花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

石蒜(せきさん)│ヒガンバナ

2019-09-30 | 漢方の世界


石蒜はヒガンバナ科、ヒガンバナ属の多年草球根植物ヒガンバナ(彼岸花、曼殊沙華)、学名Lycoris radiata Herb.の鱗茎から得られる生薬である。鱗茎は作用の激しいアルカロイドを含有し有毒である。花期は9~10月、一本の花茎を出して数個の輪状の赤色花を咲かせる。薬性は辛、甘、温、有毒、効能は祛痰催吐、解毒散結である。ヒガンバナの季語は秋である。

毒少し秘め合うことも生きやすく彼岸花人里近く自生す   富小路禎子
花みな白し│柘榴の宿

曼殊沙華のみ眼に燃えて野分夕空し   山頭火
大正三年書簡








湊川神社に参る

2019-09-29 | 日記・エッセイ




令和元年度日本東洋医学会兵庫県部会が神戸大学で開催された。天候に恵まれ意義深い症例報告や特別講演を拝聴した帰路、楠木正成公を主祭神に祀る明治五年(1872年)創建の湊川神社を参拝した。湊川は大楠公が御一族とともに殉節を遂げられた地である。


櫻井驛 楠君決別の圖│尾形月耕 日本花圖繪 明治廿六年

  過桜井駅址   頼山陽
山碕西去桜井駅   山碕より西に去れば 桜井の駅
伝是楠公訣子処   伝うらくは是れ 楠公 子に訣れし処と
林際東指金剛山   林際 東に指せば 金剛山
堤樹依稀河内路   堤樹 依稀たり 河内の路
想見警報交奔馳   想見す 警報 交ごも奔馳し
促駆嬴羊餧獰虎   嬴羊(るいよう)を促駆して 獰虎に餧(えば)す
問耕拒奴織拒婢   耕を問うに 奴を拒み 織に婢を拒む
国論顚倒君不悟   国論 顛倒して 君 悟らず
駅門立馬臨路岐   駅門 馬を立てて 路岐に臨み
遺訓丁寧垂髻児   遺訓 丁寧なり 垂髻(すいちよう)の児
従騎粛聴皆含涙   従騎 粛として聴き 皆 涙を含み
児伏不去叱起之   児は伏して去らず 叱して之を起たしむ
西望武庫賊氛悪   西のかた武庫を望めば 賊氛(ぞくふん)悪しく
回頭幾度覩去旗   回頭 幾度か 去旗を覩(み)る
既殲全躬支傾覆   既に全躬を殲(つく)して 傾覆を支え
為君更貽一塊肉   君が為に 更に貽(のこ)す 一塊の肉
剪屠空復膏賊鋒   剪屠(せんと) 空しく復た賊鋒に膏(あぶら)するは
頗似祁山与綿竹   頗(すこぶ)る似たり 祁山(きざん)と綿竹とに
脈脈熱血灑国難   脈脈たる熱血 国難に灑(そそ)ぐ
大澱東西野草緑   大澱(おおよど)の東西 野草緑なり
雄志難継空逝水   雄志 継ぎ難く 空しく逝水(せいすい)
大鬼小鬼相望哭   大鬼 小鬼 相い望みて哭す
(入谷仙介校注:江戸詩人選集 第八巻「頼山陽 梁川星厳」, p105-111, 岩波書店, 1990)


紅花(こうか)│ベニバナ

2019-09-26 | 漢方の世界

五十四 紅花 夕錦│「四季の花」夏之部・參, 芸艸堂, 明治41年

「紅花」は、キク科、ベニバナ属の越年草ベニバナ、学名Carthamus tinctorius L.の花から得られる生薬である。活血化瘀薬に属し、薬性は辛、温、帰経は心経、肝経で、効能は活血通経、祛瘀止痛(寒性瘀血証に有効で、血を巡らせ経絡の流通を良好にして通経、止痛する。)である。妊婦、過多月経には禁忌である。方剤例には桃紅四物湯、紅花湯などがある。
 ベニバナの花期は6~7月で、最初は鮮黄色で後に紅色に変わる筒状花から成る頭花がつく。「半夏一つ咲き」は、夏至から数えて11日目の半夏生の頃に紅花畑で一つの花が咲き始める様子を称する。茎の頂に咲いた花を摘み取って採取することから別名「末摘花」となった。
(紅花とともに描かれた「夕錦」はオシロイバナの別名で、根から得られる生薬は「紫茉莉根」である。)

