲くのである。診療所のインターネット接続PCに大抜擢された後は、2009年より5年間、レセプトオンライン請求の重責を担うことになった。作成当時は925XE、DDR2搭載の最新スペックマシンの筈であったが、ついに今年、世代交代の時期を迎えた。8月のオンライン請求を最後に、引き継いだ後輩のPCが9月診療分の送信業務を無事終了したことを見届け現役を去った。その新しいPCの導入時にお手を煩わせたクロスポイントの船山さんに処分しますかと尋ねられたが、残して下さいとお願いした。二度と電源を入れることがなくとも、彼もまた戦友なのである。


捨て果てむと思ふさへこそ

2014-12-26 | 詩歌とともに
大西洋に沈んだタイタニック号が終焉を迎えた時、楽団長は乗客の心を励ますために仲間とともに最後まで演奏を続け、運命を船と共にする道を選んだ。その楽団長のバイオリンが公開されたニュースがかつて新聞に掲載されていた。1997年に公開されたジェームズ・キャメロン監督の映画「タイタニック」にも描かれた最後のこの光景とともに、心に残ったのはヒロイン、ローズが選んだ人生である。最愛の恋人が水底深く消えて行った後も、年月を経て再び万感胸に迫る海上に立つ時まで、ローズはその後の人生を女性として十二分に力強く生き抜いている。平家物語の小宰相との違いは何なのだろうと考えずにはいられなかった。西洋と日本の女性の心情の相違なのだろうかと。小宰相は「あかで別しいもせのなからへ、必ひとつはちすにむかへたまへ」と、平通盛を偲んで千尋の海に身を投じたのである。

捨て果てむと思ふさへこそかなしけれ 君に馴れにし我が身と思へば  (後拾遺集)

和泉式部のこの絶唱を思い浮かべた時、東西の時空を越えて共通な、そのような愛され方をした女性の気持ちが心に沁みてきた。その身を慈しみ真摯にありたけの思いを注いでくれた、そして憂き世にひとり自分を残して旅立っていった男性の、ただ一つの大切な形見がその女性自身だったのである。かけがえのない思い人を失った後に、絶望の淵から明日へと命を繋ぐ孤独な心を支えてくれるものは、紛う方なく、その人が我が身に深く刻んで行った記憶に違いない。

それにしても、紫式部日記で悪しざまにけなされた人ほど、清少納言もまたしかり、私にはより一層、有神で魅力的に映る。陰刻のくぼみが深くなればなるほど、反ってその人となりが鮮やかに浮き上がって見える。これはどうも一筋縄ではゆかぬ性格らしい紫式部の、練りに練り上げた逆説的なエールであったのか。


薩摩切子猪口

2014-12-25 | 日記・エッセイ


『鹿児島国際シンポジウム 医学と複合糖質』が1987年に霧島で開催された。私にとっては初めての国際学会デビューであり、そのBanquetの席での事である。大きな会場の隅のテーブルには下っ端の医師ばかりが集まって「鬼の居ぬ間の洗濯」の宴となり、いわゆる「じゃこ祭り」が大いに盛り上がっていた。その席で鹿児島大学の若い教室員のお一人が謙遜して、「鹿児島の男は西南戦争で逝き、そして先の大戦で逝き、後に残ったのは僕らのようなものばかりです。」としみじみ申された。紛れもなく、歴史ある風土に育まれた新進気鋭の薩摩隼人達であった。
 昨年の日本東洋医学会学術総会は、西南戦争最後の激戦地である城山に建つ城山観光ホテルで開催され、26年ぶりに再び鹿児島の地を踏んだ。写真はその時、磯工芸館で板坂さんにアドバイスを頂いて買い求めた、尚古集成館監修の薩摩切子猪口である。手取りはやや重く、チェストの気概を静かに内に沈めて、穏やかな微笑を浮かべ泰然と佇む感がある。

壇上の御挨拶

2014-12-24 | 日記・エッセイ
何年も前の近畿日本鉄道の株主総会に出た時のことである。会場に所狭しと多くの株主が待つ中で、取締役連や監査人の方々が壇上に上がり次々と着席してゆかれた。そして着席の直前にはお一人の例外もなく、皆、会場に向かって深々と一礼をなさった。その佇まいが殊更に新鮮で清々しく感じられた。そういえば医学関係の学会において、シンポジストやパネリストは自分の発表の番が回って来た時は一応挨拶をするが、この様に壇上で着席する直前に会場に向かってという光景をこれまでついぞみたことがない。一般社会と医療界において、それぞれ常識あるいは非常識とされている線引きが微妙に違うことは決して少なくない。この業界で何時の間にか四分の一世紀以上過ごしてきたが、気が付かぬうちに業界臭が身に染みついているのだろうなと、己を振り返り反省した一日であった。



その業界watchingであるが、開業医になってから発見した事実がある。耳鼻咽喉科関連以外の研修会や講習会にもつとめて参加するように心がけて周囲を秘かに観察していると、老若男女、所属する科も関係なく、昼食に配られた弁当を15分過ぎてもまだ食べているという医師はごく少数派であるのだ。改めて日本耳鼻咽喉科学会と日本東洋医学会の参加者を比べると、前者の方が食事の早い方が多い様に感じる。これは後者に所属する漢方医は、ゆっくり食べるということを食養生として捉えているからであろうか。今はやりのエビデンスはなく、あくまで私の印象だけの話であることをお断りしておく。ところではるか昔の研修医時代に習得した、これだけは人に負けるかと秘かに誇っていた「早食い」なのであるが、年のせいなのか、学会のランチョンセミナーで気がつけば既に回りはもう食べ終わっているという状況がこの頃多くなってきた。なお私の両親はさらに古い時代に修練を受けた人間なので、配られた弁当をぱくつきながら講演を拝聴するランチョンセミナーの話をかつて初めて伝えた時、昨今は口を動かしながらお人の御講演を伺うのか、まこと情けない時代になったものだ、と大いに憤慨していた。

