花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

大寒の養生

2016-01-21 | 二十四節気の養生


大寒(1月21日)は、二十四節気の第24番目の節気である。二十四節気の最終の節気であり、冬でありながらも次には立春の到来を迎え、冬と春が隣り合わせに接する時節である。なお寒冷厳しく乾燥する気候が続くので普通感冒、インフルエンザなどを惹起しやすく、幼小児、老年、病後・術後、過労の方々はくれぐれも御自愛頂きたい。気温が降下する早朝や夜更けの不要な外出は控えるべきで、昼間の外出時にも寒風の暴露を防ぐための衣服の工夫を怠らず、屋内にあっては室内保温とともに換気を行い、40%以下とならない室内湿度の維持が必要となる。さらに「早臥晩起」で日が暮れたら休む、日が昇ってから起床することが基本となる。日中の室内外での運動は、頑張り過ぎて体内の陽気を妄動させ消耗することを避けねばならない。いまだ冬の基本である貯蔵の「蔵」を外してはならないのである。
 風邪(かぜ)は風の邪と書くが、「風」は元来自然界の六気に含まれる気であり、この大寒の次に来る春を支配する気である。そして外感病邪の病原因子となる場合は、風邪、寒邪、暑邪、湿邪、燥邪、火邪の中のひとつの邪が「風邪(ふうじゃ)」である。「風邪」が起こす病気は春に多いが春以外の季節でも発症する。「風邪」の性質は、まず陽邪で昇発する作用があり、開泄(腠理の汗腺を開き発汗させる)を起こし、「善動不居」(病邪の作用部位が変わる)で、昇発・向上・向外の方向性(身体の陽位である上半身、頭面部を侵襲する)を示す。さらに「善行数変」(病変部位および病態が変化する)、「風勝則動」(痙攣、不随運動、めまいなど、全身・局所の動揺、異常運動を起こす)の性質が挙げられる。また「風者百病之始也」、「風者百病之長也」と記された通り、外感病(急性熱性疾患)における先駆けとなる先導者であり、寒、湿など他の邪気と連携して侵入する扇動者としての性質がある。風邪(かぜ)から始まり次々と他の病気が起こってきた様な御経験がこれまでにおありではないだろうか。風邪に続いて二次感染などの合併症が惹起される、あるいはすでに療養中の他領域の疾病が悪化することがある。また進行に従い他症状や所見が出現するが、当初は風邪様の前駆症状から発症する疾病経過を示す全く別の疾患もある。たかが風邪(かぜ)、されど風邪なのである。
 ところで「風」に限らず六気すべてはもともと天然自然を主る気である。自宅や職場をいくら人工的に作り変えても、人体を取り巻く生活環境からその影響を完全に消し去ることは出来ない。すべからく他の病原因子も同じである。大寒の最後にあたり黄帝内経素問遺篇の以下の言葉を締めくくりとしたい。
「不相染者, 正気存内, 邪不可干, 避其毒気。」(正気が充実していれば、外邪の侵入は起らない、感染も発症も防げるのである。)

