花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

稽古は強かれ、情識は勿れとなり

2019-04-30 | 日記・エッセイ


様々な伝統芸術の道が廃れてゆく原因には「内部からの崩壊」もあれば、「外部からの侵食」もあるに違いない。前者の原因は皮肉にも、先哲が探求し創造した型を継承してゆくという、伝統芸術が担う使命の中に萌芽する。型を盲目的に踏襲してゆく中で、何時しかその規矩を生み出した本質を取り落としてゆく形骸化、《型の空洞化》である。後者の原因の一つは、時代の潮流への迎合姿勢に始まる《型の歪曲》である。江戸時代の漢方医家、和田東郭著『蕉窓雑話』の中で糾弾されている、いわゆる“人そばえの花”が好例である。“人そばえの花”が持て囃される時、型は社会風潮に媚びたものに歪められてゆく。いや媚びなんとする姿勢の発露こそが既に内部崩壊の序章である。

現代の趨勢である、“私探し”、“only one”を「正」とする価値観に裏打ちされた、個性を生かすという錦の御旗の下、模範とする既成の型は“私らしさ”を縛る前近代的な桎梏と貶められて、「譎」の烙印が押されることがある。『風姿花伝』序章の末尾に「稽古は強かれ、情識(じょうしき)は勿れとなり。」という言葉がある。強かれはたゆみなくの意味である。情識とは凡夫が持つ迷いの心であり、良い意見に耳をかさず自分勝手な考えに凝り固まることを意味し、師の御教えを守る稽古に対する反語として挙げられている。芸の修行に際して生悟りの我流に流れてはならぬという戒めである。平成最後の日にあたり、自戒の意味を込めて、拳拳服膺すべき言葉として此処に残して置こうと思う。

"A great civilization is not conquered from without until it has destroyed itself from within.” (文明が征服される根本原因は内部からの崩壊である。)
これは映画『Apocalypto』(メル・ギブソン監督、2006)のオープニングに引用された、歴史家、哲学者ウィル・デュラントがローマ帝国について語った言葉である。『アポカリプト』は、マヤ帝国の崩壊前夜、主人公の青年ジャガー・パウが風前の灯に置かれた捕虜の身から一人脱出し、ジャングルの中を追撃する傭兵団を討ち果たし、故郷で彼を待ち続けていた妻子とともに新天地を求めて彼方へと旅立つまでの大活劇である。ラストシーンは、帝国征服に押し寄せた、海上に浮かぶ西洋艦隊の木の間越しの姿であった。
 「内因為本、外因為輔」という諺がある。外襲は崩壊の最後の引き金に過ぎないことがある。『黄帝内経素問』における「不相染者、正気存内、邪不可干、避其毒気。」(正気が充実していれば、外邪の侵入は起らない、感染も発症も防げるのである。)の論述もまた同義である。



梅雪残岸に乱れ

2019-04-29 | 詩歌とともに

遍地香雲│齊藤拙堂著:「月瀬記勝」坤, 看雲亭蔵板, 1882

  五言 初春侍宴 一首   従二位大納言大伴宿禰旅人
寛政情既遠 迪古道惟新 
穆々四門客 済々三徳人  
梅雪乱残岸 煙霞接早春
共遊聖主沢 同賀撃壌仁


  初春宴に侍す
政を寛(ゆるや)かにして情すでに遠く 古に迪(よ)って道これ新なり
穆々(ぼくぼく)たり四門の客 済々(せいせい)たり三徳の人
梅雪 残岸に乱れ 煙霞 早春に接す
ともに遊ぶ 聖主の沢 同じく賀す 撃壌(げきじょう)の仁
(江口孝夫 全訳注:「懐風藻」、p166-168, 講談社, 2000)

寛大なる政(まつりごと)は、古(いにしえ)のまま道に従いてしかも日々新たである。四門よりかしこみて参内の仕え奉る群臣達は、三徳を備えた者たちが数多である。雪に見紛う梅は岸辺に乱れ散り、霞はけぶり初春の空に満ちている。謹みて聖主の御恩沢を拝し、太平の御代の御仁徳を賀し奉り、益々の弥栄(いやさか)を祈念いたし、いざ御一同、この宴をとことん楽しもうやないですか!





