花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

蝉退(せんたい)

2017-07-23 | 漢方の世界


「蝉退(せんたい)」は蝉の抜け殻から得られる生薬である。辛涼解表薬に分類され、性は甘、寒、帰経は肺経、肝経、効能は疎散風熱、利咽開音、透疹、明目退翳、熄風止痙(風熱を散じる、但し発汗、清熱の作用は強力ではない。咽頭の熱を取り嗄声、咽頭腫脹、咳嗽を改善する。疹毒を外表に透過排泄させる。肝経の熱を冷まして目を明瞭にする、風を鎮めて痙攣を緩和する。)である。蝉退を含む方剤、消風散は疏風養血、清熱除湿の四方向の働きを有し、湿疹、蕁麻疹に対する常用方である。



頓(やが)てしぬけしきも見へず蝉の声  松尾芭蕉
(中村俊定校注: 岩波文庫『芭蕉俳句集』, p219, 岩波書店, 1946)

Of an early death,
Showing no signs,
The cicada’s voice.
(Daisetz T. Suzuki: Zen and Japanese Culture, p252, Tuttle Publishing, 1988)

「かくある間は、ここに完全にして己に足り世に足りる蝉がいるのだ。誰もこの事実に背くことはできぬ。ここに無常の観念を導き入れて、蝉をもってその宿命に近よりつつあるのを知らぬものとけなすのは、人間の意識であり反省である。蝉だけについていえば、蝉は人間などの悩みは知らぬ。寒くなれなればいつでも終わるべき自分の生命に対して焦らぬ。啼ける間は生きていて、生きている間は永久の命だ。無常を思い煩ってなんの益があろう。」
(鈴木大拙著, 北川桃雄訳: 岩波新書『禅と日本文化』第七章 禅と俳句, 182-183, 岩波書店, 1940)

射干(やかん)

2017-07-18 | 漢方の世界


檜扇(ひおうぎ)は京都、祇園祭と縁の深い花である。アヤメ科ヒオウギ属の多年草で、互生する葉の形が檜扇に似ているために名付けられた。花後に袋状の鞘に包まれた光沢ある黒色の種子を実らせる。別名が烏扇(からすおうぎ)である所以である。この黒い種子、射干玉(ぬばたま)の様に黒いという意味を踏まえ、「ぬばたまの」は黒、夜、髪などに掛かる枕詞として用いられてきた。
 檜扇の根茎から得られる生薬が、清熱解毒薬に分類される「射干(やかん)」で、薬性は苦、寒、帰経は肺経に属し、効能は清熱解毒、消痰利咽(肺熱を冷まして痰を取り、咽頭の熱毒を緩和する。咽喉頭炎の常用薬。)である。射干を含む「射干麻黄湯(やかんまおうとう)」は医療用漢方エキス製剤に収載されていない方剤で、寒飲が上逆して喘咳発作を来す病態に用いられる。咳嗽、呼吸困難があり喘鳴(呼吸する空気が狭くなった気道を通る時にぜーぜー、ひゅーひゅーなどの雑音を発すること)を来す呼吸器疾患が対象となる。出典の『金匱要略』では「水鶏(すいけい)の声」、蝦蟇に似た青蛙の声と記載されている。

末尾は山部宿禰赤人の作る歌、長歌に続く反歌二首の内の一首である。静謐な叙景歌、抒情歌と解するか、あるいは梅原猛著『さまよえる歌集』(集英社、1982)において精力的に論述されたように夜の鎮魂の歌と見るか。奇しくも祇園祭はかつて祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と称された。御霊会は疫病や天変地異をもたらすとされた御霊を鎮魂するために行なう儀礼である。

ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く  万葉集 巻第六 山部宿禰赤人



夏に百合を生ける│大和未生流の稽古

2017-07-17 | アート・文化
大和未生流本部の夏期特別講習会が毎年、奈良春日野国際フォーラムで開催される。本年は7月9日、御家元の御講義が午前に、副御家元の実技御指導が午後に行われた。練習花材の木賊と百合を家に持ち帰り、頂戴した御言葉を反芻しながら玄関に生け直した。用いた花器は本講習会で下された信楽焼の黒水盤である。緑を帯びた硬い蕾が時間ととともに少しずつ開いて、百合の花が占める位置のmassを増大させてゆく。総括で取合せ候補として推奨なさった芒を用いて木賊に替えるべく、翌日、庭の一画に生い茂った矢筈芒を取り合わせてみた。





京都寺町で求めた大正13年の木版画である。所属する流派とは何ら関係ない生け花の画であるが、後学の為に折に触れて収集してきたコレクションの一枚である。





京都に夏が来た

2017-07-16 | 日記・エッセイ


祇園祭、宵々山にあたる土曜の週末に、京都市内で週末に開催された「補聴器相談医資格更新のための講習会」に参加した。会場は京都府立医科大学付属図書館で、講習会開始までの時間を生かして近隣の蘆山寺、梨木神社に参拝した。廬山天台講寺は天台宗圓浄寺系の本山で、御本尊は阿弥陀如来である。紫式部の邸宅跡としても知られ、源氏庭と名付けられた庭には苔地州浜に植栽された紫の桔梗が今や真っ盛りである。濡れ縁に腰掛けて桔梗を眺めていると爽やかな風が吹き抜けてゆく。大暑を控えた酷暑の季節であるから余計に涼しさが感じられるのだろう。夏は夏らしく、夏に涼風ありである。



桔梗は根が化痰止咳平喘剤に分類される生薬となる。効能は宣肺祛痰、利咽、開宣肺気、排膿消腫である。



蘆山寺に程近い梨木神社は、三条実萬公、実美公が御祭神である。いまだ花開いてはいないが、萩の宮と称される萩の名所である。境内の一隅、染井の井戸の傍らには、当院エントランスの桂の木よりもはるかに豪壮な桂の大木が生い茂っている。幅の広い卵円形の葉は秋に黄葉となり、乾燥すると特有の香を漂わせる。


写真詩集『ぼくらは簡単なことばで出来ている』

2017-07-08 | アート・文化


『ぼくらは簡単なことばで出来ている~旅する柴犬まめのポラロイド写真詩集~』(写真・西真知子, ことば・村上美香, パルコ, 2008)は小さな写真詩集である。「ぼくにはなにもない。」の独白から始まり、四丁目から石畳、街角、草原、海、花園や雪原と移りゆく、様々な風景の中を<柴犬まめ>の逍遥が続く。最後の頁をめくった後に、いまも終わりのない旅路の何処かに佇んでいるのだと思わせる余韻がある。

世の趨勢は、超高精細の解像度、広色域化の色再現や西洋医学領域における拡大内視鏡しかり、あくなきデジタル映像や画像の追求である。だがこのポラロイド写真詩集にはフォーカスを合わせない写真やセピア色の写真が溢れている。そして一枚一枚の写真に添えられた短詞は、登場人物ならぬ登場犬<柴犬まめ>の心中の言葉と見ても、またそうでなくても良いのだろう。むしろその風景自体がはからずも漏らした吐息の様な言葉が紡がれている。確かに詩集なのだが、あなたも当然そう感じるはずとにじり寄って来るポエムのようなぬめりはない。明日からの心の糧となる、御尤と申し上げるしかない熱い箴言を畳みかけるのでもない。言うならば、固まる手前で敢えて硬化剤を減らし、その後の化成を受取り手に託した慎ましい写真詩集である。