花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

梶の葉をめぐりて│伝統的七夕

2018-08-17 | アート・文化
「梶の葉(かじのは)」はカジノキの葉で秋の季語である。太陰太陽暦による七夕、星祭の今宵は、牽牛星と織女星が一年に一度、天の川で出逢う。二星に諸芸が上達するように乞い祈り、短冊がわりの梶の葉に思いを込めて願い事を書こう。

  和漢朗詠集・秋 七夕(しつせき)
億得少年長乞巧 竹竿頭上願絲多    白居易
憶(おも)ひ得たり少年にして長く乞巧(きつかう)せしことを
竹竿(ちくかん)の頭上に願絲多し

七夕や秋を定むる世のはじめ      松尾芭蕉


七月七日 乞巧・星の座飾り│嘉門工藝

カジノキ(学名:Broussonetia papyrifera)は、クワ科コウゾ属の落葉高木、縮小名papyriferaは紙にするの意味である。ヒメコウゾ(学名:Broussonetia kazinoki Sieb.)もクワ科コウゾ属の落葉低木である。コウゾ(学名:B. kazinokixpapyrifera)はヒメコウゾとカジノキの種間交雑種と考えられ製紙原料として栽培される。漢字の「楮」は訓読みで「こうぞ」だが、「梶」、「構」、「楮」ともにカジノキの古名である「かじ」の漢字でもあるところが複雑である。『本草綱目』、木部三十六巻の「楮」の項目では「葉有瓣曰楮,無曰構。」とあり、葉の形状で楮と構を区別するものの種別としては「楮」に一括されている。「楮」の葉、「楮葉」の性味は甘,涼、無毒、効能は凉血止血、利尿、解毒で、吐血、衄血(じくけつ)、崩漏、水腫、疝气、痢疾、毒瘡などに有効とされる。


楮│「本草綱目」

「刻楮」、「三年刻楮」、「刻楮三年」の故事成語を生みだした話が、『列子』巻八、説符(道を説いて符節を合するの意)の章にある。片や三年の時を費やし、本物と見間違うばかりの一枚の楮の葉を玉で作り上げて宋国に召し抱えられた職人芸の超絶技巧である。これに対して悠久の天地自然は、造作なし、作為なし、其処彼処の樹木に数多の葉を繁らせる。造化の働きを成しとげるとも能書を垂れず、功績を自らのものとはしない。『韓非子』喩老第二十一(老子について喩えをなすの意)にも同様の「象(象牙)を以て楮葉を為れる」話があり、『老子』第六十四章、「以輔萬物之自然、而不敢為。」を踏まえて、「故曰、恃萬物之自然、而不敢為也。」(故に(老子)曰く、萬物の自然を恃みて、而して敢て為さざるなり、と。)と締め括られる。その意味は『列子』における「聖人は道化を恃んで、智巧を恃まず。」と同じく、萬物の本来のあり方に任せて自分からさしでたことはしない、との教えである。
 もし人間が、天地の力に頼らず森羅万象を意のままにし得ると自らを恃むならば、それは怖れを知らざる分外でしかない。しかし賢しらな計らいと指弾されるとも、政治経済、文化芸術、いや医療にしても、人間の営為は作為、企みなくして成り立たない。宋の工人は己のあらむ限りの技量を尽くし、全身全霊を捧げて自然へのオマージュ作品を為したのではないか。その結果、宋の國の録を食むかどうかは究極の目的ではあるまい。もとよりこれらは私の想像である。

「宋人有為其君以玉為楮葉者、三年而成。鋒殺莖柯、毫芒繁澤、亂之楮葉中而不可別也。此人遂以巧食宋國。子列子聞之、曰:「使天地之生物、三年而成一葉、則物之有葉者寡矣。故聖人恃道化而不恃智巧。」(「列子」説符)
(宋人に其の君の爲に玉を以て楮葉を爲る者有り、三年にして成る。鋒殺(ほうさい)・莖柯(けいか)・毫芒(ごうぼう)繁澤(はんたく)にして、之を楮葉中に亂すに、別(わかつ)つ可からず。此の人遂に巧を以て宋國に食む。子列子之を聞いて曰く、天地の生物をして、三年にして一葉を成さしめば、則ち物の葉有る者寡(すくな)し。故に聖人は道化(だうくわ)を恃んで、智巧を恃まず、と。)

生け花における盛花も作り過ぎれば精巧な箱庭と変わらない。「不気味の谷」現象が引き起こす基盤が生物らしさを感じるアニマシー知覚にあるならば、似せる造形とする対象が人間以外においても成立するだろう。自然に沿うかあるいは対峙するか、自然物をモチーフにする工芸においては写実ないし意匠化が深すぎても浅すぎても不作となる。優品を拝するたびに、携わる御方々は日夜、その至微至妙な加減を推し量ることに精魂を傾けておられるに違いないと何時も思う。


