花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

松竹水聲涼 其の二│チャールズ・スタッキー「モネ 睡蓮」

2018-07-29 | 日記・エッセイ


「あるとき、《睡蓮》の主題を装飾的に使ってみたいという誘惑にかられた。室内全体が壁の長さいっぱいに広がる睡蓮のみで包み込まれ、そこに終わりのない全体、水平性も岸もない水面の幻影が生まれる。心落ち着く静かな水を眺めることは疲れ切った神経を休め、だれにせよそこに生きる者にとっては、花に埋もれた水槽の中で平和な瞑想に浸る避難所ができあがるだろう。」
(モネの《睡蓮》│「モネ 睡蓮」, p18)



気象庁は本年の猛暑を「災害と認識」との見解を示す異例の記者会見を開いた。大暑をはるかに凌ぐ酷暑が日本を焼き尽くした次は、列島を西進する異例のコースをとる台風12号が西日本を蹂躙している。第二弾・松竹水聲涼は画集『モネ 睡蓮』を取上げて、せめて風水面に来る時の清意と参りたい。本書はオランジュリー美術館壁面を飾るモネの「睡蓮」連作や数多くの各地の関連作品が収録され、広げれば折りたたまれた長さが1mを越える紙面で作品を拝することができる。冒頭はモネ自身の言葉で、以下に続くのは本画集のモネ論からの一節である。

「日本のやりかたのように、《睡蓮》は自然の断片によって、全体を包み込むようなさらに広い空間を暗示している。この意味でモネの作品の根本には、彼のよき先導者であったエドゥアール・マネの《フォリー・ベルジェールの酒場》(1881-82)がある。視界の外にあるものが、背景の鏡によって視界に入る場所に移されているのである。《睡蓮》にみられる鏡に映したような上下逆さのイメージと上下が正しいイメージの二重の共存は、祈りが思想を超えるように、<上><下><前><後>などの通常の空間的な限定を超越して、見る者の視覚を二重の意味で意識させるのである。」
(モネの《睡蓮》│「モネ 睡蓮」, p18)

訳者の美術史学者、高階秀爾名誉教授は、著書『日本美術を見る眼』、枝垂れモティーフの章で、《睡蓮》展に寄せられた批評に対するモネの反論の言辞、「作品の源泉をどうしても知りたいというなら、そのひとつとして、昔の日本人たちと結びつけてほしい。彼らの稀に見る洗練された趣味は、いつも私を魅了してきた。影によって存在を、部分によってその全体を暗示するその美学は、私の意にかなった-----。」を提示され、「モネが的確に見抜いたように「部分によって全体を暗示する」というやり方は、日本美術の大きな特色である。」と、ジャポニスムが西洋にもたらした美学に関する詳細な論説を述べておられる。

ところで先の「自然の断片」という言葉に些か抵抗を感じたのは、私が日本人であるからか。果たして「部分」は「全体」から切り取られた断片か、全体集合に含まれる部分集合(下位集合)か。事によると「部分によって全体を暗示する」というやり方の理解が、東洋と西洋では些か異なるのかもしれない。「部分」はあるがままの自然の美の一部に注目して取り出された部分(fragment)ではなく、縮小図(miniature)でもない。東洋の「部分」には「全体」がそのままに顕露する。そして「部分」が生起する過程に連動して、「全体」は限定された枠を超えてゆく。生け花で言うならば、「部分」がかきつばたの作品とすれば「全体」は何と捉えるべきだろう。初めに想起されるのが仮に太田神社や小堤西池のかきつばたであるならば、次には何処か群れ咲くかきつばた、さらには永遠の花、生きとし生けるもの、あるいは遥かにこれらを越えたものに対応するかもしれない。いまだ私が至れぬままの、華道大和未生流で斯くあるべしと御示唆いただいた生け花はそのような花である。興味深いことに、東西医学における「部分」と「全体」の捉え方にも、東西美術の絵画観において指摘される差異と似通った点がある。

