花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

翠緑を生ける│大和未生流の稽古

2019-07-30 | アート・文化
  大神宮に奉りし夏の詩の中に     太上天皇
山里の峰の雨雲と絶えして夕べ涼しき真木の下露
       新古今和歌集・巻第三 夏歌・279

  題知らず     寂蓮法師
寂しさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮
       新古今和歌集・巻第四 秋歌上・361

  五十首歌奉りし時     寂蓮法師
村雨の露もまだ干ぬ槙の葉に霧たちのぼる秋の夕暮
       新古今和歌集・巻第五 秋歌下・491



野中郁次郎・山口一郎「直観の経営」│暗黙知と形式知

2019-07-28 | アート・文化


先月の第70回日本東洋医学会学術総会のテーマは「伝統の継承と近未来へのチャレンジ」で、特別講演1は知的創造理論の世界的権威、野中郁次郎一橋大学名誉教授の「暗黙知と形式知」であった。本書は現象学の泰山北斗、山口一郎東洋大学名誉教授と共同執筆なさった最新刊である。第一部(第1~7章)なぜ現象学はすごいのか(山口)、第二部(第8~12章)現象学的経営学の本質(野中)で構成されている。

はじめに「暗黙知と形式知」の定義を以下の引用で再確認したい。氷山のメタファー(隠喩)を用いて、水面下に沈んでいる何倍も大きい塊が「暗黙知」(tacit knowledge)、目に見える水面より上の部分が「形式知」(explicit knowledge)であるとの提示があった。
「暗黙知とは、言語や文章で放言し難い主観的・身体的な経験知であり、特定の文脈ごとの経験の反復によって個人に体化される認知スキル(信念創造、メンタル・モデル、直観、ひらめきなど)や、身体スキル(熟練、ノウハウなど)を含んでいます。これに対し形式知は、特定の文脈に依存しない一般的な言葉や論理(理論モデル、物語、図表、文章、マニュアルなど)で表現された概念知です。」
(第8章 SECIモデル-----主観と客観の循環から知識は生まれる│「直観の経営」,p205)

「暗黙知」と「形式知」の相互変換から生まれる集合的知識創造のプロセスモデルとして提唱されているのが《SECIモデル》である。
共同化(Socialization)共感、暗黙知から暗黙知へ:他者との共通の直接体験を通じて「暗黙知」を共有、蓄積する
表出化(Externalization)概念、暗黙知から形式知へ:限定集団で共有した「暗黙知」を「形式知」に変換し、集団の知として発展させる。
連結化(Combination)理論、形式知から形式知へ:集団知となった言語や概念を組織レベルで体系化、構造化する。
内面化(Internalization)実践、形式知から暗黙知へ:共有化された組織レベルの「形式知」を個人が実践し、「動きながら考える」ことにより新たな「暗黙知」を創造する。

「SECIモデルスパイラルと実践知の高速回転は、この「より善い」を無限に追求しています。これは上位の目的に向かう上昇運動と、その目的実践のための多様な手段を考える下降運動が、一気に駆動し、目的と手段の階層構造が一気に広がるプラグマティスムの目的変換と同じ構造です。同時に部分と全体を往復する暗黙的知り方と同様の動きです。」
(第12章 本質直観の経営学-----現象学と経営学が共創する動的経営論│「直観の経営」,p345)

4つのphaseから構成される知識創造のプロセスは一循環で完結するのではなく、新たな知、価値、関係性を生み出す無限のスパイラルを引き起こす。特別講演では、様々な領域の企業組織における実践モデルが提示され、「自分で自分をつくりあげる生命体」としての組織の未来展望が紹介された。講演抄録は以下の含蓄ある御言葉で締められている。

「未来を想像し創造する力は、人間にしかない。多様で複雑で予測不可能な世界だからこそ、臨機応変に行動する柔軟な対応力をもつ人間が主体的かつ創造的にかかわっていくことが重要になるのだ。AIなどののテクノロジーがもてはやされる時代こそ、人間の倫理観や責任感、美意識、やり抜く力、根性などの「生き方」が、価値創造の基盤になる。目的をもち、状況に即応し、新たな意味や物語を紡ぎ出してやり抜く主体は我々人間であり続けるだろう。今こそ「世のため人のため」という理想を掲げ、現場の只中で新しい価値を生み出すことに、泥くさくしつこく挑戦し続けていこうではないか。」
(第70回日本東洋医学会学術総会 講演要旨集│日本東洋医学雑誌70, p75, 2019)