穀雨の花│牡丹華(ぼたんはなさく)

2019-04-28 | 日記・エッセイ


「僕は、その青桐や牡丹を見て、芸術というものは絶えず自然に対して謙譲でなければならぬということを久しぶりに肝銘させられた。
 しかし、どうして今更らしくそんな事に気がついたのだろう。
 おかしな話だが、その時一緒に居た友達も同じような感慨を述べていた。
 そして、二人で話し合ったのであるが、つまり、この例でもわかるように、この十年ばかりの間というもの、我々は何事に対しても実に思い上がった態度で接してきたのではないかということ-------また、何事に関しても、静かに考える余裕というものを失っていたのではないかということである。そしてそれと同時に、この牡丹と青桐の美しさは、我々にもう一つの事をつくづくと考えさせてくれたのである。
 それは一口にいうと禅坊主臭くなるが、柳は緑、花は紅ということなのだ。」

(黒澤明著:牡丹と青桐│大岡信, 田中澄江, 塚谷裕一監修:花の名随筆5「五月の花」, p42-46, 作品社, 1999)



穀雨の末候は、穀雨花として知られる牡丹の花咲くである。庭の牡丹はこの一週間で全ての蕾が花開き、早い品種はすでに花弁を散らし始めている。昨年夏の猛暑にやられて花芽がつかなかった株が少なからずあり、中国安徽省産、鳳丹皮の薬用牡丹も、二株のうち一株は葉が茂るばかりで花は咲かずであった。それでも今年は新たに新潟産の「春日山」と「時雨雲」の二品種が加わり、また鳳丹皮の一株は例年より小ぶりながらも九輪の花を咲かせてくれた。若い頃は唯々仰々しく賑やかに思えて、左程好きではなかった牡丹の花である。歳を重ねるにつれて増々と心魅かれる様になったのは何故だろう。

銀屏に燃ゆるが如き牡丹哉    明治三十年  正岡子規



大阪市中央公会堂の桜│義侠の相場師 岩本栄之助

2019-04-25 | 日記・エッセイ


「なぜなら「師」という言葉には「学問・技芸を教授する人」「宗教上の指導者」「専門の技術を職業とする者。医師・美容師」「中国周代の軍制で、旅の五倍、すなわち2,500人の称」等々、ズシリと重い意味があるからだ。「相場師」という言葉にはある種の畏敬の念すら込められている。相場道に精通した安達太郎によると、「相場師ほど精神修養の大切な職業はない。その終始怠らざる研究と、普段の貴重な体験とは、精密な観察、周到な注意、冷静な考慮と相まって、機敏で公平な判断を生み、沈着で、しかも果敢な実行力となり、確固不動の信念による進退は、行くところ可ならざるはなく------」とし、相場師には徳義が必須の条件であると述べているほどである。」
(鍋島高明著:日経ビジネス人文庫「日本相場師列伝」,p4, 日本経済新聞社, 2006 )

『日本相場師列伝』は明治から昭和の時代を生きた70人の相場師陣の逸話を収録している。第三章・明暗分けたインテリ相場師の章で、《中之島公会堂を残した侠気の人》として挙げられているのが、「北浜の風雲児」、「義侠の相場師」と称された岩本栄之助(1877~1916)である。大阪の両替商、岩本商店に生を受け、明治期の大暴落時に市場を買い支え、後に渡米実業団で彼の地の富豪が私財を投じて公共事業や福祉に寄与する振舞を眼にし、中之島の大阪市中央公会堂設立基金の原資となる大金(100万円、現在の50億円に相当)を大阪市に寄付した。第一次世界大戦の高騰相場の逆張りで巨損を背負った岩本栄之助は、この中央公会堂の完成を見届けることはなく、「その秋をまたでちりゆく紅葉哉」の辞世を残し風雲の生涯を霜降に閉じた。

大阪市中央公会堂は1913年に着工、5年の歳月をかけて完成し、現在、国指定重要文化財に指定されている。先々週末、桜花爛漫の時節に訪れた中央公会堂は、「岩本記念室」が設けられた地下一階は賑やかであったが、上の階に上がるにつれ人影が消え、耳を澄ませば閉じられた会議室の中から幽かに講演らしき声が漏れてきた。同じく「師」という言葉を持つ生業ながら、私は斯界とは無縁の素人である。踊り場近くに置かれた椅子に座って窓の外にすでに散り始めた桜の花びらを眺めていた時、修羅道にあっておのれの信念に従い去就を定め、弁明や悔恨のかけら一つ残さず時代を駆け抜けていった、鳴蝉潔飢たる男の大きな後ろ姿が見えるような気がした。




平成三十一年の万朶の桜

2019-04-21 | 日記・エッセイ


「大宰師として筑紫に赴任した旅人を、大宰府の官人たちは、けっしてあたたかい眼で迎えたとは思えない。なぜなら、当時、彼のすぐ下に居た太宰大弐は多治比県守であり、多治比県守は藤原兄弟と共に長屋王を死に追い込んだ陰謀の加担者であった。
 多治比県守ほどではないにしても、多くの官人たちは、多く藤原兄弟の息がかかっていた。息がかかっていないにしても、もう長屋王と藤原兄弟のどちらが勝つかはほぼ明らかであり、誰が一体、負け犬に加勢してひどい目にあうというようなことをあえてしようか。大伴旅人の周辺には、無数のスパイがいたといってよい。彼等は藤原兄弟の命を受けて、彼等の長官である旅人を監視していたのである。」

