花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

猿猴捉月(えんこうそくげつ)

2019-02-23 | 日記・エッセイ

猿猴捉月│高橋松山, 大津絵の店

「猿猴捉月」(えんこうそくげつ)は、猿猴が月を捉えるという意で、「猿猴取月」、「猿猴捕月」、「猿猴探月」、「井中撈月」とも称する。『摩訶僧祇律』にある故事で、身の程知らずに妄りに大望を抱いて無謀な行動で身を滅ぼすことを戒める寓話である。冒頭の大津絵に描かれた猿は一匹であるが、故事では大集団の猿猴達が主人公である。単独あるいは集団であろうが、彼等の挑戦はいずれも「ありと見て無きは常なり水の月」と水泡に帰する。月出皎兮と頭上高く輝く万古不変の月を仰ぎ見ず、ひたすら井中の月影に心を奪われる猿猴の営為は、おのれを棚に上げて他人事ならぬ他猿事と傍見すれば、暗愚なかしらとこれに続く衆愚の猿猴達の徒労に過ぎない。しかしながら猿猴には、月をおのれの物とせんとした私意はなく、落ちた月を救わんと微力を結集した挙句の顛末である。申年生まれの身びいきと笑われようが、甲斐なく井中に消えて行った猿猴が健気で哀れである。
 蘇東坡が著した『禅喜集』、《応夢観音賛》における「水在盤中、月在天上」(水は盤中にあり、月は天上にあり)では、盤中の水に宿る月影もまた法身の露現である。水面に映る月を真(まこと)の月と最期まで信じて疑わなかった猿猴の愚直な一途は、影に過ぎぬものをと高みから賢しらに嗤う心根に比べたならば遥かに清しいと私は思う。

「過去世時、有城名波羅奈、國名伽尸。於空閑處、有五百獼猴、遊於林中、到一尼倶律樹下、樹下有井、井中有月影現。時獼猴主見是月影、語諸伴言:「月今日死、落在井中、當共出之、莫令世間長夜闇冥。」共作議言:「何能出之?」時獼猴主言:「我知出法、我捉樹枝、汝捉我尾、展轉相連、乃可出之。」時諸獼猴、即如主語、展轉相捉、小未至水、連獼猴重、樹弱枝折、一切獼猴墮井水中。」

井戸の底に映る月影。さあ大変だ。お月様が亡くなり井戸の中に落ちておられる。お助けせねばこの世は真っ暗闇だ。そうだ、いい案があるぜ。俺が木の枝につかまり、おまえは俺の尻尾につかまれ。そうやって連なってゆけば、落っこちたお月様に手が届くじゃないか。猿のかしらの提唱に、皆が順々にぶら下がるうちに、耐えきれぬ枝がぽきん折れた。哀れなるかな、一同はずぼんと井戸の水中に。

桃紅李白薔薇紫│其の二「偈」

2019-02-22 | アート・文化

桃紅李白薔薇紫、問起春風總不知│「句双紙假名抄」, 雄松堂

  偈三十五首 其十五 宋・釋祖珍
向上一路、千聖不傳。恁麽會得、十萬八千。桃紅李白薔薇紫、問著春風總不知。
向上の一路は千聖も傳へず。恁麽に會得すれば十萬八千。桃紅李白薔薇紫、春風に問著すれども總に知らず。
本詩は『全宋詩』、『五灯会元』等に収載。偈(げ)、偈頌(げじゅ)は、経典の中で韻文の形式で仏徳を讃え教理を説いた詩句であり、または大悟の心境を表現する禅詩の総称である。

鼓山祖珍禅師(南岳下十五世/臨済宗黄龍派/上封才法嗣)
「上堂、尋牛須訪跡、學道貴無心。跡在牛還在、無心道易尋。竪起拂子曰、這箇是跡。牛在甚麽處。直饒見得頭角分明、鼻孔也在法石手裏。上堂、向上一路、千聖不傳。卓拄杖曰、恁麽會得、十萬八千、畢竟如何。桃紅李白薔薇紫、問著春風總不知。」
(五灯会元巻十六│「訓読 五灯会元」下巻, p148-149)

慧林懐深禅師(青原下十三世/雲門宗/長蘆崇信法嗣)
「上堂云、紅杏枝頭小雨乾、東風特地作春寒。祖師門戸無遮障、祇要時人著眼看。遂竪起拂子云、還會麼、桃紅李白薔薇紫、問著春風總不知。」
(慈受深和尚焦山語録│「慈受懐深禅師廣録」, p44)


第九 返本還源│徳力富吉郎・販刻「十牛図」, 竹僊堂

参考文献:
柴山全慶編:「禅林句集」, 其中堂, 1972
村口四郎所蔵 室町末期寫「古典籍覆製叢刊 句双紙假名抄」(川瀬一馬解説), 雄松堂, 1974
山田俊雄, 入矢義高, 早苗憲生校注:新日本古典文学大系「庭訓往来 句双紙」、岩波書店, 1996
能仁晃道著:「訓読五灯会元」全三冊, 禅文化研究所, 2006
上田閑照, 柳田聖山著:「十牛図 自己の現象学」, 筑摩書房, 1982
懐深撰, 陳曦點校:雲門宗叢書「慈受懐深禅師広録」, 上海古籍出版, 2015