花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

唐招提寺御影堂障壁画│生誕110年 東山魁夷展

2018-09-30 | アート・文化


東山魁夷画伯の生誕110年を記念した特別展(2018年8月29日~10月8日)が京都国立近代美術館で開催中である。本展覧会では構想から完成までに10年の歳月を費やして完成なさった、「唐招提寺御影堂障壁画」の襖絵と床の壁面、全68面が再現展示されている。
 鑑真大和上(688~763年)は揚州・大名寺の高僧で、遣唐使船で唐に渡った留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から朝廷の「伝戒の師」としての招請をお受けになり、決意されてから12年後の753年、数多の苦難の末に渡日を果された。鑑真大和上の偉業は戒律制度の整備に止まらず、仏教は勿論のこと美術工芸、建築、医学、薬学にわたる大唐文化を日本にお伝えになった事である。そして朝野から惜しまれながら、天平宝字7年5月6日、其の土を嘗めて「此福地也」と宣った唐招提寺の地で結跏趺坐して遷化された。
 「唐招提寺御影堂障壁画」は、御苦労の末に御目の光を失われた鑑真大和上に御高覧賜るべく、東山魁夷画伯が祈りを込めて取り組まれた渾身の大作である。大和上の故国、中国の風景を偲ぶ水墨画「揚州薫風」、「桂林月宵」、「黄山暁雲」とともに、本邦の山海が緑と青色を基調の色として描かれた、清冽で荘厳な「山雲」、「濤声」から成る構成である。



招提寺鑑真和尚来朝の時、船七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち潮風吹き入りて、つひに御目盲させたまふ尊像を拝して、
  若葉して御目の雫ぬぐはばや  
                    (笈の小文│「芭蕉文集」, p85)

参考資料:
「生誕110年 東山魁夷展」図録、京都国立近代美術館監修, 日本経済新聞社, 2018
楽便編著:「鑑真東渡」, 五州伝播出版社, 2005
王勇著:図説 中国文化百華 第三巻「おん目の雫ぬぐはばや 鑑真和上新伝」, 経葉社, 2002
蔵中進編:和泉書院影印叢刊12「宝暦十二年原本 唐大和上東征伝」, 和泉書院, 1979
富山奏校注:新潮日本古典集成17「芭蕉文集」, 新潮社, 1978
井上靖著:新潮文庫「天平の甍」, 新潮社, 1964





語彙を増やすということ

2018-09-23 | 日記・エッセイ


文章を綴るということは難しいとつくづく思う。それでも頭の空洞に浮かび上がった雑感をひとまとまりの文章に仕上げる機会を繰り返せば、先細りや断線しがちな脆い自分の思考回路を少しは補強する訓練になる気がする。想念というより単なる印象にすぎない類を文章に紡いでゆく時、しっくりとくる言葉がただちにみつかるとは限らない。参考資料や文献を読み漁るうちに、これまで目にしたこと耳にしたことがない言葉を知ることも多い。文章に書き表すことと語彙を増やすことの間には確実に相乗効果がある。

お恥ずかしいことに、私は二十代の前半まで「場末」(ばすえ)を「ばまつ」と読むのだと思い込んでいた。正しい読み方を知り頭の中で修正を加えたつもりでも、一旦「ばまつ」という音感と結びついた「場末」の語感は頑固な頭の中ですぐに入れ替わってくれない。「ばすえ」と聴いた時に「場末」の情景が彷彿と浮かび上がるまで、実に数年を要した。それから後は新たな言葉に遭遇した時、辞書で意味を確認するだけでなく、其の場で何度も声に出し読み上げて、語意と音感との間の有機化学反応を起こすように心がけている。

字面を眼で追うだけで取集した言葉を仰々しく羅列してみても、上辺だけ塗り固めたコスプレ文章に終わる。自家薬籠中の血肉と化した言葉を蓄えて語彙の世界を広げてゆくことは、文章を書く以上に難しい。


秋の苦瓜(ゴーヤ)

2018-09-20 | 日記・エッセイ


今年は家庭菜園でゴーヤを栽培した。旬の野菜とは申せ、昨年の胡瓜と同様に毎日せっせと食べていると家族全員がもはや食傷気味である。先日の台風21号の襲来にも吹き飛ばされることなく、いまだに四方八方に蔓を伸ばし続けて小さな黄色い花を咲かせている。それでもさすがに九月も半ばをすぎると、最盛期よりも遥かに小さいままで実は成長を止める。大きな実を結ぶ勢いを失ったものはきっぱりと取り払い、新たな収穫に向けて別の種を植えるべきである。と思う一方、小さいながらもゴーヤの基本型を外さない実が寄る辺なく風に揺れるのを眺めていると、なんとも哀れになり片付けようという気が失せる。野菜の種類が異なる今年もまた、伐採するかしないかと、代り映えのしない恒例行事の葛藤を始めている。