うつし世の冷たき風を入れぬことこれをわが家の掟とぞする     冬夜沈吟 吉井勇






小寒の養生

2016-01-06 | 二十四節気の養生


小寒(1月6日)は、二十四節気の第23番目の節気である。小寒から立春の前日までを「寒」と称し、小寒の後に続く大寒とともに冬の寒冷気候が最も厳しい時節である。小寒以降、寒の入りにお相手を気遣って出すのが寒中御見舞である。人体を侵襲して疾病をおこす六種類の外感病邪である、風、寒、暑、湿、燥、火を総称して六淫というが、元来は六気と呼ばれる自然界に存在する気候の変化である。このうち「寒」が冬を支配する気であり、これが外邪となった場合が「寒邪」となる。寒邪は陰邪であるために、陽気を傷つけて寒証(悪寒、腹部の冷痛や下痢、手足の冷感、尿が薄く多量、活動性の低下など)を起こしやすい。また凝滞(滞り通じないこと)の性質を持ち(寒性凝滞)、気血津液を循環させている陽気の働きを阻害し、これらが固まり流れなくなるために局所に痛みを起こす。さらに収引(収縮、牽引を意)の性質を有し(寒性収引)、人体内外での気の循環を縮こまらせ、腠理、経絡を引き攣らせることにより、悪感、発熱、発汗しないという症状の表寒証の風邪や、四肢の疼痛、運動障害を引き起こす。従って小寒においては、先の時節以上に防寒保温に努めるとともに、医食同源の観点から食養生においては温め補う作用のある温補とともに、経脈、経絡の滞りを改善する活血通絡の作用がある食材が望まれる。生薬や食材の性質は、四気(寒、熱、温、凉)および五味(辛味、甘味、酸味、苦味、鹹味、淡味も加える)で分類される。この中で辛味は発散、行気、行血の作用の作用を持ち、表証に対する発散、気滞に対する行気の他に、血瘀を散らし経脈を温めて血行を促進する働きを持つ。辛味、温性の性質を持つ辛温性の食材(生薬となるものを含む)には、紅花(コウカ、ベニバナ)、葱(ネギ)、大蒜(ニンニク)、韮(ニラ)、陳皮(チンピ)、生姜(ショウキョウ、ショウガ)、紫蘇(シソ)、小茴香(ショウウイキョウ、フェンネル)、丁香・丁子(チョウコウ、チョウジ、クローブ)などが挙げられる。


見わたせば 松の葉白き 吉野山 いく世をつめる 雪にかあるらむ       和漢朗詠集 巻下「山」 平兼盛 
   

冬の養生│冬のように生きる

2015-12-27 | 二十四節気の養生


冬は立冬から小雪、大雪、冬至、小寒、大寒までの六節気である。本年の立春に始めた《二十四節気の養生》は一巡まで残すところ二節気となった。さて四季を通して養生で一番重点を置くべきことは何だろう。それは「養神」であって「養形」ではないと、中国前漢時代の思想書『淮南子』は述べる。以下はその泰族訓における一節である。
「治身, 太上養神,其次養形; 治國,太上養化,其次正法。神清志平,百節皆寧,養性之本也; 肥肌膚,充腸腹,供嗜欲養生之末也。」
(養生の方法として最上は精神の修養にあり、次に問うべきが身体の保養である。国家を治めるにあたり人の心を教化することが最上の策で、次が法律での統治となる。精神が清らかで志が穏やかであれば、全身の節々が安らかになる。これが養生の根本原理なのだ。肌をふくよかに、腹を一杯に、欲望を満足させることは養生の末節にすぎない。)

心と身体の問題を考える時、形と神、物質(肉体)と精神は不可分の相互関係にある。形を否定して生命の存続は有り得ない。従ってハードの保守(養形)は大切である。そしてそれ以上に、システム全体の管理を行うオペレーティングシステム(OS)のデバッグ(養神)が重要である。これが出来てこそ、コンピュータは支障なく動作する。すなわち《小雪の養生》で触れた「恬惔虚無, 眞気従之, 精神内守, 病安従来。」(物事にこだわらず心安らかであれば、充実した生命力はおのずから付いて来る。心身を充実させて内部にゆるぎなく保持していれば、病気など入り込む余地はない。)である。栄養素摂取や身体鍛錬、睡眠の工夫などは、OS上で動く養形のためのアプリケーションソフトである。これらが不具合なく動くかどうかは基盤となるOSの安定性にかかっている。

心神を守り養い安寧に保ってゆくことは決して容易ではない。ともすれば世俗の物事や人事での葛藤に巻き込まれ、七情内傷(喜、怒、憂、思、悲、恐、驚など七種類の過ぎた感情が、全身・臓腑・器官の機能活動に影響を与えて疾病を発症させること)に陥ることになる。今一度「恬惔虚無」あるいは「恬惔寂漠、虚無無為」の意味を踏まえ、何事にもこだわらず執着からは離れた静けさに身をおいて、心を空っぽにしてことさらな作為をしないことが肝要となる。《冬の詩》に歌われた如く、冬は今こそ賢しらな我(が)は捨てよと我々に迫っている。