参考資料:
野中郁次郎・山口一郎著:「直観の経営 「共通の哲学」で読み解く動態経営論」, 株式会社KADOKAWA, 2019
野中郁次郎・竹内弘高著, 梅本勝博訳:「知識創造企業」, 東洋経済新聞社, 1996
マイケル・ポランニー著, 高橋勇夫訳:「暗黙知の次元」, 筑摩書房, 2003
寺澤捷年著:「吉益東洞の研究 日本漢方創造の思想」, 岩波書店, 2012


「Mapplethorpe Flora:The Complete Flowers」

2019-07-27 | アート・文化

Mapplethorpe Flora:The Complete Flowers, Book Depository, 2016

20世紀アメリカにおける伝説的な写真家、Robert Mapplethorpe(ロバート・メイプルソープ)の花を被写体にした全作品を集めた写真集である。本年は早世したメイプルソープの没後30年にあたる。写真集に納められたのは薔薇、蘭、チューリップ、アイリス、カラーなどの国が違うとも日常卑近の花である。花器に挿した花もあるが、日本のいけばなとはもちろん無縁である。枝から伸びた茎や葉、花弁、萼や蕊が見せる直線と曲線、光と影が交錯する相(すがた)には、凡情凡慮を超えた花の裸形があらわれている。

折に触れて彼方此方で眼にする花は絶えず季節の衣を纏っている。各流派によって温度差があるも、融冶の春、蒼翠の夏、明浄の秋から惨淡の冬まで、いけばなの花は季節を抜きに語れない。これら季節の留金を外して解き放てば、花はどのような変貌を遂げるのだろう。何処までも花でありながら、しかも尋常の花ではない何かに変容してゆく危うい境界の縁に立っている。本書を紐解く度にそのような白昼夢の世界に迷い込む。

松竹水聲涼 其の三│太田昌子「座敷からつづく海 松島図屏風」~荒磯と州浜

2019-07-25 | 日記・エッセイ


事挙げすればさらに暑いが、暑熱に立ち向かうべく、昨年に続いて令和元年「松竹水聲涼」第三弾である。梅雨が開けてひたすら暑い本格的な夏が到来した。近年の命を脅かす酷暑は我執を捨て内心を調えてもどうにかなるレベルではない。くれぐれも熱中症予防に御留意を。
 『俵屋宗達筆 松島図屏風-----座敷からつづく海』は、絵は語るシリーズ全十二巻の六巻目で、金沢湯涌夢二館館長、金沢美術工芸大学名誉教授、太田昌子先生が1995年に上梓された御本である。フリーヤ美術館蔵、俵屋宗達筆「松島図屏風」を名所松島の絵とだけ見てよいのだろうか、という問題提議に始まり、描かれた二つのキー・イメージ「荒磯」と「州浜」が日本の「海」を象徴すること、そして「海」といえば想起されるこれらの図像が深層の「イメージ・マップ」として民族の集団的想像力の領野につねに存在し続けていることなどの論述が、数多くの資料を引いて精力的に展開する。共有される「イメージ・マップ」は、個人の経験を超え無意識の深層に存在するとユングが喝破した「集合的無意識」の概念と重なる。

以下は本書に引用された『作庭記』における一節で、最も庭園の完成された様式とされる「大海の様式」である。『作庭記』の作者にとって、庭園とは海に囲まれた日本人が海への思いを地上の一角に象徴的に構成したものに他ならないとの論述が続く。
「6,石をたつるにハやうやうあるべし
大海のやう、大河のやう、山河のやう、沼池のやう、葦手のやう等なり
一、大海様ハ、先あらいそのありさまを、たつべきなり。そのあらいそハ、きしのほとりにはしたなくさきいでたる石どもをたてて、みぎハをとこねになして、たちいでたる石、あまたおきざまへたてわたして、はなれいでたる石も、せうせうあるべし。これハミな浪のきびしくかくるところにて、あらひいだせるすがたなるべし。さて所々に洲崎白はまみえわたりて、松などあらしむべきなり。」