「最上川中流域、河北町あたりで紅花の栽培が最も盛んであったのは江戸時代。このあたりの紅花は「最上紅花」と呼ばれ、品質も生産量も日本一だったそうだ。冬至、紅花は最上川を下って酒田に運ばれ、そこから北前船で京に上ったという。最上川の運んだ土の上で、最上川の水や川霧に育てられた紅花が再び最上川に運ばれて上方へ。最上川と紅花には切っても切り離せない結びつきがあるのだ。」
(紅花の人々 山根甚世│「七月の花」, p167)

「紅花が日本に渡来したのが五世紀とされ、中国では紅藍と呼び習わされていた。紅は赤を意味し、藍は青色であるが、もっとも親しみやすく代表的な染料であったから、「藍」は染料の総称ともなっていた。したがって紅藍は紅花の選良のことで、当時の日本人は、揚子江の南にあった呉の国から渡来した染料ということで呉藍(くれあい)と発音し、それが「くれない」へと転訛したのである。」
(「日本の色辞典」, p39)

まゆはきを 俤にして 紅の花     おくの細道 芭蕉 
行すゑは 誰肌ふれむ 紅の花     西の華 

参考資料:
大岡信, 田中澄江, 塚谷裕一監修:花の名随筆七「七月の花」, 作品社, 1999
吉岡幸雄著:「日本の色辞典」, 紫紅社, 2000
中村俊定校注:岩波文庫「芭蕉俳句集」, 岩波書店, 2015
阿部秋生, 秋山虔, 今井源衛, 鈴木日出男校注・訳:日本古典文学全集「源氏物語1」, 小学館, 1994



よ之部 よもぎふ よき│尾形月耕「以呂波引 月耕漫画」一編巻三




枇把葉(びわよう)│ビワ

2019-09-23 | 漢方の世界

七十一 枇杷 かいう│「四季の花」夏之部・四, 芸艸堂, 明治41年

「枇把葉」は、バラ科、ビワ属の常緑高木であるビワ (枇杷)、学名Eriobotrya japonica (Thunb.) Lindl.の裏毛を取り除いた葉から得られる生薬である。止咳平喘薬に属し、薬性は苦、微寒、帰経は肺経、胃経で、効能は化痰止咳、降逆止嘔(肺熱、胃熱を冷まして肺気、胃気を降ろし、止咳し呼吸困難を鎮め、嘔気を止める。)である。清肺熱・胃熱の作用のために寒性咳嗽、胃寒性嘔吐には不適である。方剤例には辛夷清肺湯、和中飲などがある。
 11~1月頃に円錐花序の黄白色の花を咲かせ、初夏に琵琶の形に似た黄橙色の果実を結実する。「枇杷の花」は冬、「枇杷の実」は夏の季語である。

和中飲 本朝経験
枇把葉 霍香 縮砂 呉茱萸 桂枝 丁香 甘草 木香 莪述
右九味
 此の方は関本伯伝の家方にて傷食の套剤なり。夏月は傷食より霍乱を為す者最も多きを以つて、俗常に暑中に用ふる故に中暑の方に混ず。中暑伏熱を治するには『局方』の枇把葉散を佳とす。今俗間所用の枇杷葉湯は此の方の霍香、丁香を去り、香需、扁豆を加ふる方なり。」
(浅田宗伯著「勿誤薬室方函口訣」)