「冬三月, 此謂閉蔵, 水冰地拆, 無擾乎陽, 地気以明, 早臥晩起, 必待日光, 使志若伏若匿, 若有私意, 若已有得, 去寒就温, 無泄皮膚, 使気亟奪, 此冬気之応, 養蔵之道也。逆之則傷腎, 春為痿蹶, 奉生者少。」(『黄帝内経』素問・四気調神大論篇第二) 
(冬、三月、此れを閉蔵(へいぞう)と謂う。水は冰り地は拆(さ)く、陽に擾わされること無れ。早に臥せ晩に起き、必ず日光を待つ。志をして伏するが若く匿すが若く、私意有るが若く、已に得る有るが若くならしむ。寒を去り温に就き、皮膚より泄し、気を亟奪(きょくだつ)せしむること無れ。此れ冬気の応にして蔵を養うの道なり。之に逆うときは則ち腎を傷め、春痿厥を為す。生を奉ける者少なし。)

『黄帝内経』が説く季節の養生において、生長収蔵の四文字で表される四季の属性の中で、冬は貯蔵の「蔵」であり、冬の三か月は「閉蔵」と名付けられる。「閉」はとじる、しめる、「蔵」はおさめる、かくすを意味する。寒冷気候の下、水は氷となり凍てついた大地はひび割れる。草花はすっかり枯れ果てて、種子は土中に埋もれて時を待ち、冬眠する動物は身を隠して冬越しの態勢に入る。冬は木、火、土、金、水の五行の中では「水」にあたる。水が低きに流れ込み、地中深くに地下水源として蓄えられる様に、大自然の陽気は潜降し伏蔵される。そして五臓の中では、封蔵之本とされる「腎」が冬の臓である。

寝起きに関し、春と夏は「夜臥早起」、秋は「早臥早起」であったが、冬には「早臥晩起」となる。朝は秋よりもゆっくりと、必ず日が昇るのを待って起床する。そして夕方になれば活動を控え身体を休めて、他の季節よりも睡眠時間を増加させる必要がある。春と夏は陽を養い、秋と冬は陰を養う時期であり、さらに昼間の陽の時間(交感神経優位)を減らし、陽気が内に収束する夜間の陰の時間(副交感神経優位)を増やすのである。起床後は、体内の陽気を妄動し散失しない為に、身を伏せて隠れる様に、隠し事がある様に、そしてすでに物事を得てしまった時の様に、気持ちを収めて表立った積極的な行動はとらない。冬は秋とともに、もはや志を外に盛んに発信して外界で大いに活動する季節ではない。そして寒冷を避けて温暖につとめ、運動で大いに発汗し陽気を散逸させることは避けねばならない。

以上が冬の気候や地象など天地の動態に対応した、閉蔵の働きを助け養う仕方である。これらに反すれば、冬に働きが旺盛となる腎を障害して、春になって痿厥(いけつ)の病変がおこる。すなわち冬の閉蔵で蓄えるべき力が妨げられ、春の生長の力に引き継ぐことができずに病を発症すると警告がなされる。痿厥は、下肢が委縮して歩行困難が主症状となる痿病(下肢の神経麻痺、筋肉委縮による運動麻痺を主症とする疾患群)に気血厥逆(血行障害)を兼ねた病証である。またさらに陰陽応象大論篇や生気通天論篇では「冬傷於寒, 春必温病」(冬、寒に傷られ、春必ず温病となる)と、冬に遭遇する寒邪を感受して、春に至って伏寒化熱により生じる急性熱病の伏気温病「春温」に対する警鐘が述べられている。春温については《春の養生│春のように生きる》を御参照されたい。



