花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

孔子が愛した弟子│中島敦「弟子」

2021-02-28 | アート・文化


上智と下愚は移り難いと言った時、孔子は子路のことを考えに入れていなかった。欠点だらけではあっても、子路を下愚とは孔子も考えない。孔子はこの剽悍な弟子の無類の美点を誰よりも高く買っている。それはこの男の純粋な没利害性のことだ。この種の美しさは、この国の人々の間に在っては余りにも稀なので、子路のこの傾向は、孔子以外の誰からも徳としては認められない。むしろ一種の不可解な愚かさとして映るに過ぎないのである。しかし、子路の勇も政治的才幹も、この珍しい愚かさに比べれば、ものの数でないことを、孔子だけは良く知っていた。
(弟子│「李陵・山月記」, p32)

仲由弁人、字子路。一字季路。少孔子九歳。有勇力才藝。以政事著名。為人果烈而剛直。性鄙而不達於變通。仕衛為大夫。遇蒯聵與其子輒爭國。子路遂死輒難。孔子痛之。曰、自吾有由、而惡言不入於耳。
仲由は弁人、字は子路。一の字は季路。孔子より少きこと九歳。勇力才藝有り。政事を以て名を著す。人と為り果烈にして剛直。性、鄙にして變通に達せず。衛に仕へて大夫と為る。蒯聵と其の子輒と國を爭ふに遇ふ。子路遂に輒の難に死す。孔子之を痛む。曰く、吾、由有りて自り惡言耳に入らず、と。
(七十二弟子解 第三十八│「孔子家語」, p455-456)
 *蒯聵(かいがい):荘公、衛の第31代君主。
 *輒(ちょう):出公、衛の第30代および第33代君主。蒯聵の子。



讀書の月 / 月岡芳年「月百姿」/ 57 Reading by the moon-----Zi Luo / Yoshitoshi’s one hundred aspects of the moon

-----両親が没した今、かつての藜藿(れいかい;アカザと豆の葉、転じて粗食)を食し、両親の為に米を背負い百里の道をゆかんと願っても、もはやこの身に叶うものではありません。疾駆する馬を隙間からちらと見る様に、父母の寿命は瞬きの間に尽きてしまいました。-----かかる子路の言上に師がおかけになった言葉は、「由成事親、可謂生事盡力、死事盡思者也。」(由や親に事(つか)ふること、生けるに事ふるには力を盡し、死せるに事ふるには思ひを盡す者と謂ふべきなり)(観思 第八│「孔子家語」, p106-107)であった。
 『世説新語』には「子路亡、子曰、噫、天祝予。何休曰、祝者、斷也。天將亡夫子耳。」(傷逝第十七篇 劉義慶注│「世説新語」, p813-814)とあり、“祝”が命を断つを意味することが示され、非業の最期を遂げた愛弟子の訃報に接し、孔子が「天が私を亡ぼそうとしている」と慟哭した《祝予之歎》が記されている。

参考資料:
中島敦著:新潮文庫「李陵・山月記」, 新潮社, 1973
宇野精一著:新釈漢文大系53「孔子家語」, 明治書院, 1996
目加田誠著:新釈漢文大系78「世説新語 下」, 明治書院, 1978
金谷治訳注:岩波文庫「論語」, 岩波書店, 2012
Stevenson J:Yoshitoshi’s one hundred aspects of the moon, Hotei Publishing, 2001




爛紅火の如く雪中に開く│蘇軾「邵伯梵行寺山茶」

2021-02-27 | アート・文化

椿土鈴・東大寺

  邵伯梵行寺山茶    蘇軾
山茶相對阿誰栽、細雨無人我獨來。説似與君君不會、爛紅如火雪中開。

(巻二十四│「蘇軾詩集合注 三」, p.1229)

山茶相対阿誰か栽うる 細雨人無く我獨り來る
説似して君に與ふるも君會ず 爛紅火の如く雪中に開く
山茶花が二樹相對して在るが是は阿誰が栽ゑたのである。細雨霏霏たる中人は居らない我獨り訪來する、説示して君に與ふるも君は恐らくは會(え)せぬであろう。山茶花が爛紅火の如く燃えて而も雪中に開くの實相を。
(巻二十四 古今禮詩│「蘇東坡全詩集」第三巻, p.697)