本日は午前診療から午後診療まで昼食抜きの切れ目なしの診療になった。A型インフルエンザ発症もますます増加してきた。時節柄、皆様くれぐれも御身お大切に。

詠菊

2014-12-23 | アート・文化
高教授が御夫君の陶教授、御子弟とともに秋の京都にお越し下さった時の事である。菊の花が美しい時節で、花吉兆で歓待の宴をしつらえ御一緒させて頂いた。御酒のお好きな陶先生は貞翁をおすごしになり、その席でさらさらと李白の「客中行」をしたためて下さった。但だ主人をして能く客を酔わしめば、知らず何れの處か是れ他郷なるをの詩句を伺って、御家族の皆様とともに日本でのこの一夜の宴をとてもお楽しみ下さり喜んで戴けたのだと、私は心底有難く嬉しく思った。

「詠菊」はその席で陶教授より賜った漢詩で、霜に負けることのない菊の心意気を心のままにお詠みになったものである。後日、旅先なので落款はないがというお言葉とともに、改めて揮毫までして下さった。頂戴した御筆は専門家に額装をお願いして、今も大切にしている。訓み下し文と井伏鱒二風は、私が書いた至らない訳文であり御容赦頂きたい。詩句中の引喩について、貧弱な私の頭が思いを巡らせた範囲で記すと、『聊斎志異』の葛巾は、曹州の名高い牡丹、葛巾紫と玉版白が化けた牡丹の精にまつわるお話である。酒と申せば李白に陶淵明であり、李白は腰に固い骨があり身を屈することができないと世の人が評した、傲骨の主である。菊を愛し、飲酒其七で秋菊佳色有りと詠んだのは、彭澤県の県令でもあった陶淵明である。有神は生気がみなぎり生き生きしている様を示し、無神はその反対である。中医学の神は外に表れる生命活動の総称であり、狭義には精神や意識を意味している。

高教授、陶教授にお逢いする機会を得て、他の多くの中医がどうであるか迄は知らないが、老成円熟した中医が其の内に蓄えておられる自国の文化に関する素養には、端倪すべからざるものがあると知った。華岡青洲先生、吉益東洞先生、和田東郭先生しかり、かつての医師は幼き頃より培われた、誰と比べても遜色がない一流の教養をお持ちであった。それに比べて受験勉強と偏差値だけでハードルを越えたつもりの現代の医師はどうなのか。他人事ではない、振り返れば内心、忸怩たるものがある。

「詠菊」
佳色絶知勝葛巾   佳色絶えて知る葛巾に勝れるを
彭澤戴酒費沈吟   彭澤は載酒し沈吟に費やしたり
孤高不与群芳伍   孤高にして群芳と伍をなさず
傲骨凌霜倍有神   傲骨は霜を凌ぎいやましに有神たり

                      菊ノ色香ハ牡丹ニ勝ル
                      酒ヲ愛セシ彭澤ノ様ニ
                      群レズ咲カセヨ不屈ノ花ヲ
                      霜ガ降レドモ意気高ク



カラースライド

2014-12-22 | デジタル
Apple社、Macintosh IIvxは、1992年に世に出た初のCD-ROM内蔵デスクトップPCである。その値段たるや、現在の最先端のウルトラブックですら何台も買えるという、大学生協で割引購入しても大層御立派なものであった。それまでの暗い画面にMS-DOSのコマンドを打ち込むのとは違って、カラーの画像が動くということに天地がひっくり返るくらいの驚嘆を覚えたものだ。しかしながら、機嫌よく入力していた時に晴天の霹靂、予告なしに爆弾の画面が出現して、否応もなく再起動と相成るなどは日常茶飯事であった。自動保存機能などある訳がなく、またそういう時に限って長々操作を続けていて保存をさぼっていたりする。当然のことながら、それまでのデータは何処へか雲霧散消となって何度茫然としたことか。その後使用したPower Mac8100、PowerBookやiMacの方がはるかに私に快適なPC環境を与えてくれたのにもかかわらず、手がかかる子は可愛いということもあるのか、申し訳ないことにIIvxに比べて殆ど思い出が残っていない。

その頃に学会発表のスライド作成のために使っていたのが、栄枯盛衰で歴史の彼方に消えた名ソフト、Aldus Persuasionである。ブルースライドしかなかった時代に彗星の如く颯爽と出現したカラースライドは実に画期的で、その頃の学会では、御丁寧に赤やら紫、緑、黄色と一行づつ文字の色を全て変えてある、思わず眼がチカチカする様なプレゼンテーションもあったのが今や懐かしい。その後しばらく学会発表から遠ざかっていた時期があり、程経て再び戻ってきたら、スライド作成に関して全く浦島太郎状態で、乗った亀の如く手も足もでない有様であった。今は多少は時流に追いついたつもりであるが、アニメーションは何時までも苦手である。粋で洗練されたあちこちのプレゼンテーションを拝見するたびにため息が出る。