冬至の養生

2015-12-22 | 二十四節気の養生


冬至(12月22日)は、二十四節気の第22番目の節気である。北半球では昼が最も短く、夜が最も長くなる。易経の六十四卦(か)の中では、帰る、元に復するという意の「地雷復(ちらいふく)」が冬至に相当する。「地雷復」は外卦(がいか)の卦名が坤(正象は地)、内卦(ないか)の卦名が震(正象は雷)から成り、雷が地中に在ることを表す大成卦である。一番下の初爻(しょこう)が陽爻で一陽が生じ、陽気が芽生えたばかりの一陽来復を示している。冬至はいまだ冬の節気であるが、すでに春に向かってのカウントダウンが始まっている。陽が健やかに伸長して、ふたたび明るく健やかで正しいものが戻る、事を進めて行ってよろしいという意の卦が「地雷復」である。天人合一の考えでは大自然と人は一つの統一体であり、人の体内における陽気の動態も天地自然に呼応し、冬至からは陽気が次第に長じてゆく。春から始まり、夏、秋の季節を経て、冬は気血の消耗、陰陽失調が出現しやすい季節である。陽が芽生え始めた冬至は、気虚、血虚、陽虚および陰虚の各々の体質に合わせ、食養生含めて補を行なうのに相応しい時節である。
 また1年を1日に置き換えて考えれば、「十二時辰(じゅうにじしん)」(1日を2時間おきの12に分ける時法)では、23時から1時の間の「子の刻」が人体の陽気が生じ始める時間に相当する。芽生え始めた陽気をいたずらに消散させないためには、就寝時間は23時を過ぎない様にしたい。秋と冬の就寝は、陽気を内に収束させ保持すべき夜の時間を増やすために、春と夏よりもさらに早く床に着く「早臥」が望ましい。
 いまだ寒風吹きすさぶ中、春の先取りと申して春物の薄着を纏うはやり過ぎの酔狂であるが、衣替えは季節の先取りが粋である。季節の養生も当季だけではなく、次の季節を、さらにはその次に続く季節をも見越して心身を整えて行かねばならない。

やまでらのさむきくりやのともしびに ゆげたちしらむいものかゆかな    自註鹿鳴集 会津八一


万物の木地│冬の詩

2015-12-11 | 二十四節気の養生


冬の言葉  高村光太郎

冬が又来て天と地とを清楚にする。
冬が洗ひ出すのは万物の木地。

天はやっぱり高く遠く 
樹木は思ひきつて潔らかだ。

虫は生殖を終へて平気で死に、
霜がおりれば草が枯れる。

この世の少しばかりの擬勢とおめかしとを 
冬はいきなり蹂躪する。

冬は凩の喇叭を吹いて宣言する、
人間手製の価値をすてよと。

君等のいぢらしい誇をすてよ、
君等が唯君等たる仕事に猛進せよと。

冬が又来て天と地とを清楚にする。
冬が求めるのは万物の木地。

冬は鉄碪を打って又叫ぶ、
一生を棒にふつて人生に関与せよと。



骨太で気迫に満ちた檄文である。厳寒を耐え忍び、息を凝らして潜んでいよと我々に命ずるのが冬なのか。然にあらず、冬が求めるのは、冬が洗い出すのは、「万物の木地」であるのだと高村光太郎は喝破する。そして随筆《触覚の世界》の中で以下のように語っている。彫刻家においては、「動かし難いものを根源に探る触覚が、一番はじめに働き出す。」のだと。

「世上で人が人を見る時、多くの場合、その閲歴を、その勲章を、その業績を、その才能を、その思想を、その主張を、その道徳を、その気質、又はその性格を見る。
 彫刻家はそういうものを一先ず取り去る。奪い得るものは最後のものまでも奪い取る。そのあとに残るものをつかもうとする。其処まで突きとめないうちは、君を君だと思わないのである。
 人間の最後に残るもの、どうしても取り去る事の出来ないもの、外側からは手のつけられないもの、当人自身でも左右し得ぬもの、中から育つより外仕方の無いもの、従って縦横無礙なもの、何にも無くして実存するもの、この名状し難い人間の裸を彫刻家は観破したがるのである。」


万物の木地とは人智を超えた実存である。それを取り巻く外殻は、人間を人間たらしめる本質などではなく、「人間手製の価値」や「いぢらしい誇」にすぎぬと《冬の詩》は断じる。人為で制御出来ない森羅万象の木地を否定し、嫌悪し、畏怖する者の眼には、醜悪な裸体の塊としか映らないが故に、ロカンタンは肝気横逆し、胃気上逆させて嘔吐するしかないのだろう。全てを取り去った裸形を観破する姿勢は同じくとも、真髄を何処に見出したかという点に於いて、《冬の詩》と《嘔吐》の志向は全く異なる。