(「作庭記」, p13)
大海の姿、大河の姿、山河の姿、沼地の姿、蘆手の姿などである。
「大海様の石立ては、何はさておき、荒磯の情景に石立てをすべきである。荒磯というのは-----波の当たる前方だけが、中途半端に洗い出されている石を岸辺に立てる、そして、波うち際の岩床から立ち上がっている部分が波間から顔を出している石も、たくさん沖の方へ立て続けて、さらに岸近くにあるそれらの石とは離れて波間に顔を出している石も多少はある-----そのような情景なのであるが、これらはすべて波がはげしくかかる所であるため、洗い出されて生じた形状である。そうして所々に、洲崎や白砂の浜が広がっていて、松などが生えているのがよい。」

(「図解 庭師が読み解く作庭記・山水并野形図」, p40-41)




フリーヤ美術館蔵、俵屋宗達筆「松島図屏風」│『俵屋宗達筆 松島図屏風-----座敷からつづく海』に収載

「一視野の画面」は著者御提唱の言葉で、一度に自然に視野にはいる範囲を示している。全体が一目で視野に入る、額に入ったタブロー画を主とする近代絵画とは絵の見方、関わり方が屏風絵においては異なる点が強調されている。すなわち元来、座敷に立てて座して眺める「松島図屏風」のような屏風絵においては、ある瞬間に「一視野の画面」を注視していても同時に全体を視野の外延として感じていること、視線および身体はつねに動いて、順次、部分と部分(「一視野の画面」と別の「一視野の画面」)あるいは部分と全体を動的な関係に見ているのだ、との興味深い御指摘があった。このことは一つの屏風絵の中に四季の花木や景物を並べて描く画面構成に対峙する時も同様であろう。
 思えばいけばな展において、会場の作品群の前を歩きながら、一つの作品の前に立ち止まり、接近してまた遠ざかり、また右方向や左方向から眺める際の、身体感覚全てを動員して鑑賞する体験と類似する。芸術とは全く無縁の学会における口演発表にても、同時に一つのスライドしか提示できなくとも(今思うに、むしろ「一視野の画面」が移り変わることが効果的なのかもしれない)、順繰りの一連のスライド構成を通して、いかに主題の理論構造を「イメージ・マップ」として抱いてもらえるかどうかが鍵である。

さらに本書では、屏風絵の画題論争に端を発し、さらに他の絵画作品であっても、現代人が犯しやすい過ちとして三つの点が挙げられていた。第一に、自分の関心に合わせて(恣意的に)特定の意味を深読みすること、第二に、作品のみを切り取って(全体構造を見ずに)写真図版的構図論のような理論に陥ること、第三に、その時代にどのように(文化的、宗教的に)受容されていたかを無視することの三点が指摘されている。私など特に領域外の書を読む時にはこれら全てをやらかしている気がする。

最後になるが、川や海など土砂が水面から盛り上がった所を「洲(洲)」、この洲が大きくなった海岸の海辺を「州浜(洲浜)」と称し、庭園の水際に敷き詰めた玉石、小石を同様に「州浜」と呼ぶことが、『日本庭園と風景』(園池と風景│p16)で『万葉集』海上潟(うなかみがた)の歌とともに紹介されている。「夏麻(なつそ)引く」は海上潟の枕詞、歌の意味は、海上潟の沖の砂州に鳥は群がり騒ぐが、あなたは訪れてもくださらぬである。

 夏麻引く 海上潟の 沖つ洲に 鳥はすだけど 君は音かも
(萬葉集・巻第七・1176)

   荒磯に波のよるを見てよめる
 大海(おほうみ)の 磯もとどろに 寄する波 破(わ)れて砕けて 裂けて散るかも

(金槐和歌集・641)


京都・蘆山寺│源氏庭

参考資料:
太田昌子著:絵は語る6「俵屋宗達筆 松島図屏風-----座敷からつづく海」, 平凡社, 1995
林家辰三郎校注:「作庭記」, <リキエスタ>の会, 2001
小埜雅章著:「図解 庭師が読み解く作庭記・山水并野形図」, 学芸出版社、2016
飛田範夫著:「日本庭園と風景」, 学芸出版社、1999
青木生子,井出至, 伊藤博, 清水克彦, 橋本四郎校注:新潮日本古典集成「萬葉集二」, 新潮社, 1978
樋口芳麻呂校注:新潮日本古典集成「金槐和歌集」, 新潮社, 2016








