花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

真友│花便り

2020-08-27 | アート・文化
世間の人間は婚姻で血族を殖やし、兄弟や子孫の頭数を揃え、さらに金でもって奉公人をできるだけ多く召し抱えようとする。それはそれで結構だが、それでいて肝心のことを考えない。そうした連中はいかに大勢いようと、みな小さな危険をおそれ自分の身を守ることに汲々として、誰一人身を挺して自分の父や兄を守るわけでない。一大事に際し主人を危険から救い出そうとするわけでもない。──だが、それに対して丁度それと逆さまのことをしてくれる人こそが真の友人なのである。
(第十日第八話:ジョバンニ・ボッカッチョ著, 平川 弘訳:「デカメロン 下」, 河出文庫, 2017)

Disiderino adunque gli uomini la moltitudine de’ consorti, le turbe de’ fratelli e la gran quantità de’ figliuoli e con gli lor denari il numero de’ servidori s’acrescano; e non guardino, qualunque s’ è l’un di questi, ogni menomo suo pericolo più temere che sollecitudine aver di tor via i grandi del padre o del fratello o del signore, dove tutto il contrario far si vede all’amico.──
(Giornata Decima, Novella Ottava│Giovanni Boccaccio:Decameron, p693, Aonia edizioni, 2020)







思想│花便り

2020-08-15 | アート・文化
要する所は人性の究竟的平等観と絶対的差別感との争となるのであって、頗る重大なる問題であったのである。勿論この交論は当時の学界に行はれたもので、一般の民衆には直接交渉は無かったとも云へるが、併し、思想は決して学者と云ふ特殊階級にのみ潜行すべきものではなくて、学界に顕れるものが必ず民衆の上にも何等かの形を取って顕れて来る。また一面から云へば学者は民衆の意志を能弁に論ずる機関であって、学者の頭に考へつく頃は無自覚の状態であるにしても、民衆一般の中にその思想は早くも何等かの形態を以て動いて居るものであるとも云へる。斯う言ふ予の考に誤がないとすれば、奈良朝から平安朝への転換期に、人々に依って代表されて論じられたこの問題には軽からざる意義があると思ふ。

(第二章 徳一の思想・信仰/島地大等著:徳一の教学について│田村晃祐編:「徳一論叢」, p85-86, 国書刊行会, 1986)


直観と共感│花便り

2020-08-13 | アート・文化
このことから、絶対は直観においてでしか与えられないと言うことができるが、反対に絶対でないところの他のものは、ことごとく分析の範囲へ入ってくる。直観とは、対象そのものにおいて独自的であり、したがって言葉をもって表現しえないものと合一するために、対象の内部へ自己を移そうとするための共感 sympathieを意味している。それと反対に分析とは、対象を既知の要素、言いかえると他のもろもろの対象とも共通な要素へ還元する操作である。
(形而上学入門 分析と直観│ベルグソン著, 坂田徳男, 三輪正, 池辺義教, 飯田照明, 池永澄訳:「哲学的直観ほか」, p9, 中央公論新社, 2010)

Il suit de là qu’un absolu ne saurait être donné que dans une intuition, tandis que tout le reste relève de l’analyse. Nous appelons ici intuition la sympathie par laquelle on se transporte à l’intérieur d’un object pour coïncider avec ce qu’il a d’unique et par conséquent d’inexprimable. Au contraire, l’analyse est l’opération qui ramène l’objet à des éléments déjà connus, c’est-à-dire communs à cet objet et à d’autres. Analyser consiste donc à exprimer une chose en function de ce qui n’est pas elle.
(Ⅵ Introduction à la métaphysique│Henri-Louis Bergson: La Pénsee et le Mouvant., p212, Flammarion, 2014)



これが稼業

2020-08-10 | 日記・エッセイ


「いいか、俺たちゃ遊びじゃねぇんだぞ。これが稼業だ。限りある時でいかに描くか、その肚が括れねぇんなら素人に戻れ。その方がよっぽど気楽だ」
 そして親父どのは皆を見回し、お栄にも顔を向けた。
「だが、たとえ三流の玄人でも、一流の素人に勝る。なぜだかわかるか。こうして恥をしのぶからだ。己が満足できねぇもんでも、歯ぁ喰いしばって世間の目に晒す。やっちまったもんをつべこべ悔いる暇があったら、次の仕事にとっとと掛かりやがれ」
 お栄はおのれがごくりと咽喉を鳴らしたのが聞こえた。

(第四章 花魁と禿図│朝井まかて著:新潮文庫「眩(くらら)」, p130, 新潮社, 2019)

<蛇足の独り言>玄人とは、全面ガラス張り(四面鏡張りではなく)の箱に入った筑波山麓、四六の蝦蟇である。何時何処に如何なる状況に置かれるとも、次なる油を垂らしてみせる剛毅な鈍感力が必要条件である。