花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

鼬(イタチ)

2018-11-17 | 日記・エッセイ


駅前再開発に伴って現在の場所に移転する以前の話である。二階の自室でNEC9801に繋いだNANAOのどでかいモニターに向かい作業を行っていた。不意に言葉にはならない気配に襲われ振り返った時、一匹のイタチが背後の床から静かにこちらを見上げていた。私は椅子に座ったままフリーズし、対するイタチは3メートル程離れた一点で同じく不動である。しばし射竦め合う時間が流れた後に、イタチは音もなく身を翻して部屋から走り去った。
 有り得ない場所で有り得ないものを見て暫し茫然としていたが、気を取り直して階下に降りた時にはもはや何処にもイタチの姿はなかった。後で判明したが、一階の土間に置いていた洗濯機の排水を屋外に導く排水孔の蓋が外れていて、その外部に通じた排水管から逆走して家の内に侵入したらしい。
 それから十数年経った現在もイタチは近隣に生息している。飼犬の散歩途中、犬が立止り畦道を眺めたまま頑として動かない時がある。見守っている内に叢から茶色く細長い風体の動物が出てきたと思いきや、ちらと此方に一瞥をくれる。その後は何事も無かったかの様に反対の方向へと消えて行く。

最近になり、あの時のイタチはどのような眼で私の背を見ていたのだろうと思う時がある。その時間が短かったのか長かったのかもわからない。何時しかイタチに成り変わり、見られているとは露程も感じていなかった己自身を眺めている自分がいる。視線の先には、既にイタチが飲み込んだ人間が背を向けて座っている。
 生き物が新たな別の生き物に遭遇する刹那、医学的な表現で申せば、あたかも全身の感覚受容体における感覚毛が、その後の怒涛のような神経伝達機構における情報伝達に繋がりゆく、最初の僅かな偏位を起こす一瞬である。火蓋が切られる瞬刻の様相は、野性におさらばした筈の人間同士の出会いにおいても何ら変わりはない。地位、学歴、あるいは教養等々、その他諸々の付加価値は所詮、後から張り付けたものである。その時に量られ試されるのは、偽れない裸形の本領である。


紅葉と楓をたずねて│其の十・紅葉の下葉に異ならず

2018-11-08 | アート・文化


庭の楓がようやく色付いてきた。酷暑の期間の水やりが不足したのか、あるいは樹勢の盛りが過ぎつつあるのか、少なからず葉の辺縁が窶れている木が混じっている。紅葉の下葉と申せば、「女の盛りなるは、十四五六歳廿三四とか、三十四五にし成りぬれば、紅葉の下葉(したば)に異ならず 」(梁塵秘抄 巻第二・394)である。私などはさしずめ、地面に落ちて踏まれてもはや葉の原形を留めない朽葉に他ならずと言うべきか。もとより「女人五つの障りあり、無垢の浄土は疎けれど、蓮花し濁りに開くれば、龍女も佛に成りにけり」(梁塵秘抄 巻第二・116)の世界である。

ところで「むかし、世心つける女」で始まる『伊勢物語』第六十三段は、「百年(ももとせ)に一年たらぬつくも髪」と評される、百歳に一年足らない九十九歳、あるいは「百」の字に一画少ない「白」髪の、人生経験豊富な九十九髪(つくもかみ)の御婦人のお話である。対する「をとこ」について述べた最後の件がよい。
「世の中の例として、思ふをば思ひ、思はぬをば思はぬものを、この人は、思ふをも、思はぬをも、けぢめ見せぬ心なむありける。」(伊勢物語 第六十三段)
まさに「まめ男」の面目躍如で唸らせる。狭量な好悪や、損得がからむ費用対効果にておのれを出し惜しみしない、限りなく廣き心の持ち主である。描かれているのは世俗の色恋を超えた、まことの風雅である。

参考資料:
川口久雄, 志田延義校注:日本古典文学大系73「和漢朗詠集 梁塵秘抄」, 岩波書店, 1965
大津有一校注:岩波文庫「伊勢物語」, 岩波書店, 1994


名はしらぬ花

2018-11-03 | 詩歌とともに
  種田山頭火

どこまでも咲いてゐる花の名は知らない  (昭和七年 日記6・4)

たゞ一本の寒菊はみほとけに       (昭和七年 日記11・25)

摘んできて名は知らぬ花をみほとけに   (昭和八年 日記4・6)

咲くより剪られて香のたかい花      (昭和八年 日記4・7)

身のまはりは草だらけみんな咲いている  (昭和十年 日記4・18)

(種田山頭火著:「山頭火全句集」, 春陽堂, 2002)