2019年度・補聴器相談医のための講習会

2019-07-21 | 日記・エッセイ
2019年度補聴器相談医委嘱および資格更新のための講習会が京都府立医大で開催され、「聴覚検査と補聴器」から「関連法規」までの八講義を拝聴した。本日の第25回参議院選挙は期日前投票をすでに役所に伺って完了している。いまだ梅雨が明けない京都市内では、御霊会に起源を有する祇園祭が一ヵ月間に渡り行われている。先の前祭(さきまつり)の山鉾巡行(本年は7月17日)に続いて、2014年度より後祭(あとまつり)の巡行(同24日)が復興した。



講習会開始前の早朝、近隣に足を伸ばして京都御所に隣接する梨木神社に参詣した。別名萩の宮と呼ばれる梨木神社境内の萩は、いまだ蕾なく艶やかな葉叢を見せたままである。講習会が予定よりも早く終わり、同じく講習会場より徒歩圏内の天台圓淨宗本山・蘆山寺を参拝することにした。廬山寺の源氏庭では、今年も紫の桔梗が苔の州浜に咲き乱れていた。 



木槿・槿(むくげ)は梨木神社の参道に唯一咲いていた花である。「槿花一日の栄」の出典となった白居易の《放言五首》を下に掲げた。槿花は一日の寿命しかなくとも、確(しか)と一つの花を咲かせる。心に留めおくべきことは、「只(ただ)今日今時(こんにちこんじ)ばかりと思ふて時光をうしなはず、学道に心をいるべきなり。」である。 

  放言五首・其五 白居易
泰山不要欺毫末 顔子無心羨老彭
松樹千年終是朽 槿花一日自為栄
何須戀世常憂死 亦莫嫌身漫厭生
生去死来都是幻 幻人哀楽繁何情


泰山は毫末(がうまつ)を欺くを要せず、顔子は老彭(らうはう)を羨むに心無し。
松樹千年なるも終に是れ朽ち、槿花一日なるも自ら栄を為す。
何ぞ須(もち)ひん 世を恋ひて 常に死を憂ふを、
亦た身を嫌ひて 漫りに生を厭ふこと莫れ。
生去死来、都て是れ幻なり、幻人の哀楽、何の情にか繁(かか)る。
(白氏文集・巻十五│岡村繁著:新釈漢文大系99「白氏文集三」, p320-321, 明治書院, 1987)

「勅使河原蒼風 花伝書」

2019-07-18 | アート・文化


「流派は違うも、お花を活ける心は同じでしょう。蒼風先生の想いは共感するものが多いです。」と美しくしたためられたお手紙とともに、医学の道における恩師の御奥様から頂戴した大切な御本である。下記に掲げたのは、本書第一部・花伝書および第二部・語録の中の御言葉である。

「イサム・ノグチがうちへきていった言葉がなかなかいい。
松をいけて、松に見えたらだめでしょう。
松が松でなく見えることは、大変ですね。
彼は日本語がヘタというが、こんなうまい日本語はめったにない。
わたしがいちばんきらいな文句、
 花は野にあるように
というのとよき対照である。」
 この言、利休のものというが、あとから愚人のつくったネゴトにちがいなし。」

(「勅使河原蒼風 花伝書」, p15, 草月文化事業株式会社・出版部, 2004)

「いけばなは、自然と人間がぐっと近づく仕事である。これほど自然と人間とが近くなれる仕事はないと思う。
 自然と人とが和した絶頂の、そして境地のいちばん明瞭な姿がいけばなである。
 自然が人の役にたち、人が自然の役に立つ。自然は人によって生き、人は自然によって生きる、という道理を簡単に教え会得させるのも、いけばなの役割の一つである。」
(p51)

「自然の姿をよく見て、それをそっくりいけばなに移すなどということはある程度はできても、究極の目的にそれを求めたら、絶対に失望するだろう。なぜかといえば、自然というものはもう完成したものだからだ。それを、ある部分をとってきてまたもとの姿に、ということはもうできないのだ。
 とってきたもので、もとの姿になかったものを作り出す。これはいけばなならではできないことなのだ。それがつまり、造形性である。」
(p57-58)

「自分の線を持つこと。どんな植物の中にもある線の中から、自分独特の線を引き出して、そこに自己を表現する。そのために、線の勉強が大切である。そうして自分の線を獲得できたなら、作品はいつもいきいきと新しい魅力をたたえることになるだろう。」
(p91)