ひの部 ひあふぎ 枇杷葉湯│尾形月耕「以呂波引 月耕漫画」一編巻七

虎耳草(こじそう)│ユキノシタ

2019-09-21 | 漢方の世界

五 ゆき能した│「四季の花」夏之部・壹, 芸艸堂, 明治41年

「虎耳草」はユキノシタ科、ユキノシタ属の宿根性の半常緑多年草、学名Saxifraga stolonifera Meerb.の全草から得られる生薬である。薬性は苦、辛、寒、小毒、帰経は肺経、脾経、大腸経で、効能は疏風、清熱、凉血、解毒である。生薬の絞り汁を耳穴に詰めれば耳漏に効くと、別名「ミミダレグサ」と称して耳を治す民間薬として有名である。庭に生えているユキノシタを絞って耳に垂らしたが一向に止まらないと、かつて慢性耳漏で悩んだ挙句に受診された患者さんがおられた。外耳炎や外耳湿疹など外耳道の疾患が原因の耳漏があれば、急性中耳炎、慢性穿孔性中耳炎、真珠腫性中耳炎を含む中耳疾患に起因するものもあり、原因となる疾患は炎症性、外傷性、腫瘍性等々、多種多様である。耳鼻咽喉科学的診断・治療をお受けになる機会を外すと耳閉感や難聴が残ることがある。古来親しまれてきた薬草であっても、自家治療にはくれぐれも御注意の程を。


金絲荷葉草│多紀元悳著「廣惠濟急方」中巻・卒暴諸證・外傷之類, 東都書肆, 寛政二

月に還る│大和未生流の稽古

2019-09-19 | アート・文化

團扇畫譜

「  今はとて天の羽衣きるをりぞ君をあはれと思ひいでける
とて、壺の薬そへて、頭中将よびよせて奉らす。中将に、天人とりて伝ふ。中将とりつれば、ふと天の羽衣うち着せたてまつりつれば、翁を、「いとおしく、かなし」とおぼしつる事もうせぬ。此衣着つる人は、物思ひなく成にければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して、昇りぬ。」

(竹取物語│堀内秀晃, 秋山虔校注:新日本古典文学大系「竹取物語 伊勢物語」, p74-75, 岩波書店, 1997)

かぐや姫昇天の部分である。先にも「衣着せつる人は、心異になるなりといふ。」とかぐや姫が述べた様に、天の羽衣を纏えば此の国にあるとも地上の心は失せる。「かの都の人は、いとけうらに、老いをせずなん。思ふ事もなく侍る也。」(月の都人は、とても清らかで美しく、年を取ることなく不老不死で、思い悩むこととは無縁の住人である。)の天上の人となれば、もはや別れ行く翁への思いは毛筋ほども残ってはいない。七情(喜、怒、思、憂、悲、恐、驚)を超えた天界の非人情(不人情ではなく)は、塵界の思慮が及ぶところのものではない。「かすかになりて天つ御空の霞に紛れて失せにけり」の跡をいつまでも慕い続ける地上の慟哭だけが、今も届かぬままに富士の山巓から雲の中へとたち昇っている。



翠竹黄花│大和未生流の稽古

2019-09-16 | アート・文化


大珠慧海禅師(南岳下二世/馬祖道一法嗣)
「迷人不知法身無象應物現形。遂喚青青翠竹、總是法身、鬱鬱黄華、無非般若。黄華若是般若、般若即同無情、翠竹若是法身、法身即同草木。如人喫筍、應總喫法身也。」

迷人(めいにん)は、法身の、象(かたち)無うして、物に応じて形を現わすことを知らず。遂に、青青たる翠竹、總に是れ法身、鬱鬱たる黄華、般若に非ずということ無しと喚ぶ。黄華、若し是れ般若ならば、般若は即ち無情に同じく、翠竹、若し是れ法身ならば、法身は即ち草木に同じからん。人の筍(たかんな)を喫するが如き、応に総て法身を喫すべし。
(五灯会元・巻第三│能仁晃道:「訓読五灯会元」上巻, p282, 禅文化研究所, 2006)


竹の水揚げ│「竹庭と竹・笹」

2019-09-15 | アート・文化


農学博士の上田弘一郎・吉川勝好両先生共著の『竹庭と竹・笹』は、美しい多くの写真と共に、竹の種類、本質や特性の学術的解析から竹を生かした庭園や公共造園における利用実態、竹を巡る文化・芸術の方面まで、あらゆる知識が詰まった竹のバイブルである。本書の《竹の優れた珍しい特性(基礎知識)》の章に、末尾に全文を掲げた水揚げに関する詳細な論述がある。虚心と詠われた節間空洞に命の水を灌ぐ「節間注水」が、自然科学的な立場から“野にあるように”竹を生ける要諦である。