参考資料:
チャールズ・スタッキー著, 高階秀爾・松本絵里加訳:「モネ 睡蓮」, 中央公論社, 1988
高階秀爾著:「日本美術を見る眼」, 岩波書店, 1991

夏期特別講習会2018「流派の生け花の方法」│大和未生流の花

2018-07-16 | アート・文化


大和未生流の夏期特別講習会が、7月8日、奈良春日野国際フォーラム 甍~I・RA・KA~本館で開催された。午前の部は御家元の御講義、午後の部は御家元と副御家元の御指導による実技講習が恒例である。本年の御講義「大和未生流の生け花の方法について」は、当代が夏期講習会をお始めになった原点の御趣意からお話が始まった。日々の研究会や稽古とはまた展開が異なる、日本美術を見る眼を養い生け花の背景となる幅広い教養を培う為の会であることは今も変わりはない。生け花の技法(挿法)は単なる様式ではなく流派の思想である。初代から当代に至る大和未生流が森羅万象の自然をどのように受け止めてきたかという、流派の眼を表わすマニフェストである。

本講では、「檜図屏風」(狩野永徳)、「紅白梅図屏風」(尾形光琳)、「燕子花図屏風」(同)、「夏秋草図屏風」(酒井抱一)、「松林図屏風」(長谷川等伯)などの数々の障屏画(しょうへいが)を紐解かれ、画の中で余るもの被さるものを切り捨て、中心となる主題(本質)を浮き彫りにするのが日本美術に共通する習俗であり表現様式であること、さらにこの本質の観照、余剰の省略の過程において、西洋画では塗り残した空白とされる画中の「余白」に余韻という意義を与えたことを御講義になった。
 自然美を作品に表現するとは、自然界の対象をそのままトレースする「自然の再現」ではない。それは視覚を含む五感を総動員して掴んだ感動を造形化することである。その作者が何に魂を揺り動かされたか。観る者は作品を通して作者の感動を追体験する。そしてその時、鑑賞者もまたおのれの内なる全ての力を試される。

午後からの実技演習は、臙脂色の菊三本を用いた一種生けの後人投入であった。各地から参集した門下生一同が稽古に励み、最後に御家元の講評を拝聴して実り多い夏期講習会は散会となった。旧奈良新公会堂の外に出れば、西日本に甚大な被害をもたらした豪雨から一転、緑深い春日原生林と若草山の上に雨過天晴の夏空が広がっていた。これからも日本各地で暑湿の酷暑が続くに違いない。帰宅後はお教え頂いたことを振り返り、床の間に水切りで生気を取り戻した菊を生け直した。講習会で使う花器は毎年、御家元が現地に出向かれ監修なさっている御会心の器である。本年の花器は砂金袋水指に似た形の信楽焼で、けうとき物の対極にある一色の釉調である。やや大きい口に満々と水を張れば、当方の技の拙さを補ってくれる涼味が溢れた。



最後に、本講習会で御提示になった朝顔の茶の湯の逸話、岡倉天心著『茶の本』、第六章「花」の一節を、続いて『茶話指月集』におけるくだりを記し置きたい。一輪の朝顔は群れ咲く中から断片的に切り取られただけの花ではない。其の一輪はいわば影向(ようごう)の朝顔である。

「花物語は尽きないが、もう一つだけ語ることにしよう。十六世紀には、朝顔はまだわれわれに珍しかった。利休は庭全体にそれを植えさせて、丹精こめて培養した。利休の朝顔の名が太閤のお耳に達すると太閤はそれを見たいと仰せいだされた。そこで利休はわが家の朝の茶の湯へお招きをした。その日になって太閤は庭じゅうを歩いてごらんになったが、どこを見ても朝顔のあとかたも見えなかった。地面は平らかにして美しい小石や砂がまいてあった。その暴君はむっとした様子で茶室へはいった。しかしそこにはみごとなものが待っていて彼のきげんは全くなおって来た。床の間には宋細工の珍しい青銅の器に、全庭園の女王である一輪の朝顔があった。」
(岡倉覚三著, 村岡博訳:岩波文庫「茶の本」, p89, 岩波書店, 1991)