「枝は鋏を入れすぎよ。どの枝でも切り捨て、または切り落としすぎよ。(中略)
 このとき、まあわからぬから、何だかこわいから、そっくりしておこう-------ということでは。鋏の入れ方、というより枝の作り方は絶対上達しないだろう。
 まあそっくりしておこうとなったら、鋏を入れる技巧の妙はどうしても摑めない。どこでもかまわない。無茶苦茶でもよい。鋏を入れて切り落としてみることだ。これは乱暴のようで、決して乱暴ではないのだ。この方法以外に、鋏の入れ方、枝の作り方を会得する方法はない。」
(p102)



映画「ハドソン・ホーク」とレオナルド・ダ・ヴィンチ

2019-07-15 | アート・文化


今年はルネサンスの巨匠Leonardo da Vinciの没後500年で、本国イタリアでは各地で展覧会が開催されるという記事が、先日の新聞朝刊に掲載されていた。1991年公開の映画「Hudson Hawk」の冒頭にダ・ヴィンチ(手術支援ロボットではなく)が登場する。鉛を青銅(銅と錫との合金)に変える為の器械が “una cosa molto piu preziosa del bronzo”を産み出した事実を知ったレオナルド・ダ・ヴィンチは、自作のスフォルツァ騎馬像、トリヴルツィオ手稿、ヘリコプター木製模型の中に、三分割した重要部品のcristallo(クリスタル)を秘匿する。この太陽光を収束して鉛を金へと変成する力を持つクリスタルはいわば「賢者の石(philosopher's stone)」である。一連のシーンには口元だけが白く描き残されたままの「La Gioconda」(モナ・リザ)が挟まれる。モデルの微笑とともにその理由が判明するのが御愛嬌である。

時代は下り、主人公ハドソン・ホーク(ブルース・ウィルス)は出所早々、世界制覇をたくらむメイフラワー夫妻一党に捕まり、相棒トミーとともにクリスタルが隠された三作品の強奪にかかわることになる。二人は“作業”に必要な時間を正確に計るために、各々の“作業”に応じた長さの歌を歌いながらとりかかるというその道のプロの技を見せる。長年の連携の中で互いに絶対の信を置く二人の軽妙洒脱な息合いは絶妙である。映画の結末を申せば、メイフラワー夫妻の飽くなき野望は空しく水泡に帰す。曲者のハドソン・ホークがすんなりと肝腎要の“賢者の石”を無傷で彼等に引き渡す訳がなく、黄金製造機は稼働し始めるやいなや大爆発を起こし、世紀の錬金術再現の試みは失敗に終わる。



ところで一攫千金を夢見た強欲な輩が飛びついたオカルト科学あるいは原始的化学などと、錬金術を貶め断罪すれば大きな過ちを犯すことになる。科学、医学、文化、芸術、哲学や宗教にわたる、多種多様で広範な領域における知的探求が錬金術の歴史と深くかかわっている。『レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて』は、レオナルド・ダ・ヴィンチ研究第一人者、池上英洋教授が本年上梓された決定版の重厚な本格評伝である。

「もともと完全なる金が分裂し劣化することによって現在の諸金属になったと考えるところから始まった錬金術は、周知のとおり、その過程を逆行し、諸金属をもとの「単一の状態」たる金へと戻すことを目的としていた。エジプトの冶金術に起源をもつこの術は、実現不可能だったこともあって、早い時期からやや求道的な真理探究や自己鍛錬へシフトしていった。(中略)
つまりアンドロギュヌス体を「原初の状態(=完全なる状態)」とする観点からすれば、諸金属を「原初の状態(=金)」へ戻そうとする錬金術作業を、分裂劣化して現在の状態にある人間にも適用できるのではないかと考えたのだ。そして完全体に戻った人間は、超人的で不老不死であるはずで、だからこそ当時の成功者たる王侯や貴族、大商人のなかに、進んでこの探求に援助を申し出る者がいたのである。」

(第二部 レオナルドの芸術と思想│錬金術とアンドロギュヌス---メディチ家の文化サークル│『レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて』, p460, 筑摩書房, 2019)

令和元年度・夏期講習会2019│大和未生流の花

2019-07-14 | アート・文化


大和未生流の夏期講習会が、奈良春日野国際フォーラム(旧名称は奈良県新公会堂)で開催された。午前の御家元の講義では、華道を理解する上で日本の伝統絵画や庭園についての見識を深める意義を提示された。障屏画や浮世絵を含む様々な日本画を西洋絵画に対比し、さらに竜安寺の石庭や日本最古の造園書『作庭記』の引用を用いて強調なさったのは日本独自の美意識である。