銀河月│月岡芳年「月百姿」 / The moon of the Milky Way

月をこそ ながめなれしか 星の世の 深きあはれを こよひ知りぬる

なにごとも かはりはてぬる 世の中に 契りたがはぬ 星合(ほしあひ)の空

思ふこと 書けどつきせぬ 梶の葉に けふにあひぬる ゆゑを知らばや
               建礼門院右京大夫

参考資料:
Stevenson J: Yoshitoshi’s one hundred aspects of the moon, Hotei Publishing, 2001
川口久雄, 志田信義校注:日本古典文学大系「和漢朗詠集 梁塵秘抄」, 岩波書店, 1974
糸賀きみ江校注:新潮日本古典集成「建礼門院右京大夫集」, 新潮社, 1979
今栄蔵校注:新潮日本古典集成「芭蕉句集」, 新潮社, 1982
葉蓓卿訳注:中華経典名著全本全注全訳叢書「列子」, 中華書局, 2011
小林信明著:新釈漢文大系22「列子」, 明治書院, 1967
竹内照夫著:新釈漢文大系11「韓非子 上」, 明治書院, 1977
蜂屋邦夫:ワイド版岩波文庫349「老子」, 岩波書店, 2012
沈連生主編:「本草綱目彩色図譜」, 華夏出版社, 1998
林弥栄, 古里和夫, 中村恒雄監修:「原色樹木大圖鑑」, 北隆館, 1985
三橋博監修:「原色牧野和漢薬薬草大圖鑑」, 北隆館, 1988
南京中医薬大学編著:「中薬大辞典 下」, 上海科学技術出版社, 2006

基準というもの

2018-08-11 | 日記・エッセイ


生け花において主要な役枝を組み合わせた後に、文字通り重なる枝葉のみならず、同じ方向に延びる枝葉(イメージが重複する)を落とさねば、目指す美しいかたちには至らない。生け花と医業は一見関係はなさそうに見えて、其の実必要とされる行動原理が結構重なる。医療業務は当機立断なくしては成り立たず、例えトリアージが必須な状況とは異なる平時であろうとも、絶えず何かにつけて取捨選択の決断が求められる。諸々に優先順位をつけて処理してゆく習いは職業を通じて否応なく培われた筈である。それでもこの一枚一枝一蕾をどうするかと何時も遅疑逡巡し、花のかたちを造った後になおも後ろ髪を引かれる心情が消せない。初めて花鋏を握ってから幾年月が過ぎただろう。いまだに不得要領なこの身の拙劣さは言うまでもない。それに加えて、生来、背後に残し置くものに果断に引導を渡せない優柔不断な性なのだろう。

かつて数寄者の御方々と美術探訪の旅を御一緒させて戴いた時、これは香合に、あれは茶籠の茶碗に、しかし高台がどうの等々の言葉を沢山伺った。お茶に使えるかという基準に合わせて、先々で出会う様々の異国の器は次から次へと不適格の印が押されていった。かくなる私も器を見れば、良い形だが挿した時のつり合いを考えると口の大きさに比し丈が短いなどと、華道をちびと齧った青二才らしく、今やバイアスがかかった眼で見ることから逃れられない。人が勝手に張り付けた“値札”が何ら普遍的な美的価値を保証するものでなく、一つの選に漏れて捨て置かれたものは一つの基準から外れただけである。思えばどの道を歩くにも、何かをよしとして手元に選び、どれかを不要と棄却してゆかねばならない。その行路を歩き続ける限り、其処で“正しい”とされるものの見方は何処までも追いかけてくる。

松竹水聲涼 其の二│チャールズ・スタッキー「モネ 睡蓮」

2018-07-29 | 日記・エッセイ


「あるとき、《睡蓮》の主題を装飾的に使ってみたいという誘惑にかられた。室内全体が壁の長さいっぱいに広がる睡蓮のみで包み込まれ、そこに終わりのない全体、水平性も岸もない水面の幻影が生まれる。心落ち着く静かな水を眺めることは疲れ切った神経を休め、だれにせよそこに生きる者にとっては、花に埋もれた水槽の中で平和な瞑想に浸る避難所ができあがるだろう。」
(モネの《睡蓮》│「モネ 睡蓮」, p18)



気象庁は本年の猛暑を「災害と認識」との見解を示す異例の記者会見を開いた。大暑をはるかに凌ぐ酷暑が日本を焼き尽くした次は、列島を西進する異例のコースをとる台風12号が西日本を蹂躙している。第二弾・松竹水聲涼は画集『モネ 睡蓮』を取上げて、せめて風水面に来る時の清意と参りたい。本書はオランジュリー美術館壁面を飾るモネの「睡蓮」連作や数多くの各地の関連作品が収録され、広げれば折りたたまれた長さが1mを越える紙面で作品を拝することができる。冒頭はモネ自身の言葉で、以下に続くのは本画集のモネ論からの一節である。

