華岡青洲先生(1760-1835)は、紀伊の国に御誕生、漢方を学んだ後にオランダ式外科学を習得され、実証を重んじ東西医学を縦横に駆使なさった希代の大医人である。1804年に、麻酔薬、通仙散を創薬され、世界初の全身麻酔下の乳癌手術を執刀された。古代中国の華陀が用いたとされる麻沸散は曼陀羅華(マンダラゲ、洋金花)の配合以外の実態が不明であったが、様々な困難を乗り越えて通仙散を完成なさったのである。通仙散にはマンダラゲの他、ウズ、トウキ、センキュウ、ビャクシ、テンナンショウなどの配合が工夫されている。青洲先生の徳を偲んで、日本麻酔科学会のシンボルマークの意匠は曼陀羅華の花である。写真は父が残した学会参加記念の文鎮で、表に曼陀羅華、裏面の字はすでに磨滅して判読不能である。果たして何処の学会であったのか。
竹屋蕭然烏雀喧 竹屋蕭然として烏雀喧すし
風光自適臥寒村 風光自から寒村に臥すに適す
唯思起死回生術 唯思う起死回生の術
何望軽裘肥馬門 何ぞ軽裘肥馬の門を望まん
この七言絶句は、医塾、春林軒で育成した門下生が世に巣立つにあたり、青洲先生がお与えになった訓である。後代の木っ端医者として感服する事の一つは、漢詩の作法などは医師である前に、いや医師であるなら当然身に着けておくべきものであったであろう時代の、教養人としても一流の青洲先生のたたずまいである。論語、雍也に「子華、斉に使いす。冉子、其の母の為に粟を請う。子の曰わく、これに釜を与えよ。(中略)子の曰わく、赤の斉に適くや、肥馬に乗りて軽裘を衣たり。吾れこれを聞く、君子は急を周うて富めるに継がずと。」という一節がある。軽裘肥馬は軽い毛ごろもと肥えた馬を意味し、セレブ御用達の衣装と高級車というステータス・シンボルであり、竹屋や寒村で表現される清貧とは対極の様子を示している。「君子は急を周(すく)うて富めるに継がず」に至る一節の意を踏まえたならば、「医師ならば対応せねばならぬ急とは何か」を深く考えよという意味をも結句に込めておられるのではないだろうか。急とはなんぞや。重篤な状況においては唯思う起死回生の術が必要とされる急務であり、様々な病に苦しみ窮する人がおられる限りその現場に急務があるということを心せよ、という餞の檄であったに違いない。
竹屋蕭然烏雀喧 竹屋蕭然として烏雀喧すし
風光自適臥寒村 風光自から寒村に臥すに適す
唯思起死回生術 唯思う起死回生の術
何望軽裘肥馬門 何ぞ軽裘肥馬の門を望まん
この七言絶句は、医塾、春林軒で育成した門下生が世に巣立つにあたり、青洲先生がお与えになった訓である。後代の木っ端医者として感服する事の一つは、漢詩の作法などは医師である前に、いや医師であるなら当然身に着けておくべきものであったであろう時代の、教養人としても一流の青洲先生のたたずまいである。論語、雍也に「子華、斉に使いす。冉子、其の母の為に粟を請う。子の曰わく、これに釜を与えよ。(中略)子の曰わく、赤の斉に適くや、肥馬に乗りて軽裘を衣たり。吾れこれを聞く、君子は急を周うて富めるに継がずと。」という一節がある。軽裘肥馬は軽い毛ごろもと肥えた馬を意味し、セレブ御用達の衣装と高級車というステータス・シンボルであり、竹屋や寒村で表現される清貧とは対極の様子を示している。「君子は急を周(すく)うて富めるに継がず」に至る一節の意を踏まえたならば、「医師ならば対応せねばならぬ急とは何か」を深く考えよという意味をも結句に込めておられるのではないだろうか。急とはなんぞや。重篤な状況においては唯思う起死回生の術が必要とされる急務であり、様々な病に苦しみ窮する人がおられる限りその現場に急務があるということを心せよ、という餞の檄であったに違いない。