これまでの大和未生流華展で担当させて頂いた太い竹は、あらかじめ専門家の手によって、本書に記載された「いちばん下の節を残して、上方の節をすべて金棒でうちぬいて上方から水をいれてもよい」の処理済である。これらの経験についてはすでに報告した《竹を生ける│大和未生流の稽古》(2015/9/21)を御参照賜れば幸いである。十月初頭、開催予定の奈良華展後期に流派の一員として出瓶予定であり、再び竹をとの嬉しい御指示を頂戴して身の引き締まる思いである。

「竹の水あげは空洞と節のある竹の特技であるが、このことを知らないひとが意外に多い、応用としては、枝葉つき竹では、いけ花、七夕、室内装飾など。枝葉のついた根つきの竹では、母竹の移植(庭植え)、観賞用に短期の植えつけ(博覧会など)である。浅野二郎博士、真鍋逸平教官や筆者らは、終戦直後に竹の研究をはじめた頃にアイソトープP32による養分のうごきのしらべを行ったとき、この試験液を竹の節間空洞に注入して成果をあげることができた。
 竹は切口から水を吸いあげにくいので、竹のいけ花はできないものとして活用が阻まれている。また造園面でも母竹の移植に節間注水による応用を知らないひとが多く、竹の造園的な活用を阻む一因となっている。竹が切口から水を吸いあげにくい訳は、水を吸いあげる通路となる維管束にある数多くの道管の穴が大きく、切口からは気体は吸うても液体は吸いあげにくいからである。(「竹の生長」の項参照。)ところで節間空洞の水は、その圧力で節の維管束の道管から稈の道管を通り、緑葉の蒸散による吸引力の手助けによって吸いあげられて緑葉にいき、葉の緑を永く生き生きさせることができる。
 つぎに、生花の水上げや母竹の移植などのとき、緑葉を永もちさせるのに節間空洞への注水方法のあらましを述べよう。まず竹のいけ花に当たっては、枝葉つきの若い青竹を切りとり、適宜枝葉を間引いて稈の下方(枝下)2~3の各節間の上方に錐で小さな穴を2つならべてあける(1つは気体の出口、1つは注水口)、ついで1つの穴から注射器で水をたっぷり注入する。あるいはいちばん下の節を残して、上方の節をすべて金棒でうちぬいて上方から水をいれてもよい。のち吸水で減った水を補えば、永く緑葉を保たせることができる。竹が細くて節間に注水の水をあけにくいときには、切りとったら直ちに枝葉を適宜間引いて切口を水に浸すと、いくらか水あげされて緑葉がかなり永もちする。
 母竹を移植するに当たっては、地下茎や根が切られているので、枝葉が間引かれても根からの吸水と葉からの蒸散のバランスがとれにくく枯れやすい。このとき節間注水は効きめがある。とりわけ竹に枝葉を多くつけて植えつけと同時に美しい景観をつくりだすコツは、稈の節間空洞への注水を行なうことである。このとき注意したいのは、母竹を植え付けてから1か月くらいは新しい根が出ないので、そのあいだ減った水量をときどき注水して補うこと。葉がしおれかかってからの注水は効きめがうすいことを特記しておく。」

(9. 竹のみずあげの特技と応用-----いけ花や母竹を庭に移植の時などに活用-----│「竹庭と竹・笹」, p254)

参考資料:上田弘一郎, 吉川勝好:「竹庭と竹・笹」, ワールドグリーン出版, 1989



薮薬師│庭訓往来

2019-09-14 | 漢方の世界


『庭訓往来』(ていきんおうらい)は南北朝後期から室町初期にかけて成立した書で、一年十二カ月の往復書簡の形式をとり、一般常識や教訓を学ぶ初等教育の教本として流布した。薮医者ならぬ「藪薬師」の単語が登場するのは、疾病の治療や養生法を語る十一月の往信である。
 本書は「中層程度の武家の子弟が、寺院にのぼって児(ちご)時代をおくるおりに、あるいは家庭で教育を受けるさいに、手習う手本としてふさわしいように作られたもの」(「庭訓往来」, p323)として成立し、各月の主題は彼等の階層の生活全般に及んでいる。十一月の書状には漢方医学に関する語彙が多数包摂され、時代の中層武家の初学者に課せられた教養、学識の習得範囲は宏大であった。やがて『庭訓往来』は、「近世から明治の初年にかけては、そのいきおいを倍増させて、武士と庶民といった身分差にかかわりなく、また都市と農山漁村といった地域差もこえつつ、全国にあまねく浸透していった」(「庭訓往来」, p354)という封建的な枠組を越えた普及を示し、本邦の教育文化成立に多大な貢献を果たしている。
 このたびも薮薬師の末裔として心に期する所があり、「皆以てもって禁忌の事」のくだりの拙訳を末尾に掲げた。過ぎたるは猶及ばざるが如し、そして中央ではなく中庸が理想であり、あるべきは過不足なく均衡がとれて調和した状態である。人が陥りやすい偏った生活習慣は時世が移り変わろうとも不変である。くれぐれも御留意の程を。