「日本のやりかたのように、《睡蓮》は自然の断片によって、全体を包み込むようなさらに広い空間を暗示している。この意味でモネの作品の根本には、彼のよき先導者であったエドゥアール・マネの《フォリー・ベルジェールの酒場》(1881-82)がある。視界の外にあるものが、背景の鏡によって視界に入る場所に移されているのである。《睡蓮》にみられる鏡に映したような上下逆さのイメージと上下が正しいイメージの二重の共存は、祈りが思想を超えるように、<上><下><前><後>などの通常の空間的な限定を超越して、見る者の視覚を二重の意味で意識させるのである。」
(モネの《睡蓮》│「モネ 睡蓮」, p18)

訳者の美術史学者、高階秀爾名誉教授は、著書『日本美術を見る眼』、枝垂れモティーフの章で、《睡蓮》展に寄せられた批評に対するモネの反論の言辞、「作品の源泉をどうしても知りたいというなら、そのひとつとして、昔の日本人たちと結びつけてほしい。彼らの稀に見る洗練された趣味は、いつも私を魅了してきた。影によって存在を、部分によってその全体を暗示するその美学は、私の意にかなった-----。」を提示され、「モネが的確に見抜いたように「部分によって全体を暗示する」というやり方は、日本美術の大きな特色である。」と、ジャポニスムが西洋にもたらした美学に関する詳細な論説を述べておられる。

ところで先の「自然の断片」という言葉に些か抵抗を感じたのは、私が日本人であるからか。果たして「部分」は「全体」から切り取られた断片か、全体集合に含まれる部分集合(下位集合)か。事によると「部分によって全体を暗示する」というやり方の理解が、東洋と西洋では些か異なるのかもしれない。「部分」はあるがままの自然の美の一部に注目して取り出された部分(fragment)ではなく、縮小図(miniature)でもない。東洋の「部分」には「全体」がそのままに顕露する。そして「部分」が生起する過程に連動して、「全体」は限定された枠を超えてゆく。生け花で言うならば、「部分」がかきつばたの作品とすれば「全体」は何と捉えるべきだろう。初めに想起されるのが仮に太田神社や小堤西池のかきつばたであるならば、次には何処か群れ咲くかきつばた、さらには永遠の花、生きとし生けるもの、あるいは遥かにこれらを越えたものに対応するかもしれない。いまだ私が至れぬままの、華道大和未生流で斯くあるべしと御示唆いただいた生け花はそのような花である。興味深いことに、東西医学における「部分」と「全体」の捉え方にも、東西美術の絵画観において指摘される差異と似通った点がある。

参考資料:
チャールズ・スタッキー著, 高階秀爾・松本絵里加訳:「モネ 睡蓮」, 中央公論社, 1988
高階秀爾著:「日本美術を見る眼」, 岩波書店, 1991

夏期特別講習会2018「流派の生け花の方法」│大和未生流の花

2018-07-16 | アート・文化


大和未生流の夏期特別講習会が、7月8日、奈良春日野国際フォーラム 甍~I・RA・KA~本館で開催された。午前の部は御家元の御講義、午後の部は御家元と副御家元の御指導による実技講習が恒例である。本年の御講義「大和未生流の生け花の方法について」は、当代が夏期講習会をお始めになった原点の御趣意からお話が始まった。日々の研究会や稽古とはまた展開が異なる、日本美術を見る眼を養い生け花の背景となる幅広い教養を培う為の会であることは今も変わりはない。生け花の技法(挿法)は単なる様式ではなく流派の思想である。初代から当代に至る大和未生流が森羅万象の自然をどのように受け止めてきたかという、流派の眼を表わすマニフェストである。

本講では、「檜図屏風」(狩野永徳)、「紅白梅図屏風」(尾形光琳)、「燕子花図屏風」(同)、「夏秋草図屏風」(酒井抱一)、「松林図屏風」(長谷川等伯)などの数々の障屏画(しょうへいが)を紐解かれ、画の中で余るもの被さるものを切り捨て、中心となる主題(本質)を浮き彫りにするのが日本美術に共通する習俗であり表現様式であること、さらにこの本質の観照、余剰の省略の過程において、西洋画では塗り残した空白とされる画中の「余白」に余韻という意義を与えたことを御講義になった。
 自然美を作品に表現するとは、自然界の対象をそのままトレースする「自然の再現」ではない。それは視覚を含む五感を総動員して掴んだ感動を造形化することである。その作者が何に魂を揺り動かされたか。観る者は作品を通して作者の感動を追体験する。そしてその時、鑑賞者もまたおのれの内なる全ての力を試される。