ゴーヤは苦瓜(ku3gua1)、性は寒、味は苦、帰経は心、脾、肺経である。効能は祛暑滌熱,明目,解毒とされ、対象となる病気や病態は暑熱煩渇、消渇、赤眼疼痛,痢疾,瘡瘍腫毒である。すなわち暑熱を取り除き咽喉の渇きを改善し、眼の充血やかすみ、疼痛などの不調を取り除き、下痢を止め、熱毒のある腫れ物を消退させるなどの働きがある。なお寒性とともに、能泄の作用がある苦味で、旬の野菜であっても脾胃虚寒の方は注意が必要である。外界の暑熱に加えて冷飲食の機会が増える夏は、元来、消化機能が低下する季節であり、多食によりさらに胃腸の陽気を損なって下痢や腹痛などのトラブルを来たす恐れがあるからである。

ところで冒頭に家族全員と書いたが、その内の一人ならぬ一匹だけは相も変わらずゴーヤが大好物である。この春に十歳を迎えた当家の柴犬まるは、厳しい酷暑のこの夏から冷房の効いた奧の居間、食堂で暮らしている。彼がこれまで近寄ることが出来なかった食卓にゴーヤの一品が載れば、高鼻を使い俺にもくれとばかりにその横でちんとお座りする。人生(犬生)における苦き思い出を勲章として弛まず怯まず勇往邁進せん。彼もまた年を重ねてそういう苦味を知る漢(おとこ)になったのかと感慨に浸っていたら、豈図らんや。今年初めて知ったが、犬は何故かゴーヤが好きらしい。





灰汁(あく)取りを談じる│華展の道具・番外編

2018-09-17 | 日記・エッセイ


いけばなで用いる花鋏、専用の鋸の重要性は今更言うまでもない。華展ともなればその他にも様々な道具が必要になる。その一つが花器の水面に浮かぶ塵を掬う「灰汁取り」である。料理では細かいメッシュを張ったおたまで灰汁を掬い取り、水を入れた容器の中で洗い落としてまた次を掬うというのが通常である。華展会場ではその都度水で洗うという手間をなくしたい。何よりもうっかり水をこぼして会場を汚す可能性のある容器は省きたい。華展における「灰汁取り」に課せられた使命はいかにそれ単独で手早く拾い取れるかにある。



「灰汁取り」は業務用、家庭用、卓上用と実に色々な形状がある。掬う部分が浅いと塵が流れやすく、反対に深すぎると水盤の底にあたる。①、②は方形やいびつな形の水盤において角の塵を掬いにくい。また連続して水面に差し入れると一旦掬った塵がまた水面上に拡散しがちである。③は掬った塵が中央のメッシュ上に捕捉される構造で、塵の流れ出しが少ない。最近求めた④はメッシュと嘴状の横口構造で、花器の隅に溜まった塵を掬い易そうである。元来、料理用の「灰汁取り」をいけばなに流用したので、柄の長さや彎曲具合など微妙なところでいまだ今一勝手が悪い。

いけばなの本質から離れた事柄をかくも熱く自問自答かと、ここまで書いた所で些か自嘲を感じたが、いやそうではない。医者も職人である。本業の大切な処置・手術に用いる器具に対する姿勢と何ら変わらず、何をするにも自分の道具に拘る気持ちを失ってなんとする。最後の④はいまだ実地の使用経験はなく、いずれ必ず検証する心積もりである。道具の選択とともに心すべき事は、「照らし合せ見しに」、「拾ひとりてかずかず見しに」の実証主義に基づく検証である。

花野を巡る

2018-09-15 | 日記・エッセイ
連休前の今週末、「第51回 京都医家芸術展」、「綴喜・相楽医師会学術講演会」、「第15回 山城地域医療連携懇話会」、「日本東洋医学会京都府役員会」などの京都医療関連の研修会や会合が開催される。いくら算段しても時間の関係上、全てに伺うことは不可能であるが、出席したい、出席せねばならない会が賑やかに重なって思案するというのは幸せなことである。


第30回 大和未生流いけばな展 2018│やまとの秋

2018-09-13 | アート・文化


華道大和未生流、第三十回いけばな展が六日間の会期で開催された。華展最終日、後期展示で御指導のもとに担当させて頂いた盛花作品の花材を持ち帰り、茅(ちがや)と未草(ひつじくさ)のみ取り変えて水盤に生け直した。残花もまた一本も無駄にはせずに、家にある花器に様々に挿してみた。本年の日本列島は次から次へと台風、地震、洪水などの自然災害に見舞われた。寒の季節がようやく終焉と思いきや、次の萌えいずる春や薫風の首夏は短く、酷暑が始まるや何時終わるとも知れず、延々と全てを焼き尽くす炎熱の夏が続いた。季節の到来や移ろいをしみじみといとおしむ機会は失われ、この先、四季折々の風物に恵まれていた日本は、ひたすら暑い夏とただただ寒い冬の二つの季節だけの国になってゆくのだろうか。そうなれば、これまでの気候風土に育てられた、日本人のアナログ的な心情も様変わりしてゆくに違いない。

