花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

田辺聖子著「花衣ぬぐやまつわる わが愛の杉田久女」

2019-06-14 | 日記・エッセイ


おせいさんこと女流作家、田辺聖子女史が逝去なさった。芥川賞受賞の『感傷旅行』を始め、古典文学から現代風俗小説まで、幅広い領域にわたった数多くの著作が知られている。私は内なる蓄えが決定的に不足していた若い頃、仁恕溢れる御心の眼が光る御本の中で様々な人生を追体験させて頂き、人の心の機微とはかくなるものかと、世の人の数だけ異なった思いを携えた行路があることを学んだ。改めて書棚に並べた御本を紐解けば、ついに一度も御目にかかる機会がなかったのに、あれからあなた自身は何を経験したの、そして今は何を思い考えているのと、天の高みから優しく尋ねて下さる声が聞こえてくる気がする。

『花衣ぬぐやまつわる-----わが愛の杉田久女』は、近代の女流俳人、杉田久女の波乱万丈の生涯を描いた女流文学賞受賞作品である。克明に記された『杉田久女句集』出版に関する紆余曲折の経緯は、初めて拝読した時から私の心に重く澱の様に沈殿している。「わが愛の」とタイトルにあるように、田辺聖子女史は熱烈なサポーターとして杉田久女に深く共感をお寄せになり、そして透徹した眼と筆力を駆使しブレインとして一大論陣をお張りになっている。以て瞑すべし、彼の御方はいまや憂き世の此岸を解脱した処においでなのだろう。本書ほど心尽くしの香華はない。

本書で開陳される俳諧の師と弟子の有様は、表現型が異なるとも等しく熱く激しい。元来気虚体質の私などは、噴出するマグマに当てられへたりそうであった。今ふと軒下の幽かな涼風に揺れる釣り忍が脳裏を横切ったが、この風情の様な俳人のイメージを浮かべたならば、恐らく殆どが的はずれである。十七文字に磨き上げるべく絶え間なく余剰を截断する行動様式は、胡乱な遅疑逡巡とは敢然と袂を分かっている。その果断で峻烈な精神なくして斯界の道は究められぬものなのだろう。
 昨年ようやく入手した昭和27年刊行の『杉田久女句集』は、片掌に載るほどの華奢で繊細な装丁の句集である。薄幸な最期から時を経て悲願の刊行が果たされる迄、実に六年の時を要している。

参考資料:
田辺聖子:「花衣ぬぐやまつわる わが愛の杉田久女」, 集英社, 1987
杉田久女:「杉田久女句集」, 角川書店, 1952



有吉佐和子著「華岡青洲の妻」

2019-06-09 | 日記・エッセイ


『華岡青洲の妻』を初版本で読んだのは小学生の頃である。見て見ぬふりでお母さんや奧さんを競わせて漁夫の利を得ようとする、まことに卑怯なお医者さんやと大いに義憤にかられた。刊行後まもなくTVドラマ化された映像を、熱心に毎週かかさずに観た子供は一層その意を強くした。最近、懐かしく思い立って書棚を探したが何処にも見当たらず、これもまた駅前再開発に伴う移転に際して散佚した本のひとつらしい。
 小説で初めて御名を知りはや半世紀が過ぎた。業界の遥か下流の末席に連なり巨星の偉大な業績を知り、のみならず帰耆建中湯に関連した論文を書く機会を得た。後世の泡沫の如き取るに足らぬ身に、かくなる御縁を賜ったことをしみじみ有難いと思う。

錦木(にしきぎ)を生ける│大和未生流の稽古

2019-06-08 | アート・文化
大和未生流、水無月の研究会が先日、奈良市内で開催された。研究会の冒頭に慶事があり、この令和元年春の栄誉に浴された須山御家元に、門下生一同が心より御祝いを申し上げた。
 今月の主題は流派の伝統ある基本型の立姿三本生けであった。花材は緑葉が瑞々しい錦木である。うち揃って取り組んだ後に御講評を賜って散会となり、帰宅後に大切に包んで持って帰った錦木を生け直した。同じ花材を用いても、改めて生け直すとまた風姿が変わる。生けた後も花の前を通るたびに立止り思案している。



いまだ畿内は梅雨入りに至らないが、気候はすでに盛夏に劣らない。この時期のいけばなは色数を少なくして、むしろ緑一色のいけばなが清々しく思える。いずれ庭師さんに取り払われるであろう庭に伸び放題の竹や、今盛りの下野草(しもつけそう)を余った錦木に様々に取り合わせてみた。
 照葉の錦木は葉の色合いが微妙に異なり役枝に変化をつけやすい。しかし錦木に限らず、紅葉した葉は生けた後から萎んだり脱落することがある。一方、芽吹きを過ぎた時期の錦木は丈夫な緑葉であるが、葉を残し過ぎれば深い緑が重複して暑苦しい風体になる。今更ながら、同じ花材であっても紅葉と緑葉では異なる取り組み方が必要と痛感した。