最後に記すのは、高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』からのロダンの言葉である。
「自然をして君達の唯一の神たらしめよ。彼に絶対の信を持て。彼が決して醜でない事を確信せよ。そして君達の野心を制して彼に忠実であれ。」



大雪の養生

2015-12-07 | 二十四節気の養生


大雪(12月7日)は、二十四節気の第21番目の節気である。小雪に比べて厳寒がひとしお身にしみる節気で、自然界の陽気が払底して陰気が最盛となる。しかし小雪の次には冬至となり、この後は陽気がふたたび生じ始め、陰気は次第に減じて行くのである。何故ならば「物極必反」として、事物の変化は極みに達すれば、必ず反対の方向に転じるからである。陽気の芽生える音が少しづつ聞こえてくる時期は、養生には適した時節である。そして養生にあたっては過不足なく、また一方に偏らないことが大切である。活動が過ぎて過労にならず、安静を保ちすぎて運動不足にならず、栄養過多にも栄養失調にも傾いてはいけない。効能に魅かれ飛びついて、一つの食材や生薬のみを摂取しているとからだの陰陽失調を来すことになり、養生どころか病気を招くことになる。保温に努めるべき時期ではあるが、厚着や暖房が行き過ぎると不要な発汗を引き起こして陽気を損傷することになる。また発汗する時期ではなく口渇もないからと飲水量が減りがちであるので、水分摂取を忘れてはいけない。ただし冷飲はさけるべきであり、消化吸収の働きを低下させる中焦の冷えを起こさないことを念頭に置かねばならない。
 この時期に増加する普通感冒ないし風邪(かぜ)であるが、西洋医学的にはウイルス性上気道炎であり、鼻症状(鼻閉や鼻漏)、咽喉症状(咽頭痛やいがいが感)や咳嗽症状が、急性発症で同時期に同程度に発症する。中医学的な感冒の概念は、各季節特有の気候変化あるいは季節外れの異常気候から生まれた邪気と、風邪(ふうじゃ)が結びついて身体を侵襲して発症すると考えられている。従って寒邪の影響で冬には風寒感冒が多いのであるが、風寒から風熱への移行や、これらが入り混じった病証も少なくない。風寒感冒の症状は、悪寒が強く発熱は軽度で、発汗はなく、頭痛、身体痛、咽喉の痒み、嗄声、咳嗽、薄い白色の痰、鼻閉と水様性鼻漏、口や咽喉は渇かない、あるいは渇いても熱い飲み物を好むなどである。春には風熱感冒が多く、夏には暑湿の邪がからみ、秋には燥気がかかわって感冒が発症する。もっとも同じ外邪に暴露を受けても、その後に発症するかしないかは人体の正気(生命活動の原動力、病邪・疾病に対する免疫力も含む)の強弱に左右される。「正気存内、邪不可干」であり、正気が体内に充実していれば、邪気に干犯されて発病することはないのである。
 一年の終わりにあたる師走はともすれば、あれもしたい、これもせねばならないと様々な欲望や欲求に駆り立てられて、平素以上に生活の規律や節度が乱れがちな時期である。「またもや風邪(かぜ)をひいてしまった」という方は、今一度、心身共に入力よりも出力過多に傾いておられないか、日々の生活習慣を見直して頂けたら幸いである。