「此間持病再発、又心気、腹病、虚労等更発、旁(かたがた)以て療治灸治の為に、医骨の仁を相尋ね候と雖も、藪薬師等は、間(まゝ)見へ来り候歟(か)、和気、丹波の典薬、曾(かつて)以て逢ひ難く候、施薬院の寮に然る可き仁有らば、挙達せらる可き也、針治、湯治、術治、養生の達者、殊に大切の事に候也、此辺に候輩(ともがら)は、脚気、中風、上気、頭風、荒痢、赤痢、内痔、内癄(せう)、腫物、癰疔、瘧病、咳病、疾歯(むしくひば)、瞙(まけ)等は形の如く見知り候、癲狂、癩病、傷風、傷寒、虚労等は才覚なく候、同じくは擣簁(たうし)合薬瀉薬補薬等本方に任せて、名医の加減を以て、一剤を合せ服せんと欲す、此条尤も本望也、禁好物の注文、合食禁の日記、薬殿の壁書に任せて、写し給ふ可し候、万端筆を馳難き歟、併ら面拝を期す、恐々謹言
  十一月十二日     秦の某
謹上 主計頭殿

(十一月十二日状 往信│「庭訓往来 句双紙」, p96-99)

「玉章を披(ひらひ)て、厳旨を窺ひ、御用望既に分明也、仰の如く、当道の名医は、奔走有る可き也、権(かり)に侍医の道、一流の書籍を読み明め、療養共に、名誉の達者、抜群の仁に候、但し渡唐の船久しく中絶に依て、薬種高直(かうぢき)に候の間、大薬秘薬は、斟酌の事候、和薬を用ゐられば、参す可き候、五木八草の湯治、風呂、温泉等は、指せる費(ついえ)無し、凡そ房内の過度、濁酒(ぢよくしゆ)の酩酊、睡眠(すいめん)の昏沈、形儀(ぎやうぎ)の散動、食物の飽満、所作の辛労、恋慕の労苦、長途の窮屈、旅所の疲労、閑居の朦気、愁歎の労傷、闕乏(けつぼく)の失食(しちじき)、深更の夜食、五更の空腹、塩増(えんそ)の飲水(おんずい)、浅味の熱湯、寒気の薄衣(はくえ)、炎天の重服、皆以てもって禁忌の事に候也、御意を得て、養生せらる可き也、恐々謹言
  十一月日     磯部の某」

(十一月日状 返信│「庭訓往来 句双紙」, p99-101)



雲雨の夢に惑溺する、濁酒(濃厚な味の酒)を痛飲、睡眠時間が長すぎる、身の立ち居振る舞いを乱雑にする、牛飲馬食、平素の所作にも格好をつける、寝ても覚めても面影が離れぬ恋患い、長い道中や旅先での疲労の蓄積、出不精の引きこもり、物事の度が過ぎた取り越し苦労、不摂生な生活を経て食欲減退、深夜の夜食や会食、五更(戌夜、3:00~5:00am)に至るまで空腹で過ごす、塩噌(塩と味噌)の塩水を多飲、熱湯を多飲、寒冷の時節に薄着、はたまた炎暑の時期に厚着する。以上の禁忌事項は何卒御心にお留め置きいただき、くれぐれも御養生下さいます様、謹んで御健勝をお祈り奉ります。

参考資料:
山田俊雄, 入矢義高, 早苗憲生:日本古典文学大系「庭訓往来 句双紙」, 岩波書店, 1996
石川松太郎校注:東洋文庫「庭訓往来」, 平凡社, 1973