つばきはもと冬の花なり。爛紅火の如く雪中に開く、と東坡の云ひけんはまことの風情なるべし。はやくより咲くもあれど、春に至りて美しく咲きこぼるゝを多しとす。(後略)
(幸田露伴著「花のいろいろ」山茶花│「日本の名随筆1」, p.228)

参考資料:
蘇軾著, 馮応瑠輯注, 黄任軻・朱懐春校點:「蘇軾詩集合注 三」, 上海古籍, 2009
蘇軾著, 岩垂憲徳・久保 天随・釈清潭註解:「蘇東坡全詩集 第三巻」, 日本図書, 1978
宇野千代編:「日本の名随筆1」, 作品社, 2001




時│花便り

2021-02-26 | アート・文化
悲劇も喜劇も包み込んで流れる時は非情である。そこに安らぎを覚え永遠を思い慈愛を感じることができるのは、現状に満足を得た人々である。時の流れに逆らうこともできずに生きなくてはならない人間に、時は残酷ですらある。死に向かって流れる「時」と、すべてを包み込んで流れる「時」とは、異なるふたつの「時」なのである。

(第三章 時と廃墟の哲学、2「廃駅」を中心に│尾形明子著「田山花袋というカオス」, p231, 沖積舎, 1999) 








長い夜

2021-02-25 | 日記・エッセイ


ひたすら焦がれ辿り着いたと思いきや樹上の姿は消え失せる。そしてまた遥かに木下闇から此処なのにと手招きして呼ぶ涼やかな声が聞こえる。国、城あるいは身代を傾け身命を削り、芸術の美神への供物にみずからを捧げた古人は多い。魅入られ誘われた果ての深淵に臨んで立ち竦み、怖気を震った挙句に立ち帰った諸人には現し心が残っていたのか。然にあらず。引き換えに全てを棄て朽ち果つるとも我が道程に一片の悔あらんや、と言えるものに、幸か不幸か巡り合わなかっただけにすぎない。






まつろはぬもの│「酒呑童子絵を読む まつろわぬものの時空」

2021-02-20 | アート・文化


「文学・哲学・歴史においては、世界を豊饒にし幽玄の奥行きを与えるのは、<まつろはぬもの>からの挑戦である。<まつろはぬもの>の働きは硬直し矮小化した発想を生命の躍動に向かって転換する発条の役割を果たす。<まつろはぬもの>は恐ろしい存在なのだが、それ自身眼を瞑ってはいけないし、人はそれから眼を逸らしてはならない。アンチテーゼとしての<まつろはぬもの>はいつの時代にも社会また人の心の中に生き続けなければならないものなのだろう。謡曲『卒都婆小町』の名句「心の花のまだあれば」という表現を借りるならば、「<まつろはぬもの>のまだあれば」といわねばならない。<まつろはぬもの>を「心の花」に転換させる発想が求められる。」
(「酒呑童子絵を読む まつろわぬものの時空」, p167-168)

数々の酒呑童子絵がカラー収載された本書には、絵巻、屏風絵や諸伝本の詳細な解説とこれを支える思想についての論説が展開する。<まつろはぬもの>とは反逆者、時の体制に帰順せぬものである。第四章《物語を支える思想》、1. 物語の生成-----酒呑童子の物語では、酒呑童子の物語が「<まつろはぬもの>との戦いを象徴する物語」であること、江戸初期に多く制作された古法眼系統の酒呑童子征伐の物語が「清和源氏を称する徳川氏を中心とする武家政権の正統性を語る神話」となることが指摘される。おどろおどろしい、しかし血湧き肉躍る妖怪退治譚の中に仕込まれているのは勝者の正統性である。

本書の本題から外れるが、2. 物語の享受-----酒呑童子・堀河夜討・大森彦七で示された、”何かを背負うことの持つ象徴的な意味”についての記述が興味深い。
「背負うことにおいては、背負われるものの正体は背負うものが何者であるかを示す微証であり、背負うことは背負うものの存在理由、役割、生きざまを象徴的に示すものとなっているのである。」(同, p163)
この章では、大森彦七の物語で大森彦七が背負うのは美女に化した楠木正成の怨霊であり、夏目漱石著『夢十夜』第三夜で「背中の子供によって自分が罪を背負った存在である」とわたしは覚り、『伊勢物語』芥川の段では、盗み出した女を「背負うところの恋の重荷は在原業平の存在理由と生きざま」であり、「捨て去ることのできない自らの色好みの心」であることなどが挙げられている。
 おのれが此処に背負わざるを得ないものが自らの存在意義であるという示唆は重い。それは肉付きの面ならぬ、背に負った”肉付きの甲羅”である。武術の達人、亀仙人の甲羅は容易に取り外しが可能なようだが、本来甲羅というものは不可分の肉付きである。
さて、貴殿が背負ってこられたもの、その背に今、背負っておられるものは何ですか。