午後からの実技演習は、臙脂色の菊三本を用いた一種生けの後人投入であった。各地から参集した門下生一同が稽古に励み、最後に御家元の講評を拝聴して実り多い夏期講習会は散会となった。旧奈良新公会堂の外に出れば、西日本に甚大な被害をもたらした豪雨から一転、緑深い春日原生林と若草山の上に雨過天晴の夏空が広がっていた。これからも日本各地で暑湿の酷暑が続くに違いない。帰宅後はお教え頂いたことを振り返り、床の間に水切りで生気を取り戻した菊を生け直した。講習会で使う花器は毎年、御家元が現地に出向かれ監修なさっている御会心の器である。本年の花器は砂金袋水指に似た形の信楽焼で、けうとき物の対極にある一色の釉調である。やや大きい口に満々と水を張れば、当方の技の拙さを補ってくれる涼味が溢れた。



最後に、本講習会で御提示になった朝顔の茶の湯の逸話、岡倉天心著『茶の本』、第六章「花」の一節を、続いて『茶話指月集』におけるくだりを記し置きたい。一輪の朝顔は群れ咲く中から断片的に切り取られただけの花ではない。其の一輪はいわば影向(ようごう)の朝顔である。

「花物語は尽きないが、もう一つだけ語ることにしよう。十六世紀には、朝顔はまだわれわれに珍しかった。利休は庭全体にそれを植えさせて、丹精こめて培養した。利休の朝顔の名が太閤のお耳に達すると太閤はそれを見たいと仰せいだされた。そこで利休はわが家の朝の茶の湯へお招きをした。その日になって太閤は庭じゅうを歩いてごらんになったが、どこを見ても朝顔のあとかたも見えなかった。地面は平らかにして美しい小石や砂がまいてあった。その暴君はむっとした様子で茶室へはいった。しかしそこにはみごとなものが待っていて彼のきげんは全くなおって来た。床の間には宋細工の珍しい青銅の器に、全庭園の女王である一輪の朝顔があった。」
(岡倉覚三著, 村岡博訳:岩波文庫「茶の本」, p89, 岩波書店, 1991)

Flower stories are endless. We shall recount but one more. In the sixteenth century the morning-glory was as yet a rare plant with us. Rikiu had an entire garden planted with it, which he cultivated with assiduous care. The fame of his convolvuli reached the ear of the Taiko, and he expressed a desire to see them, in consequence of which Rikiu invited him to a morning tea at his house. On the appointed day Taiko walked through the garden, but nowhere could he see any vestige of the convolvulus. The ground had been leveled and strewn with fine pebbles and sand. With sullen anger the despot entered the tea-room, but a sight waited him there which completely restored his humour. On the Tokonoma, in a rare bronze of Sung workmanship, lay a single morning-glory—the queen of the whole garden!
(岡倉天心著:「茶の本 The Book of Tea」, p185, 講談社, 1998)

「宗易、庭に牽牛花(あさがほ)みことにさきたるよし太閤へ申上る人あり、さらは御覧せんとて、朝の茶湯に渡御ありしに、朝かほ庭に一枚もなし
尤無興におほしめす、扨、小座敷御入れあれハ、色あさやかなる一輪床にいけたり、太閤をはしめ、召しつれられし人々、目さむる心ちし玉ひ、はなハた御褒美にあつかる、是を世に利休かあさかほの茶湯と申傳ふ」
(谷端昭夫著:「茶話指月集を読む 宗旦が語るわび茶の逸話集」, p87-88, 淡交社, 2002)

はたまた西洋医学と漢方医学

2018-07-07 | 日記・エッセイ


各地の漢方の講演会や研究会に出席して、局所しか見ていない、全身を診ていないと耳鼻咽喉科が引き合いに出されることがある。各領域の西洋医学の専門医が手を施せなかった病態を一刀両断に切り分けて治癒に導いたという御講演において、守備範囲の領域しか見ていないと槍玉に挙げられるのは耳鼻咽喉科だけに限らない。西洋医学的診断治療をお受けになったが、改善なく当方に来られた患者さんですという症例報告において、名前が知られずとも俎上に載せられている先医の西洋医に同情を禁じ得ない。講演を傾聴して「漢方医」として大いに得て学ぶところがある。他方、「西洋医(耳鼻咽喉科医)」としては複雑な思いを抱いて帰宅の途を辿ることになる。

