古今、セーフティーネットがなければ、堕ち行く先は奈落の底である。駿馬の骨やら卒都婆小町等々は、袖にされた野郎共や政敵がざまあ見ろと噂したであろう老残の風姿である。(尤も貶めたつもりが、描かれた彼女等は老驥櫪に伏すともの気概に満ちる。)それでも有力な後見がない桐壺更衣や生家没落後の定子皇后には、桐壺帝、一条天皇からの真摯な寵愛があった。光源氏が関係を結んだ女性陣を同居させた六条院はさしずめ高級介護施設である。
「つれなき人の御心をば、何とか見たてまつりとがめん。そのほかの心もとなくさびしきこと、はた、なければ」(君の情けは薄いが、ほかに不安で心細いことは何もないから)
(「源氏物語」三、初音)は、この時代の現実を見据えた紫式部の本音だろう。かばかりの御心にすがって年経るしかなかった女性陣の心中は果たして如何なるものであったか。
時代が下るが、大家池波正太郎著、鬼平犯科帳「本所・桜屋敷」は、ドラマや劇場版に繰り返し映像化された名作である。長谷川平蔵が盟友、岸井左馬之助と若かりし頃に通った道場の隣家、桜屋敷の純真無垢な娘、おふさが、時世に翻弄され悪意に晒された挙句、荒み切った姿で白洲に引き出されてくる。
「女という生き物には、過去(むかし)もなく、さらに将来(ゆくすえ)もなく、ただ一つ、現在(いま)のわが身あるのみ-----ということを、おれたちは忘れていたようだな」(「鬼平犯科帳1」, 本所・桜屋敷)は、平蔵や左馬之助を忘れ去ったおふさを見送った後の平蔵の述懐である。真に気骨と力量がなければ、来し方を今に今を行く末に繋げる事は出来ない。後味の苦さとして残るのは、自暴自棄になり堕ちていった女の無力であり、そして二十数年間憧れただけに終わり、かつて身分の差を越えて女の窮地を救えなかった男の無力である。しづやしづのおだまき繰り返し、昔を今になすよしもがな。今年もまた独り佇み、万朶の桜を見上げる左馬之助の姿は傷ましく悲哀に満ちる。さりながらその後姿は、光芒と希望に満ち憧憬に彩られた自らの青春を懐かしみ、脳裏に蘇る残映に慰撫されているだけにも見える。
参考資料:
阿部秋生, 秋山 虔, 今井 源衛, 鈴木日出男校注・訳:新編日本古典文学全集22「源氏物語」三, 小学館, 1996
池波正太郎著:文春文庫「鬼平犯科帳1」, 文藝春秋, 2016