奈良の京にまかれりける時に、やどれりける所にてよめる 

み吉野の 山の白雪 積もるらし ふる里さむく なりまさるなり    古今和歌集 坂上是則


小雪の養生

2015-11-23 | 二十四節気の養生


小雪(11月23日)は、二十四節気の第20番目の節気である。気温はさらに降下して雪が降り始める時節とされるが、昨今は暖冬でいささか季節感がずれる。ともかくいまだ大雪が降るには至らない時期であるから小雪と称する。しかしながら日照時間はさらに短くなり、陰鬱な天空の下に陰盛陽衰の形象が日一日と増えてゆく。草花は色褪せ萎んで枯れて、すっかり葉を落とした木々の梢を寒風が吹き渡り、街路を行き交う人々の服装も灰色や黒色の単調な色合いが多くなる。そこには春の欣々向栄の趨勢も、夏の烈日の繁栄も、秋の萬物結実の安息もない。ともすれば人の心は、不安や不眠、いらいら感、やるせない悲観的な感情や、抑鬱的な気分、厭世的な思いに容易にはまり込んでゆく。従ってこの時節は、寒冷暴露を避けて保温に努めるとともに、いかにして精神を安定させるかということが大切である。
 『黄帝内経素問』上古天眞論篇には、「夫上古聖人之教下也, 皆謂之虚邪賊風, 避之有時, 恬惔虚無, 眞気従之, 精神内守, 病安従来」と記されている。その意味は、虚をもたらす邪(病原因子)や季節外れの風を避けるとともに、無心にして物事に捉われず、心を安らかに落ち着かせれば、おのずから真気(元気、生命活動の原動力)は充実する、精を消耗せず神(精神や意識などの生命活動)を妄動させずに、内に揺るぎなく保持すれば、其処に病気などが入り込む余地はないということである。「恬惔虚無(てんたんきょむ)」は、『荘子』に「虚無恬惔」あるいは「恬惔寂漠, 虚無無為」と登場する言葉であり、物に執着せず心安らかで、作為がなく自然であることを表している。
 風雨や暑熱、寒暑などの外邪から身を守ること、時宜にかなった食を選ぶこと、過労を避けて規律正しく起居を整えること、身体の鍛錬を行うこと等々、これらが養生において守るべき大事なことには間違いはない。しかしこれらの工夫に終始するだけが養生のすべてではない。養生においては「太上養神,其次養形」であり、形(肉体)を整えることにのみ汲々として中身がなければ、まさに「仏作って魂入れず」なのである。

夜を寒み 朝戸を開き 出でみれば 庭もまだらに み雪降りたる     万葉集 巻第十


立冬の養生

2015-11-08 | 二十四節気の養生


立冬(11月8日)は、二十四節気の第19番目の節気である。漢字の「冬」の象形は食物をぶらさげて貯蔵したさまを表わす。秋に収穫され天日干しを経た作物が最終的に収納庫に蓄えられているのである。この収納、格納という意の「蔵」が冬の核となるイメージであり、動物も植物も万物は活動を休止して冬籠りに入り、自然界の陽気は内蔵され陰気が盛んとなる。冬の養生の要諦は、ふたたび巡り来る生長発育の来季の春に備えて、陰を引き締めて陽を庇い守る「斂陰護陽」である。昼間は陽気をいたずらに消耗せずに、秋よりもさらに早寝を心がける。そして朝もよりゆっくりと起床して、太陽が昇った後の恵みを享受することが必要である。
 冬は、木、火、土、金、水の五行で言えば「水」にあたり、肝、心、脾、肺、腎の五臓の内の「腎」と深い関係にある。従って冬は腎を養う季節となる。東洋医学的な腎の概念は、西洋医学的な腎臓の機能(体液、細胞外液組成の恒常性の維持;老廃物や余剰の水分の血液からの濾過、排出;血圧・尿量調整、赤血球産生や骨代謝にかかわる内分泌作用)とはいささか異なる。腎の働きとされるのは、水液代謝の温煦調節、生命根源の力である精気の貯蓄(蔵精)、さらに肺が吸入した正気の体内深部への取り込み(納気)である。精気は身体の成長発育、生殖を含む生理的活動の物質的基盤となる基本物質であり、腎は生命の源の「先天の精」を蓄えるが故に「先天の本」と呼ばれる。腎中の精気の不足が、五臓六腑や組織器官を潤し滋養する「腎陰」、五臓六腑や組織器官を温め駆動する「腎陽」の陰陽失調を来すと、腎陰虚あるいは腎陽虚の症候が出現することになる。この他にも腎は、骨、歯や毛髪の代謝、耳(西洋医学の解剖学的に申せば、内耳さらに中枢性聴覚経路を含む)や二陰(外生殖器の前陰、肛門の後陰)の機能調節と関連する。また五臓の相互関係からは、冬の飲食では、鹹味(塩からい)を少なく、苦味(にがい)を多くする「少鹹多苦」が望ましい。酸、苦、甘、辛、鹹の五味に関連する五臓は、各々肝、心、脾、肺、腎である。冬に旺盛となる腎が行きすぎないように、また旺盛となる腎が克する(働きを抑えて調節すること)心を養うためである。