薮醫者解│風俗文選

2019-09-12 | 漢方の世界


「世に言い広められている“薮医者”は、本来名医の称である。今で言う所の下手な医師ではない。」で始まる《薮醫者解》(やぶいしゃのかい)は、蕉門十哲の一人である森川許六編の『風俗文選』(ふうぞくもんぜん)に納められた、同じく彦根藩士の松井汶村(まついぶんそん)筆の辛辣な檄文である。養父に居た名医が藪医者の語源となったという本説にちなみ、兵庫県養父市(やぶし)では地域医療に貢献する若手医師を顕彰する「やぶ医者大賞」が実施されている。
 当院は先代の頃より庭に数種の竹を植栽しており、白露を迎えても残暑が続くこの頃、各所で青々と瑞々しい剛直な風姿を見せている。“養父”の地名が語源との一説があろうとも、古来より万人周知の表記は“薮”である。医師にとって甚だ不名誉な“薮医者”を連想する竹であるが、それでも私は真直ぐな竹が好きである。

「世に藪(やぶ)醫者と號するは、本(もと)名醫の稱にして、今いふ下手(へた)の上にはあらず。いづれの御時にか、何がしの良醫、但(たん)州養父(やぶ)といふ所に隱れて、治療をほどこし、死を起(をこ)し生に回(かへ)すものすくなからず。されば其風をしたひ、其業を習ふ輩、津々浦々にはびこり、やぶとだにいへば、病家も信をまし、藥力も飛がごとし。それより物替星移って、今は長助も長庵となり、勘太夫は勘益となる。當時の藪達を見るに、先(まづ)門口に底抜の駕乗物をつるし、竹格子に賣薬の看板をかけて、文字の紺青も、半ば兀(はげ)たり。たまさかの薬取を頼みて、薬店にはしらせ、物申(ものもう)は暖簾の内に答えて、女房の顔をつゝむ。町役には牢舎を療じ、薬代にめでゝは、にのます。牛膝には牛の膝を尋ね、鶴虱は鶴のしらみをさがす。薬のみも次第にかれて、胃の氣よわり、元氣衰へて、果は何がし村の道場の明をまつ。我俳諧の道もこれを押ば、師説にいまだとほからざるに、其手筋を失ひながら、宗匠めくをみるに、今はやるゝ紗綾ちりめんの、薬物の中もおぼつかなく、緋衣(ひえ)木蘭色(もくらんしき)のさとりの拂子(ほつす)も、心許なけれど佛法には薬毒の気遣なければ、其分なるべし。たゞ藪医者のやぶはらに、又出る竹の子も、藪とならむこそうるさけれ。」
(巻之四・解類「薮醫者解」│「風俗文選」, p83)

薬師の末裔として蛇足の説明を加える。「牛膝」(ごしつ)は、ヒユ科イノコヅチ属の多年草イノコズチ、学名Achyranthes japonica (Miq.) Nakaiの根から得られる、活血化瘀薬に属する生薬である。薬性は苦、甘、酸、平、帰経は肝経、腎系で、効能は補肝腎、強筋骨、利水通淋、引血引火下行(肝腎を補って血を巡らせ、筋骨を強めて関節運動を潤滑にある。尿を下に導き尿路疾患を改善する。血を下降させる、上昇した火熱を下に導いて降ろす。)である。
 また「鶴虱」(かくしつ)は、キク科ヤブタバコ属の多年草ヤブタバコ(藪煙草)、学名Carpesium abrotanoides L.の成熟果実から得られる、駆虫薬に属する生薬である。薬性は苦、辛、平、帰経は脾経、胃系で、効能は殺虫消積(腸寄生虫を殺虫、排泄し、腹痛や腹脹などの腹部症状を改善する。)である。ヤブタバコの全草から得られる生薬は「天明精」(てんめいせい)で、薬性は苦、辛、寒、帰経は肝経、肺系で、効能は清熱化痰、解毒殺虫、破瘀止血(肺熱を冷まし、痰を除去する。腸寄生虫を殺虫、排泄する。血を巡らせ瘀血を除き止血する。)である。

参考資料:伊藤松宇校訂:岩波文庫「風俗文選」, 岩波書店, 1997)