頭頸部領域にこだわり、処置や手術をも含む西洋医学的治療が功を奏する病態はないかと診察を進めるのが、耳鼻咽喉科医の定石である。いかに日常診療で遺漏なく局所を見極めるか。言うまでもなく全身の把握は大切である。だが守備範囲の検索を怠れば耳鼻咽喉科医としては失格である。仮に耳閉感に対し耳鼻咽喉科医が耳内所見をとらず、聴力検査の一つも行わず、気鬱、湿熱、少陽胆経などから事を始めることはない。ならば腹痛に他科の担当医師がどの様に取り組むかと考えれば、耳鼻咽喉科医が耳閉感に取り組む際と同様の定法をお取りになるに違いない。これが原則、漢方治療を行うにあたり耳鼻咽喉科領域に軸足を置く理由の一つである。

「耳鼻咽喉科医」かつ「漢方医」である二股膏薬的な立場から窺い見れば、西洋・東洋医学、両者ともに得手とする所があれば不得手とする所がある。ただ日々念じるのは、西洋医学の恩恵を外すことなく、そして漢方医学的手法をも駆使した、治癒のゴールに向けた走りを全うすることである。

あじさいを生ける│大和未生流の稽古

2018-07-05 | アート・文化


紫陽花はアジサイではない
世間一般にアジサイを紫陽花だと思っているがこれもまたトンデモナイ見当違いで、紫陽花なんてテンデ何の植物だか得体の判らぬものダ。これは白楽天の詩にあるもので、その詩は「何年植向仙壇上、早晚移栽到梵家、雖在人間人不識,与君名作紫陽花」である。そしてその註に「招賢寺有山花一樹無人知名色紫氣香芳麗可愛頗類仙物因以紫陽花名之」とある。こんなアッケナイ詩と文章とに基づきこれがアジサイでゴザルとは驚き入った盲蛇である。元来アジサイは房州・豆洲辺に自生せる額アジサイを親とする日本出の花で唐物ではない。ゆえに支那では 瑪哩花、天麻裏掛、洋繍毬といわるる。」
(そうじゃない植物三つ│「花物語」, p163-164)

  紫陽花 白居易
招賢寺有山花一樹、無人知名。色紫気香、芳麗可愛、頗類仙物。因以紫陽花名之。
招賢寺に山花一樹あり。人の名を知るもの無し。色紫にして気香ばし。芳麗愛す可く、頗る仙物に類す。因つて紫陽花を以て之を名づく。

何年植向仙壇上、早晩移栽到梵家。
雖在人閒人不識,與君名作紫陽花。

何れの年にか 仙壇の上(ほとり)に植ゑたる、早晩(いつ)か 移し栽ゑて梵家に到れる。人閒(じんかん)に在りと雖も 人識らず、君の與(ため)に名(なづ)けて 紫陽花(しやうくわ)と作(な)す。
(この花は、何時はじめて仙壇(俗界を離れた仙境)の上に植えられたのか。またこの花は、いつこの寺院に移植されたのか。この人間社会にありながら、人びとはその名も知らない。よって私は君のために紫陽花と名づけてやろう。)
(白氏文集巻二十 律詩│新釈漢文大系「白氏文集 四」, 441-442)



参考資料:
牧野富太郎著:ちくま学芸文庫「花物語 続植物記」, 筑摩書房, 2010
岡村繁著:新釈漢文大系「白氏文集 四」, 明治書院, 1990



松竹水聲涼 其の一│佐藤秀明「雨のくに」

2018-07-01 | 日記・エッセイ

佐藤秀明写真集「雨のくに」, PIE Books, 2004

「撮影が最も楽しく捗るのはやはり梅雨時の雨だろう。植物や花が水を得た魚のように生き生きとしてとてもフォトジェニックだ。そして雨も明るく温かい。そんな雨とともに古い街並みを歩くことも好きである。民家の軒下にもぐり込んで雨だれにカメラを向けるとき、ふと子供の頃、雨だれに長靴についた泥を落としたことを思いだしたりする。雨と古い街並み、妙に似合うのである。だからこの頃の京都にもよく足を運ぶ。」
(季節の雨を旅する│「雨のくに」, p94)


夏の雨 走り梅雨・はしりづゆ│「雨のくに」

ことが有るたびに心火逆上になる性で、「滅却心頭火自涼」の境地には程遠い毎日を過ごす羽目になる。外来診療では、小暑が近づきはや暑湿で体調をくずしておられる方を多くお見かけするこの頃である。ここで「松竹水聲涼」シリーズと称し、時宜にかなう写真集や本を本棚から取り出して順次掲げてみようと思う。涼風一陣となれば幸いである。
 口切の佐藤秀明写真集『雨のくに』は、一つ一つの写真に季節により異なった雅な雨の名前が冠せられている。移り変わる大自然、そして人間の営為のなかの一瞬の光と影を捉えた写真を拝する時、歩き去ったはずの、あの場所にあった懐かしい雨の匂いがする。