Flower stories are endless. We shall recount but one more. In the sixteenth century the morning-glory was as yet a rare plant with us. Rikiu had an entire garden planted with it, which he cultivated with assiduous care. The fame of his convolvuli reached the ear of the Taiko, and he expressed a desire to see them, in consequence of which Rikiu invited him to a morning tea at his house. On the appointed day Taiko walked through the garden, but nowhere could he see any vestige of the convolvulus. The ground had been leveled and strewn with fine pebbles and sand. With sullen anger the despot entered the tea-room, but a sight waited him there which completely restored his humour. On the Tokonoma, in a rare bronze of Sung workmanship, lay a single morning-glory—the queen of the whole garden!
(岡倉天心著:「茶の本 The Book of Tea」, p185, 講談社, 1998)

「宗易、庭に牽牛花(あさがほ)みことにさきたるよし太閤へ申上る人あり、さらは御覧せんとて、朝の茶湯に渡御ありしに、朝かほ庭に一枚もなし
尤無興におほしめす、扨、小座敷御入れあれハ、色あさやかなる一輪床にいけたり、太閤をはしめ、召しつれられし人々、目さむる心ちし玉ひ、はなハた御褒美にあつかる、是を世に利休かあさかほの茶湯と申傳ふ」
(谷端昭夫著:「茶話指月集を読む 宗旦が語るわび茶の逸話集」, p87-88, 淡交社, 2002)

はたまた西洋医学と漢方医学

2018-07-07 | 日記・エッセイ


各地の漢方の講演会や研究会に出席して、局所しか見ていない、全身を診ていないと耳鼻咽喉科が引き合いに出されることがある。各領域の西洋医学の専門医が手を施せなかった病態を一刀両断に切り分けて治癒に導いたという御講演において、守備範囲の領域しか見ていないと槍玉に挙げられるのは耳鼻咽喉科だけに限らない。西洋医学的診断治療をお受けになったが、改善なく当方に来られた患者さんですという症例報告において、名前が知られずとも俎上に載せられている先医の西洋医に同情を禁じ得ない。講演を傾聴して「漢方医」として大いに得て学ぶところがある。他方、「西洋医(耳鼻咽喉科医)」としては複雑な思いを抱いて帰宅の途を辿ることになる。

頭頸部領域にこだわり、処置や手術をも含む西洋医学的治療が功を奏する病態はないかと診察を進めるのが、耳鼻咽喉科医の定石である。いかに日常診療で遺漏なく局所を見極めるか。言うまでもなく全身の把握は大切である。だが守備範囲の検索を怠れば耳鼻咽喉科医としては失格である。仮に耳閉感に対し耳鼻咽喉科医が耳内所見をとらず、聴力検査の一つも行わず、気鬱、湿熱、少陽胆経などから事を始めることはない。ならば腹痛に他科の担当医師がどの様に取り組むかと考えれば、耳鼻咽喉科医が耳閉感に取り組む際と同様の定法をお取りになるに違いない。これが原則、漢方治療を行うにあたり耳鼻咽喉科領域に軸足を置く理由の一つである。

「耳鼻咽喉科医」かつ「漢方医」である二股膏薬的な立場から窺い見れば、西洋・東洋医学、両者ともに得手とする所があれば不得手とする所がある。ただ日々念じるのは、西洋医学の恩恵を外すことなく、そして漢方医学的手法をも駆使した、治癒のゴールに向けた走りを全うすることである。