「檜図屏風」(狩野永徳)、「沈堕瀧図」(雪舟)を引いて論及なさったのは、(具象絵画において)人物画、風景画ともに具体的な対象を正確にトレースする「写実」をおこない、その瞬間を切り取り忠実に再現する西洋の絵画とは異なり、日本の伝統絵画は作者の内部に奔騰した「感動」の表現に重きを置くという相違である。同じく形あるものを描く具象画であっても、後者はより観念的、象徴的と言える。
 「夏秋渓流図」(鈴木其一)、「槇に秋草図屏風」(酒井抱一)では、一つの空間の中に四季の花木や景物を並べて描く画面構成法に触れられた。四季の移ろいがエピジェネティックな仕組みで日本人の感性を修飾決定しているかどうかの実証はないが、春夏秋冬の花が一度に次々と咲き並ぶ群生は不合理であっても決して違和感はない。四季の景物とともに無数の我等民草の営為が描かれた「洛中洛外図屏風 上杉本」(狩野永徳)では、すやり霞の伝統的技法を受け継ぐ「金雲」が異なる時間と空間を繋ぎ、大和未生流における「つなぎ」の概念にあたることを述べられた。加えて流派のいけばなにおいて、季節の花材であっても同じ場所、同じ時に育ち花開いたのではない草木を取り合わせて、その季節の風趣をかもす作品を生む精神もまた同様であること、全てこれらには時空間を自在に越えて俯瞰する複眼的な視点が共存している、との興味深い御指摘があった
 
午後からの御家元と副御家元、両先生御指導による実技演習は、臙脂の菊三本を用いた後人(うしろじん)の壺生けで、本年御監修の花器は金沢の大樋焼に似た飴色の釉を帯びた信楽焼であった。菊に限らず栽培種の花材は、踏みしだかれ風雨に晒された路地咲きとは異なり、曲が無いが素直であり手に余る癖もない。今回の上質の栽培菊は瑞々しい豊かな緑葉を抱いてひたすら真っ直ぐな性である。菊に向き合ううちに、直線を活かすには後人の他にはないという御言葉がすとんと胸に落ちた。「型は学ぶことが出来るが、表現は学ぶことが出来ない。」、これは両先生が講習中に繰り返しておっしゃった警句である。前者は形式知で、後者は暗黙知ということなのであろう。





「第70回日本東洋医学会学術総会」と特別展「生誕125年記念 速水御舟」

2019-07-05 | 日記・エッセイ


東京都庁に隣接する京王プラザで先週、本年度の日本東洋医学会学術総会が開催された。東洋医学、伝統医学は古い時代の黴臭い医学とお考えの御方がいまだおいでかもしれない。だが現代の諸医家が繰り出す日進月歩の漢方臨床は、和魂洋才・洋魂和才ともにありのいわば先端医療である。
 会期の合間を縫って伺った山種美術館では、広尾開館10周年記念特別展「生誕125年記念 速水御舟」(会期:2019年6月8日(土)~8月4日(日))が開催されていた。生菓子はCafe椿で提供されていた菊家製オリジナル和菓子の一つで、「翠苔緑芝」(すいたいりょくし、本作品は今回撮影可であった)にちなんだ「緑のかげ」である。





「型を恐れる
 絵画修業の道程に於て私が一番恐れることは型が出来ると云ふことである。何故なれば型が出来たと言う事は一種の行詰りを意味するからである。藝術は常により深く進展して行かねばならない。だからその中道にて出来た型はどんどん破壊して行かねばならない。
 この型は、然しいつの間にか、知らず知らずの中に出来て来るものである。それに一番困るのは人からその出来た型を褒められることである。「あゝ云つた風な絵はよござんすね」と恁(こ)う云はれると、もともと嫌らひで出来た型ではないのだから、その型に一種の愛着もあるし、自然に未練も出来てくる。さうなると型を破壊するのに非常な苦心を必要としなければならない。だから、評判もよかったし、自分でも割によく出来たと思った絵に近い型は、再度手にしないことにしてゐる。
 だから私は常に型を破壊するのに苦心している。いつになつたら自分で満足し得られる画境に落着くのだらうか。それは知らない。一生型を壊しつゝ終わるかもしれない。」
(「美術街」一巻一号、昭和九年九月)

(『絵画の真生命~速水御舟画論』、p80-81、中央公論美術出版、1996)