さて「雨に打たれる花」を生け花にいけたなら、どの様な風姿になるのだろう。花時雨、青葉雨、梅雨、夕立、秋霖や氷雨など、折々の季節に花開き旬を迎える花材を使う、という切り口は定番に終わる。花や葉に霧を吹くなどは殊更に言わずもがなである。折に触れて考えてみるが、いまだにはかばかしい結論に至っていない。

巨匠の風貌│横山大観自伝

2018-06-30 | アート・文化


《万緑の三渓園》の末尾に掲げた引用に加えて、横山大観画伯の自叙伝を拝読して心に残った言葉のいくつかを書き留めて置こうと思う。明治、大正、昭和にわたり日本画壇に奔騰する大観流の源流となった、自由闊達、気骨稜々の精神がこれらの一言一句に満ち満ちている。そして「岡倉天心」と「横山大観」、二人の巨匠は巡り合うべきして巡り合って師弟の縁を結んだ希代の師匠と弟子である。画伯が恩師に抱かれた畏敬の念は終生かわらない。
 どのような状況での御影か存じ上げないが、各所の年譜や偉業の説明文にしばしば添えられている、破顔一笑というよりは呵呵大笑と称すべき写真の、肚の底から溢れ出たような横山大観画伯の笑顔が私は好きである。

「しかし、私たちはこれに屈しませんでした。
このまじめな研究の道程としていかに罵倒されようとも我慢することにつとめました。世間のとかくの評判などは眼中におかないで自己の信じる道を進んだのです。それが今から考えるとよかったといえます。いわゆる朦朧派なるものは、この都落ちによって、決して没落しませんでした。没落しなかったばかりでなく。艱苦と闘い抜いた五浦における数年間こそ、私たちの一つの基礎を築きあげたものともいえましょう。」
(四 五浦時代, 1美術院の都落ち, p84-85)

「たとえてみれば、菱田が氷のような人だとすると、私は火のような人間なんです。菱田が冷静な理知の男であったとすれば、私は激しい燃えるような情熱の男です。ですから、かえって二人が合ったわけでしょう、それにしても性格はまるで違っていました。」(四 五浦時代, 3 春草と「落葉」, p95)

「顧みますと、私は実に岡倉先生から厚い恩誼を享けています。私の今日あるのは、骨肉も遠く及ばないほどの先生の真実の愛と、ご鞭撻とご庇護があったからです。先生は、どういうものか早くから、この至らぬ私に対して、過分のご期待を寄せて下さいました。いつも横山横山と、私ばかりを呼んで下さいました。このありがたい先生のご期待に背くまいと、私はただ脇目もふらず、一筋に芸術への精進をつづけてきました。今日、私がこのはかり知れない先生のご恩誼にお報いすることのできるものといえば、それは芸術への精進という一事以外には何物もありません。先生は年若くして亡くなられたとは申しますものの、先生の精神はいささかも亡びず、今なお生きていられます。先生はいつもいつも私を見守っていて下さいます。」(七 岡倉先生, 2 赤倉の秋, p125)

「人間ができてはじめて絵ができる。それには人物の養成ということが第一で、まず人間をつくらなければなりません。歌もわかる。詩もわかる。宗教もわかる。宗教は自分の心の安住の地ですから大事なものですし、哲学も知っていて、そうしてここに初めて世界的の人間らしき人間ができて、こんどは世界的の絵ができるというわけです。世界人になって、初めてその人の絵が世界を包含するものになると思います。」(10 創造の世界, 1画は人なり, p147)

「画論には気韻生動ということがあります。
 気韻は人品の高い人でなければ発揮できません。人品とは高い天分と教養を身につけた人のことで、日本画の究極は、この気韻生動に帰着すると言っても過言ではないと信じています。今の世にいかに職人の絵が、またその美術が横行しているかを考えた時、膚の寒きを覚えるのは、ただに私だけではありますまい。」
(10 創造の世界, 3気韻生動, p150)

-----『大観自伝』には、横山大観記念館、横山隆館長が「画家大観としてではなく、祖父としての大観を思いだすままに」語られた、「祖父大観の思い出」が収録されている。御令孫に対する慈愛に満ちた眼差しとともに、御家族の中にあっても画業に一意専心、真摯な構えは変わらず、一点一画、一挙一動、一伍一什、何事も忽(ゆるが)せにはなさらなかった御姿が彷彿と浮かび上がってくる。