山背の 久世の鷺坂 神代より 春は萌りつつ 秋は散りけり     万葉集 巻第九 鷺坂にして作る一首

霜降の養生

2015-10-24 | 二十四節気の養生


霜降(10月24日)は、二十四節気の第18番目の節気である。さらなる冷気によって露が霜となり降り始めるとされる節気である。霜葉は二月の花よりも紅なりとも歌われた通り、野山は彩られて全山紅葉の錦秋の秋を迎える。霜は実際には、月落ち烏啼いて霜天に満つと詠まれた様に寒空より降り来たるのではなく、大気と接触している物体の表面温度が霜点より低下した時、空気中の水蒸気が昇華して結晶となるために起こる現象である。秋の霜と申せば、日本の検察官記章の意匠の呼び名は「秋霜烈日」である。かたや陽の灼熱の夏、こなた陰の粛殺の秋に属し、対照的な陰陽の象徴である。烈日と同じく天空より降り来るとされた秋霜は、ともに地上の人為に歪められることなく、天の理に従う峻厳で無私公正な職務を表わすにふさわしい。
 この時期の養生において注意せねばならないのは、秋特有の乾燥、次いでは晩秋の気温がさらに低下する時期の寒冷気候、さらに萬物が枯れ行く粛殺の景象である。すなわち気を引き締めるべき対象のキーワードは、秋燥、秋寒、悲秋である。三番目の粛殺の気に対しては、、10月3日の《二十四節気の養生》のブログ記事、『秋の養生│秋のように生きる』で触れた「使志安寧, 以緩秋刑」の心構えが必要となる。
 そして霜降をすぎればいよいよ冬の到来である。秋の凉燥から冬の寒冷への通過点にある霜降においては、「補冬不如補霜降」を念頭に置いて、改めて秋の補(忘れてはならないのは養陰潤肺、その他虚証の種類に応じた補を行う)を心がけねばならない。秋そして霜降は、来る冬の養生の基礎をつくるべき重要な時節なのである。

秋山に 霜降り覆ひ 木の葉散り 年は行くとも 我れ忘れめや    万葉集 巻第十 柿本朝臣人麻呂



寒露の養生

2015-10-08 | 二十四節気の養生


寒露(10月8日)は、二十四節気の第17番目の節気である。気温はさらに下降し、一日一日ますます増大してゆく陰寒の気によって、草木に凍らんばかりの冷たい露が宿るので寒露と称する。秋の燥気に寒冷が加算された気候となり、自然の萬物が黄色く枯れゆく深秋を迎える。この時期の感冒、呼吸器感染症やその他の疾病予防のためには、身体の保温が大切である。「白露身不露、寒露脚不露」という言葉があるが、先の節気の白露を過ぎれば諸肌を脱ぎになって上半身の肌を見せることはせず、寒露を過ぎたら裸足は避けて足(脚は足首より下の部分)の保温に努めねばならないという教えである。足は言うまでもなく躯幹より一番離れた遠位端にあり、皮膚組織も薄く、最も冷えやすいので大切に守らねばならない。また足三陰経の太陰脾経、厥陰肝経、少陰腎経が起こるのは各々、足の第1趾にある隠白(SP1)、太敦(LV1)、および第五趾の下(少陰腎経はここから斜めに足底部の湧泉(KI1)に走る)である。これらの経絡の気血運行が障害されるとひいては全身に影響をもたらすことになり、まさしく身体の冷えは足から生じるのである。

秋の野に 咲ける秋萩 秋風に 靡ける上に 秋の露置けり    万葉集 巻第八 大伴宿禰家持