花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

六中観│忙と閑・其二

2021-05-28 | アート・文化


陽明学者、哲学者、安岡正篤先生御提唱の《六中観》の第一は「忙中閑」である。以下は随筆集『新憂楽志』からの抜粋で(p199-202)、一文は「まずこの六中観をそれこそ腹にいれておけば、何事につけても余裕綽々たるを得る。今年もまたこれを活用してゆく。」で結ばれる。
 「忙中閑」に始まる《六中観》の中で特に感銘を受けたのが「腹中書」である。最後にお挙げになった第六こそが《六中観》の総綱ではないか。“腹”とは「「人」の中心とする所は卽ち腹で、腹を精神的に云へば肚である。」(布袋とヴィーナス│「東洋の道と美」、p17-64)の“肚”である。

第一「忙中閑」
 ただ閑は退屈でしかない。真の閑は忙中である。ただの忙は価値がない。文字通り心を亡うばかりである。忙中閑あって始めて生きる。
第二「苦中楽」
 苦をただ苦しむのは動物的である。いかなる苦にも楽がある。
第三「死中活」
 窮すれば通ずということがある。死地に入って以外に活路が開けるものである。
第四「壺中天」
 われわれはどんなうるさい現実生活の中にあっても、心がけ一つで随分と別の世界に遊べるものだ。碁でも将棋でも、信仰でも学門でも、何でも壺中天はある。神仙はこの現実にあるのである。
第五「意中人」
 (病む、事業を興す、内閣を作る等々、さてどうすべきかという場合)それがちゃんと平生意中になければならない。しかるに人は多いようであるが、さてとなると、なかなか人というものはないものなのである。
第六「腹中書」
 腹の中に書がある。頭の中に書があるのではだめ、それは単なる知識にすぎない。往々にしてディレッタントたるにすぎず、時には人間を薄っぺらにし、不具にする。知は腹に納まり、血となり、肉となり、生きた人格を造り、賢明なる行動となる。

参考資料:
安岡正篤著:「新憂楽志」, 明徳出版社, 1997
長與善郎著:「東洋の道と美」,聖紀書房, 1943

瓢箪│忙と閑・其一

2021-05-27 | アート・文化

うかうか瓢箪

《うかうか瓢箪》(金工作家・小原ゆかり先生作)は、夏の風趣溢れる瀟洒な銀製菓子切である。京都・大徳寺四百三十五世、大綱宗彦和尚御歌にある言葉 “うかうか”を瓢箪の蔓に見立て、うかに「有閑」の意をも含む意匠とのことである。「忙中閑」、「忙裡偸閑」、「忙応不及閑」、「忙総不及閑」等々、様々に言い回された語句中“閑”の言意は深い。以下は大綱和尚「瓢図」の自画讃である。

瓢、瓢、汝真瓜の位もなく、西瓜の暑をはらう徳もなし。しかれど気は軽く、中むなしくて無欲なれば、仙人も汝を友として、酒を入れて腰に携え、あるいは駒を出して楽しめり。汝瓜の類にして、包丁の難にあはざるは智也。鯰を押えてのがさしむるは仁也。羽柴公の馬印となりて強敵をくだくは勇也。汝、性は善なりというべし。
 うかうかとくらす様でも瓢たんの胸のあたりにしめくゝりあり
(「大徳寺墨蹟全集 第三巻」,p178-180 )
(「茶人のことば」, p209-210)

参考資料:
井口海仙著:「新版 茶人のことば」, 淡交社, 1998
築達榮八編:「大徳寺墨蹟全集 第三巻」, 毎日新聞社, 1986
芳澤勝弘著:「瓢鯰図の謎」, ウェッジ, 2012




花一輪

2021-05-18 | 日記・エッセイ


冒頭写真は、中央卸売市場入荷翌日の拙宅到着から九日を経た花菖蒲である。すでに一番花が終わり二番花の蕾が膨らみ始めている。自宅での生け花はその都度、入手した一枝一花一蕾全てを無駄にせず、差し替え挿し直し最後の一杯まで生け納めるのが習いである。

杜若、花菖蒲ともに花茎先端の肉厚の肉穂花序(にくすいかじょ)が次々と花をつける。しかし切花延命剤を用いても、花器の中で二番花を拝むことは必ずしも容易ではない。日数を経れば経るほど、花序から顔を覗かせ色付いてきた蕾が、明日には花開くと思う日になり急に頽れ萎む機会が増える。地を離れ陽の恩なく人為的な環境下、花一輪が咲くという営みはさほどまで過酷である。もちろん野に在るとも生命を繋ぐ峻厳さは同等であろう。この花を咲かせんと最期、力尽きるまで粛々と其処で努める。果たして私はその様な生き方が出来るだろうか。


お疲れ気味の御方へ・第二弾│諸縁放下

2021-05-04 | アート・文化


人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙し難きに随ひ、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、塗遠し。吾が生既に蹉蛇たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。毀るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ。
(第百十二段│西尾実, 安良岡康校注:岩波文庫「徒然草」, p190-192, 岩波書店, 2012)

浮世のしきたりはやめるにやめられず。これは絶対に外せんと考えたら最後はドツボ。せないかんことは増えるばかり、身も心もぼろぼろ、もろもろの雑事に追われてジ・エンド。日暮れて道は遠く、人生双六は進退窮まる。そういや今日はしがらみの取集日。信義は先週処分した。礼儀も来週始末する。この気持ちわからん人から、あんたまともやないで、気は確かかと言われようが知るか。人の心がないと思うなら勝手に思え。謗られようが、奇特にも褒められようが馬耳東風。(拙訳)



塵中

2021-05-02 | アート・文化

徒然草 第五十三段│尾形月耕画作:「以呂波引 月耕漫画」二編巻三, 芸艸堂, 1954

くすむ人は見られぬ、ゆめの/\/\世を、うつゝがほして   閑吟集
なにせうぞ、くすんで、一期は夢よ、たゞ狂へ 

悠悠塵中人  悠悠たる塵中の人
常樂塵中趣  常に塵中の趣を樂む
我見塵中人  我塵中の人を見れば
心多生愍顧  心に多く愍顧(びんこ)を生ず
何哉愍此流  何ぞや此の流(たぐひ)を愍れむ
念彼塵中苦  かの塵中の苦を念へばなり
(拾得詩│太田悌蔵著:岩波文庫「寒山詩」, p258-259, 岩波書店, 1996)








水聲山色│花便り

2021-05-01 | アート・文化


満眼新林暗水郷  満眼の新林 水郷暗し
鏡山雲掩雨茫茫  鏡山 雲掩ひて雨茫茫
落花飛絮春帰去  落花 飛絮 春は帰り去る
湖面今朝学淡粧  湖面 今朝 淡粧を学ぶ

(如亭山人遺稿│揖斐高訳注:東洋文庫「柏木如亭詩集2」, p128-129, 平凡社, 2017)