「創作の構想が浮かぶと、食事中であれば、箸を鉛筆に持ちかえ、夢中で鉛筆をはしらせ洋画風の草稿を描いていた。その古びた写生帖に描かれた草稿の一つ一つが、数多くの作品として発表されている。その古びた写生帖の中に、祖父大観の芸術の雄大な理想と情熱の源を見ることができる。
 制作にとりかかると、少なくとも下絵は六、七枚、多い時には十数枚にも及ぶ、その間は納得のいくまで何度も、書き直していた。筆、絵具皿の水洗い、膠溶き、筆洗の水替え、ふきんの水洗いに至るまで、人の手を煩わすことはなかった。どんなに寒くても、画室の水洗場で、自ら絵具皿を洗っていた。」
(祖父大観の思い出, p174-175)

「酒徒であった祖父は、決して酒気が無くなるまでは、筆を持つことはしなかった。宴席でどんなに深酒をしても、履物はきちんと、玄関の三和土に揃えて上がって来る祖父であった。」(祖父大観の思い出, p175)

参考資料:
横山大観著:講談社学術文庫「大観自伝」, 講談社, 1981
横山大観著:「大観画談」, 日本図書センター, 1999




万緑の三渓園

2018-06-28 | アート・文化


第119回日本耳鼻咽喉科学会・学術講演会(5月30日~6月2日)が横浜で開催された。会期の合間を縫って会場のパシフィコ横浜からタクシーで約20分、以前から訪れたいと願いながら機会を逸していた名勝三渓園に伺った。三渓園は、生糸関連の事業を営み、横浜の近代化に多大な貢献をした大実業家で数寄者、原富太郎(号、三渓)が、明治三十九年、私邸の庭を市民に広く公開なさった名園である。庭園内には国の重要文化財建造物に指定された多くの歴史的建造物が点在する。

静謐な一画には、原三渓の業績、自筆の書画、下村観山、横山大観、速水御舟などのゆかりの作家作品を展示する三渓記念館があり、学会会場の喧騒から離れて昼の一時、お茶を一服頂戴した。幼い頃に目にした海岸近傍の景観は失われたと申されたタクシーの運転手さん、広い園内で道に迷った時に誘導して下さったボランティアガイドの方、本日伺ってきましたと申し上げた際のホテルスタッフの皆様、何の方からも原三渓を敬愛し、三渓園を大切に思っておられる気持ちが伝わって来た。





記念館で求めた『三渓園100周年 原三渓の描いた風景』の「三渓園関連資料・文献」新進芸術家への支援・交友の章には、横山大観著『大観自伝』に収載されている、画伯の硬骨漢、面目躍如たる言葉が紹介されていた。原三渓は芸術保護の一環として若い芸術家への支援、育成を行なうとともに、取集した美術品を手に取れるような形で公開し、比較研究や自己研鑽を可能せしめる文化サロンとしての場を提供なさった。そして関東大震災で被災した横浜復興のために私財を投げ打ち、以降は古美術購入をおやめになったという。
 何を為す、為したは勿論である。そして同じく、その時に何を為さず、為さないと決したかという選択にも、御人の立ち姿が如実にあらわれる感がある。



「このころのこと、岡倉先生は東京に出て、原富太郎さんと会われお話合いがありました。金持ちのことですから、美術奨励のために前途のある人を保護してやらないかということでご承諾になって、下村・安田・今村・前田・小林、この五人が原さんから毎年いくらかずつ研究費をもらい生活していました。
 後々のことになりますが、岡倉先生がお亡くなりになり、五浦にのこっていた下村君も五浦を引きあげ、横浜の原さんの邸宅に住むようになりました。そのころ、私も原さんからしきりにお誘いを受け、盛んに横浜に来いというものですから、お尋ねして1か月も泊っていたことがあります。その時、自動車で、あの方の所有地をずっと見て回りましたが、「今歩いて来たところでどこかあなたの気に入ったところはないか」と言ってくれました。しかし、私は、どうも前からお金持ちにそういうふうに金を出されてやるということを、あまりかんばしくないと思っていましたからすっぱりお断りしてしまったのです。私は後から誘いを受けたのですが、そんなわけでした。もちろん菱田君はもう亡くなっておりませんでした。」(大観自伝, p108-109)

参考資料:
財団法人 三渓園保勝会編:「三渓園100周年 原三渓の描いた風景」, 神奈川新聞社, 2006
青柳恵介編:別冊太陽 特別記念号「101人の古美術」, 平凡社、1997
横山大観著:講談社学術文庫「大観自伝」, 講談社, 1981
横山大観著:「大観画談」, 日本図書センター, 1999