あじさいを生ける│大和未生流の稽古

2018-07-05 | アート・文化


紫陽花はアジサイではない
世間一般にアジサイを紫陽花だと思っているがこれもまたトンデモナイ見当違いで、紫陽花なんてテンデ何の植物だか得体の判らぬものダ。これは白楽天の詩にあるもので、その詩は「何年植向仙壇上、早晚移栽到梵家、雖在人間人不識,与君名作紫陽花」である。そしてその註に「招賢寺有山花一樹無人知名色紫氣香芳麗可愛頗類仙物因以紫陽花名之」とある。こんなアッケナイ詩と文章とに基づきこれがアジサイでゴザルとは驚き入った盲蛇である。元来アジサイは房州・豆洲辺に自生せる額アジサイを親とする日本出の花で唐物ではない。ゆえに支那では 瑪哩花、天麻裏掛、洋繍毬といわるる。」
(そうじゃない植物三つ│「花物語」, p163-164)

  紫陽花 白居易
招賢寺有山花一樹、無人知名。色紫気香、芳麗可愛、頗類仙物。因以紫陽花名之。
招賢寺に山花一樹あり。人の名を知るもの無し。色紫にして気香ばし。芳麗愛す可く、頗る仙物に類す。因つて紫陽花を以て之を名づく。

何年植向仙壇上、早晩移栽到梵家。
雖在人閒人不識,與君名作紫陽花。

何れの年にか 仙壇の上(ほとり)に植ゑたる、早晩(いつ)か 移し栽ゑて梵家に到れる。人閒(じんかん)に在りと雖も 人識らず、君の與(ため)に名(なづ)けて 紫陽花(しやうくわ)と作(な)す。
(この花は、何時はじめて仙壇(俗界を離れた仙境)の上に植えられたのか。またこの花は、いつこの寺院に移植されたのか。この人間社会にありながら、人びとはその名も知らない。よって私は君のために紫陽花と名づけてやろう。)
(白氏文集巻二十 律詩│新釈漢文大系「白氏文集 四」, 441-442)



参考資料:
牧野富太郎著:ちくま学芸文庫「花物語 続植物記」, 筑摩書房, 2010
岡村繁著:新釈漢文大系「白氏文集 四」, 明治書院, 1990



松竹水聲涼 其の一│佐藤秀明「雨のくに」

2018-07-01 | 日記・エッセイ

佐藤秀明写真集「雨のくに」, PIE Books, 2004

「撮影が最も楽しく捗るのはやはり梅雨時の雨だろう。植物や花が水を得た魚のように生き生きとしてとてもフォトジェニックだ。そして雨も明るく温かい。そんな雨とともに古い街並みを歩くことも好きである。民家の軒下にもぐり込んで雨だれにカメラを向けるとき、ふと子供の頃、雨だれに長靴についた泥を落としたことを思いだしたりする。雨と古い街並み、妙に似合うのである。だからこの頃の京都にもよく足を運ぶ。」
(季節の雨を旅する│「雨のくに」, p94)


夏の雨 走り梅雨・はしりづゆ│「雨のくに」

ことが有るたびに心火逆上になる性で、「滅却心頭火自涼」の境地には程遠い毎日を過ごす羽目になる。外来診療では、小暑が近づきはや暑湿で体調をくずしておられる方を多くお見かけするこの頃である。ここで「松竹水聲涼」シリーズと称し、時宜にかなう写真集や本を本棚から取り出して順次掲げてみようと思う。涼風一陣となれば幸いである。
 口切の佐藤秀明写真集『雨のくに』は、一つ一つの写真に季節により異なった雅な雨の名前が冠せられている。移り変わる大自然、そして人間の営為のなかの一瞬の光と影を捉えた写真を拝する時、歩き去ったはずの、あの場所にあった懐かしい雨の匂いがする。

さて「雨に打たれる花」を生け花にいけたなら、どの様な風姿になるのだろう。花時雨、青葉雨、梅雨、夕立、秋霖や氷雨など、折々の季節に花開き旬を迎える花材を使う、という切り口は定番に終わる。花や葉に霧を吹くなどは殊更に言わずもがなである。折に触れて考えてみるが、いまだにはかばかしい結論に至っていない。