まさに激動の日本の只中、移りゆく季節の風趣を楽しむ気分にならない御方もおられるだろう。それにもかかわらず、今期のいけばな展は、昨年度の来場数をはるかに上回った沢山の御方をお迎えすることが出来たと伺っている。御多忙の中を華展会場にお越し下さり当流の花を愛でて下さった御方々に、末筆ながら流派の一員として心より御礼を申し上げたい。




さっぱりと│引き算の美学

2018-09-05 | 日記・エッセイ


西洋は「足し算」の文化、東洋は「引き算」の文化と評される。主題となる部分に焦点を合わせ周囲の不要となる要素を削ぎ落としてゆく美学的手法が「引き算」である。本邦の美意識を探るべく、「引き算」で築かれる「余白」の意義に言及した論説は枚挙に遑がない。この「余白」を支持する心情が如何なるところから生まれるのかは、「我が民族性の持つ一種の淡々たる明るさ、灰汁ぬけのした清楚な好みは、原始的なものながらに既に後世の「潔さ」を尚ぶ道徳の源を遺憾なく暗示してゐるとみられる。つまり毒々しくあくどいもの、しつこいことは初めから嫌ひな國民なので、いかなる意味でもさっぱり、あっさり、すつきりといふことが趣味に合ふのである。」(富士山│長與善郎著「東洋の道と美」)の一文が全てを語る。けだし「謂ひおほせて何かある」である。
 華道大和未生流の初代御家元の思い出として、奈良女高師附属女学校時代にお教えを受けた母は、御家元が「さっぱりと、さっぱりと」と絶えずおっしゃりながら、居並ぶ学生の拙い作品に御指導の鋏をお入れになったと折に触れて言う。明日より当流の奈良華展が前期・後期あわせて6日間の日程で開催される。

家庭での耳掃除

2018-09-02 | 医学あれこれ


『無理な耳掃除やめて ~ 風呂上り ぬぐう程度に』という記事が、本日9月2日の朝刊(京都新聞、暮らし欄)に掲載されていた。日耳鼻の学校保健委員会の朝比奈紀彦先生が御監修で、「基本的に家庭内での耳掃除はやめてください」という骨子のもとに、外耳道の皮膚表皮の落屑物と皮脂腺・耳垢腺からの分泌物の混合物から成る「耳垢」(じこう、みみあか)は皮膚を保護する働きがあること、耳垢は本来、外耳道の外に自然に排泄される機構があること、家庭で行う耳掃除が耳垢栓塞、外耳道損傷、鼓膜穿孔を起こすリスクがあることなどが詳細に述べられている。

家庭での耳掃除に関してもう少し付け加えさせて頂くとすれば、「大人が子供さんの前で絶対に自分の耳掃除を行わない」「耳かきの道具、綿棒などは決して子供さんの手の届く所に放置しない」である。背伸びをして大人の真似をしてみたい年頃の子供さんが自分ひとりでやってみた、あるいは親御さんを真似て弟や妹に耳掃除を試みた、その結果、外耳道や鼓膜を傷つけて大出血で受診という事例が時にある。中には怪獣の尖った尾を耳に突っ込んでという場合もあり、留意すべきは耳かきの棒に限らない。さらに子供さんは当初は大人しく身を任せていても、何をきっかけに急に動くか予測不能である。《お母さん、謝らないで下さい》(2017/5/14)のブログ記事に書いたが、どのような耳鼻咽喉科の処置であっても介助による固定は必須である。従って私は公私ともに子供の耳掃除(医療行為としての名称は、耳処置、耳垢栓塞除去)を介助なしで行ったことはこれまでに一度もない。

そして大人、子供に限らず、家庭での耳掃除を契機に起こりうる可能性のある耳の病気のいくつかを最後にまとめておきたい。誤って加えた深い一撃で鼓膜を破ると(外傷性鼓膜穿孔)、傷つけた位置によっては鼓膜後方に繋がる耳小骨の連鎖が壊れ(耳小骨離断)、聴力回復の為には手術加療(鼓室形成術)が必要となる。鼓膜や中耳損傷のみならず内耳にも障害が及べば、治療をお受けになっても難聴や耳鳴の改善が困難となる場合がある(外傷性内耳障害、急性音響外傷)。また皮膚を擦過して生じた微小な外傷から感染を来すことがある(外耳炎)。外耳道内腔の皮膚が炎症を来して腫脹すると、外耳道は外側を軟骨や骨に囲まれている為に、腫れあがった皮膚は内腔へと盛り上がる。その結果、激しい耳痛や耳漏を伴って外耳道の孔が殆ど塞がる事態も起こる(外耳道蜂窩織炎)。たかが耳掃除とお思いかもかもしれないが、されど耳掃除であり、ゆめゆめ侮ることなかれである。