風蕭々兮易水寒│生誕150年 横山大観展

2018-06-24 | アート・文化


『生誕150年 横山大観展』が京都国立近代美術館で開催中である。「風蕭々兮易水寒」は画伯最後の院展出品作で、前期展示では絢爛豪華な六曲一双の「夜桜」、「紅葉」と同じ一室に展示されていた。中国春秋時代の燕の壮士、荊軻が使命を果たさんが為、易水のほとりで「風蕭蕭兮易水寒、壮士一去兮不復還」と詠い、再び還ることのない地に別れを告げる場面である。如意の如き尖端をみせる干枯した柳の太枝は、「別離河辺綰柳条」と詠われる綰柳(結び柳)を表わすかの様に、幹との間で歪な輪を作る。波打つ大河の畔、揺れる柳条の前に立ち尽くす犬は、首途を見送る者と見送られる者すべての「士皆瞋目、髪尽上指冠」の心を映し、尾は垂れているも目は怒り、口は真一文字に閉じている。彼もまたおのれの運命の上に四肢を踏ん張り、壮士が去った遥か彼方を見据えている。


風蕭々兮易水寒│名都美術館

  詠荊軻   陶淵明
燕丹善養士 志在報強嬴  燕丹善く士を養い 志は強嬴に報いるに在り
招集百夫良 歳暮得荊卿  百夫の良を招集し 歳暮に荊卿を得たり
君子死知己 提劍出燕京  君子は己を知るもののために死す 劍を提げて燕京を出づ
素驥鳴廣陌 慷慨送我行  素驥 廣陌に鳴き 慷慨して我が行を送る
雄髮指危冠 猛氣衝長纓  雄髮は危冠を指し 猛氣は長纓を衝く
飮餞易水上 四座列羣英  飮餞す易水の上 四座羣英を列ぬ
漸離撃悲筑 宋意唱高聲  漸離は悲筑を撃ち 宋意 高聲に唱ふ
蕭蕭哀風逝 淡淡寒波生  蕭蕭として哀風逝き 淡淡として寒波生ず
商音更流涕 羽奏壯士驚  商音に更に流涕し 羽奏に壯士驚く
心知去不歸 且有後世名  心に知る 去りて歸らず 且つは後世の名有らんと
登車何時顧 飛蓋入秦庭  車に登りて何れの時か顧みん 飛蓋秦庭に入る
凌厲越萬里 逶逶過千城  凌厲として萬里を越え 逶逶として千城を過ぐ
圖窮事自至 豪主正征營  圖窮まって事自ら至る 豪主正に征營たり
惜哉劍術疏 奇功遂不成  惜しい哉 劍術疏にして奇功遂に成らず
其人雖已沒 千載有餘情  其の人已に沒すと雖も 千載餘情有り

  于易水送人 駱賓王
此地別燕丹 壯士髮衝冠  此の地燕丹に別る 壯士髮冠を衝く
昔時人已沒 今日水猶寒  昔時人已に沒し 今日水猶ほ寒し


于易水送人│唐詩選畫本

太子およびその門客や事情を知る者たちは、みな白い衣装と冠で見送って、易水の岸べまで来た。祖の祭りをすませて、旅路につこうとしたとき、高漸離は筑をかきならし、荊軻はそれにあわせて歌った。それは変徴(へんち)のしらべであった。男たちは皆涙がこみあげて泣いた。(荊軻は)また進み出て、歌った、
  風蕭蕭兮易水寒   風蕭蕭として易水寒し
  壮士一去兮不復還  壮士一たび去って復た還らず
さらに羽調で歌い忼慨の意をあらわしたとき、男たちはみな目を怒らせ、髪はさかだって冠をつきあげた。それより荊軻は馬車に乗り出立したが、ついに一度もふりかえりはしなかった。(史記、刺客列伝 第二十六)

-----司馬遷は刺客列伝の末尾を以下の一文で締めくくる。
自曹沫至荊軻五人、此其义或成或不成、然其立意較然、不欺其志、名垂後世、豈妄也哉。
曹沫から荊軻までの五人、義侠の行いを成しとげた者も、成らなかった者もいる。けれどもその心ばえは明白であって、志にそむきはしなかった。名声が後世に及んだのは、けっしていわれなきことではないのである。

参考資料:
「生誕150年 横山大観展」図録, 東京国立近代美術館, 京都国立近代美術館, 2018
横山大観記念館監修:「横山大観の世界」, 美術年鑑社, 2006
松枝茂夫, 和田武司訳注:岩波文庫「陶淵明全集(下)」, 岩波書店, 1990
陶潜著:中国古典文学叢書「陶淵明集校箋」, 上海古籍, 2011
川合康三編訳:岩波文庫「中国名詩選(中)」, 岩波書店, 2015
兪平伯 他編:「唐詩鑑賞辞典」, 上海辞書出版, 2013
石峯橘貫書画:「唐詩選畫本 五言絶句一」天明戌申再刻版、明治刷
小川環樹, 今鷹真, 福島吉彦訳:岩波文庫「史記列伝(二)」, 岩波書店, 2015