花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

閑中我看山│忙と閑・其五

2021-06-06 | アート・文化


「沢庵坊、太夫がせっかくの求めじゃ。なんぞ書いてつかわされい」
 光広が、吉野に代って促と沢庵はうなずきながら、
「まず、光悦どのから」
 といった。
 光悦は、黙って、紙の前へ膝をすすめ、牡丹の花を一輪描いた。
 沢庵はその上に、
  色香なき身をば
  なにかは惜ままし
  をしむ花さへ
  ちりてゆくよに
 彼が歌を書いたので、光広はわざと詩を書いた。その詩は、
  忙裏 山我ヲ看ル
  閑中 我山ヲ看ル
  相看レド相似ルニアラズ
  忙ハ総テ閑ニ及バズ

 という戴文公の詩であった。
 吉野もすすめられて、沢庵の歌のすこし下へ、
  咲きつつも
  何やら花のさびしきは
  散りなん後を
  おもふ心か
 と、素直に書いて筆を擱いた。
(風の巻 牡丹を焚く三│「宮本武蔵(四)」, p161-162)

見山是山 見山不是山 見山祇是山
【1662】青原惟信禅師(南岳下十三世/臨済宗黄龍派/黄龍祖心法嗣)
「老僧、三十年前、未だ参禅せざる時、山を見るに是れ山、水を見るに是れ水。後来、親しく知識に見え、箇の入処有るに至るに及んで、山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず。而今、箇の休歇の処を得て、依然として山を見るに祇だ是れ山、水を見るに祇だ是れ水。大衆、這の三般の見解、是れ同じか、是れ別か。人有って緇素し得出せば、汝に許さん、親しく老僧に見ゆることを。」
(五灯会元巻十六│「訓読 五灯会元」下巻, p46)

参考資料:
吉川英治著:吉川英治歴史文庫17「宮本武蔵(四)」, 講談社, 2000
能仁晃道著:「訓読五灯会元」下巻, 禅文化研究所, 2006


忙裏山看我│忙と閑・其四

2021-06-05 | アート・文化


「宋の人、文天祥の詩とやら聞いた。ちょっと、おもしろい詩ではある」
「どうせ、すぐ忘れましょうが、舟の徒然つれづれにひとつお聞かせを」
「こういうのだ」
又太郎は低い声で詩を誦した。
 忙裏、山、我ヲ看ル
 閑中、我、山ヲ看ル
 相似テ、不相似
 忙ハ総テ、閑ニ不及
「ははあ。------なるほど」
「わかる」
「わかりませんな」
「では、山を見るがいい」
「されば、左には摂津の六甲、龍王岳。右には、生駒、金剛山のはるかまでが霞の中に」
「右馬介は、今、山を見ている」
「確かに」
「だが、あたふたと、忙裏に暮れている日には、山と人間の位置は逆になる」
「すると、どうなります」
「山が人間を眺めていよう」
「つまり、閑(しずか)であれば、人が山を見。忙しければ、人は山に見られているということなので」
「ま、そうだな。すべての忙は、閑には敵わぬとでもいっておこうか」
(あしかが帖 時ときの若鷹│「私本太平記(一)」, p46-47)

 忙裏山看我  忙裏、山、我を看る
 閑中我看山  閑中、我、山を看る
 相似不相似  相似て、相似ず
 忙総不及閑  忙は総(すべ)て、閑に及ばず


先の白居易<宿竹閣>の「忙應(応)不及閑」(忙は応(まさ)に閑に及ばざるべし。)と類似する句が「忙総不及閑」である。面妖なことに『私本太平記』と『宮本武蔵』の両書に挙げられた本詩の作者名が異なる。最期まで南宋に忠節を貫いた硬骨の英傑、文天祥作という『私本太平記』の一文を踏まえ、『全宋詩』、『文山先生全集』加えて『文天祥詩集校箋』を検索するも本詩やその詩句を見出せなかった。もしや大家、吉川英治御作なのか。

参考資料:
吉川英治著:吉川英治歴史文庫63「私本太平記(一)」, 講談社, 1990
吉川英治著:吉川英治歴史文庫17「宮本武蔵(四)」, 講談社, 2000
文天祥撰, 劉文源校箋:中国古典文学基本叢書「文天祥詩集校箋」、中華書局, 2017

巧未能勝拙、忙應不及閑│忙と閑・其三

2021-06-04 | アート・文化


  宿竹閣   白居易
晚坐松簷下 宵眠竹閣閒
清虚當服藥 幽獨抵帰山
巧未能勝拙 忙應不及閑
無勞別修道 卽此是玄關


  竹閣に宿す
晩に松簷(しょうえん)の下に坐し、宵に竹閣の閒(あひだ)に眠る。
清虚にして 藥を服するに當(あた)り、幽獨にして 山に歸るに抵(あた)る。
巧は未だ拙に勝ること能はず、忙は應(まさ)に閑に及ばざるべし。
別に道を修むるを勞する無く、卽ち此(ここ)ぞ是れ玄關(げんくわん)
(白氏文集巻二十 律詩│「白氏文集 四」, p377-378)
(全唐詩 巻四百四十三)

*玄關:玄妙の道に入る関門。
*玄:象形は糸たばを拗(ね)じた形、黒く染めた糸。緇(し、黒色、黒衣)に近く、その色相は幽遠であるので幽玄といい、幽遠の意に用いる。(「字通」,p455-456)
*此两者同出而異名、同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門(此の两者同じきより出でて名を異にす。同じきもの之を玄と謂ふ。玄の又玄、衆妙の門):天地と万物は同じ一つの道から出ながら、天と地というように名を異にしているし、また天地という同じ親から出ながら万物はそれぞれ名を異にしている。このように同じ所から異なったものを産み出している不思議な働きをしているもの、これを玄という。この奥深いかすかな所、これがさまざまな微妙な現象を産み出す門なのである。(老子道經・禮道第一│「老子 荘子上」, p11-13)
*巧未能勝拙:大直若屈、大巧若拙、大辨若訥(大直は屈するが若く、大巧は拙なるが若く、大弁は訥なるが若し):真にまっすぐな者はかえって一見曲がっているように見え、真に巧みな者はかえって一見下手なように見え、真に雄弁な者は一見訥弁のようにみえる。(老子徳經・洪徳第四十五│「老子 荘子上」, p81-83)

参考資料:
岡村繁著:新釈漢文大系「白氏文集 四」, 明治書院, 1990
阿部吉雄, 山本敏夫, 市川安司, 遠藤哲夫著:新釈漢文大系「老子 荘子上」, 明治書院, 1975
蜂屋邦夫訳注:岩波文庫「老子」, 岩波書店, 2012
白川静著:「字通」, 平凡社, 1997