参考資料:
美濃部重克, 美濃部智子著:「酒呑童子絵を読む まつろわぬものの時空」, 三弥井書店, 2009
廿四世観世左近著:観世流大成版「大江山」, 檜書店, 2017
吉井勇著:「新訳絵入 伊勢物語」, 阿蘭陀書房, 1917


線│白崎秀雄「北大路魯山人」

2021-02-18 | アート・文化


 彼は素人臭くおづおづと引くやうなことがなかったのはもちろん、職人のやうに一分の乱れもなく精確に引かうとは、決してしなかった。一瞬息をつめ、力をこめてためらはず、一気に切つた。ときに歪んだりすることは、もとより意に介しない。
 そこに、とらはれぬ活きた線が生まれた。自然なリズムがあつた。時として稚拙とさへ見まがふやうなところがありながら、あやまたず雅致を生み、芸術たることを示してゐた。
 想へば、それは彼の書における線の引き方に、源を発し、基盤をもつてゐた。彼の篆刻・扁額に通じ、絵に通じ、料理における包丁の入れ方にも通じてゐた、といへよう。


(白崎秀雄著:「新版 北大路魯山人 下」, p200, 新潮社, 1985)

老松を讃える

2021-02-15 | アート・文化

木版画・明治40年/乾山・銹絵染付金銀白彩松波文蓋物(出光美術館蔵)写

知人が本日お届け下さった銘菓の掛紙に「われみても ひさしくなりぬ すみのえの きしのひめまつ いくよへぬらん」の歌が記されていた。『古今和歌集』(巻第十七、雑歌上 読人知らず)に収載された歌である。『伊勢物語』(第百十七段)、『和漢朗詠集』(巻下・松)では住吉の岸の姫松と詠われている。

我見ても久しくなりぬ住の江の岸の姫松いく世経ぬらむ
(小沢正夫, 松田成穂校注・訳:日本古典文学全集11「古今和歌集」, p343, 小学館, 1994)

われみても久しくなりぬ住吉のきしの姫松いくよへぬらむ
(川口久雄, 志田延義校注:日本古典文学大系73「和漢朗詠集 梁塵秘抄」, p158, 岩波書店, 和漢朗詠集, 1974)

むかし、みかど、住吉に御幸したまひけり。
  我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松いくよへぬらむ
おほん神、現形し給ひて、
  むつましと君は白浪瑞垣の久しき世よりいはひそめてき
(大津有一校注:岩波文庫「伊勢物語」, p74, 岩波書店, 1994)


木版画・明治26年

古都に椿咲く

2021-02-14 | アート・文化

糊こぼし  菓子切・初音



   三日に、守大伴宿禰家持が館にして宴する歌三首の内
奥山の 八つ峰の椿 つばらかに 今日は暮らさね ますらをの伴
     万葉集・巻第十一 大伴家持




待賢門院│辻邦生「西行花伝」

2021-02-12 | アート・文化


 女院は、陽気で、単純で、好き嫌いがはっきりしていた。熱中家で、何にでも夢中になるが、どれも長続きはしなかった。決して物がよく見える方でもなかったし、筝も笙も上手ではなかった。歌は得意とはなされず、書もお好きではなかった。堀河、兵衛、大夫典侍、土佐、遠江内侍殿などのように聡明で、歌もうまく、実務の才にも恵まれていた女房たちと較べて、とくにこれといって傑出した女性ではなかった。むしろ凡庸な女性と言ったほうがよかったかもしれない。
 しかし女院をこうした才女たちのそばに並べると、誰もが女院の身体のまわりに、何か薄紅色の靄のようなものが立ちこめているのを感じるのであった。それは学んで得られるものではなく、努めても身につくものではなかった。堀河殿は「女の精」と言っていたし、物事を慎重に話す但馬殿でさえ「あの御方は女として生れてこられ、女としてしか生きてこられなかった」と言ったのである。

(八の帖│辻邦生著「西行花伝」, p187, 新潮社, 1995)