(第三部 大宰府にて│梅原猛著作集 第十二巻「さまよえる歌集」, p649, 集英社, 1982)

「無礼講そのままやれば無礼者」というような句をかつて何処かで読んだ記憶がある。集う人々の心底は様々であろうが、そのような状況下であっても、いやそうであるがゆえに、大宰師大伴旅人、配下の大宰府管下の全官人が集まり倭歌を詠んだ梅花の宴の意義は深い。
 それにしても万葉集の時代は歌の一つも詠めなければお話にならず、鼻息荒く歌垣に参加しても独りかも寝むとなるは必定である。歌の素養がなくとも公私ともに生活できる現代人で良かったと身にしみて思う。などと安堵していたら、「日本東洋医学会は、令和年度から学術集会参加、演題申込、あるいは論文投稿の際に一首ないし一句の提出が義務付けられることになりました。」という通知が次の会報に載っているかもしれない。江戸時代の医家、儒学者、亀井南冥先生の『古今斎以呂波歌』には、「医は意なりと意と云者を会得せよ、手にも取れず、畫にもかかれず。」、「論説をやめて病者を師とたのみ、夜を日に継いで工夫鍛錬。」などの多くの含蓄ある歌がある。通仙散を完成し世界で初めて全麻手術を成功させた華岡青洲先生が、春林軒を卒業する門下生に下された「竹屋蕭然烏雀喧、風光自適臥寒村。唯思起死回生術、何望軽裘肥馬門。」の漢詩しかり枚挙に暇がなく、先哲の医家は皆一流の教養人である。
 梅花、桜花に続いて、また新しい季節がはじまろうとしている。

  探丸子の君、別墅の花見もよほさせ給ひけるに、昔のあともさながらにて
さまざまの事思ひ出す桜かな   真蹟懐紙 松尾芭蕉


電信柱

2019-04-20 | 日記・エッセイ


さる医学関連の御講演で、何も悩むことはない、全ては※※に書かれているとおっしゃった言葉を拝聴して違和感を覚えたことがある。改めて業界を見渡せば、表現型は各自様々であるものの、医者は多かれ少なかれ、他人の言うことなすことをそのままには信じない。必ず自分の眼で見て手を出して検証して確かめようとする。この懐疑精神、実証主義こそがその身に染み付いた行動志向である。だから無心で従順な生徒にも謙虚で敬虔な信者にもなれない。優れたモニュメントであればある程、尾籠な喩えで恐縮ではあるが、あたかも犬が電信柱に向かって足を挙げるが如く、其処に我が匂いを付けんとする習性がある。おのれが何を拝受してどの様に血肉とさせて頂いたかという“しるし”を其処に捧げることが、卑小なおのれの前にひたすら気高く聳え立つ柱に対するリスペクトである。

理屈やない、人を感じなあかん

2019-04-14 | 日記・エッセイ


「おとうちゃんは、ただの菓子屋やさかい、難しいことはようわからんけどな、結局、相手は人さんや。相手はんがどないなお人で、どないな暮らしをしてきやはったか、人を感じな、ええ仕事できんのと違うか。理屈やない、人を感じな。」

「感じな」は、「感じなあかん」の省略であり、「感じなければならない」という意味である。テレビドラマ『巨悪は眠らせない 特捜検事の標的』の主人公、少壮気鋭の特捜検事、富永真一(玉木宏、敬称略、以下同文)の自宅を、ある夜、老舗の菓子匠「冨永」を営む父親、冨永一雄(田村亮)が、端正込めた生菓子を手土産に陣中見舞いに来訪する。大事な事件の時やさかい一服せなあかんと父親が差し入れた葛餅を、冨永は一口賞味して旨いなと日頃忘れていた笑顔を浮かべる。差し向かいで食べながら、思い悩む心底を吐露する息子に向かって、菓子職人一筋に生きてきた父が訥々と語りかけるのが冒頭のセリフである。
 目の前の物事の段取りを最優先すれば、有形、無形を問わず、確実に取りこぼすものがあると、医療とは関係のない私事で思い知る出来事が最近あった。日頃は何とも思わぬ鎧が重うなった胸中の時、不思議に何の気なしに開けた本の一節、あるいは偶々観たドラマや映画のワンシーンの中に、天啓の様に心に舞い降りてくる指針を与えられることがある。

新元号「令和」を寿ぐ│初春令月 気淑風和

2019-04-01 | アート・文化


梅花の歌三十二首 幷せて序
天平二年の正月の十三日に、師老(そちのおきな)の宅に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)ぶ。時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす。しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾く、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は穀に封ぢらえて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故雁帰る。ここに天を蓋(ふた)にし地を坐(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然自ら放(ゆる)し、快然自ら足る。もし翰苑にあらずば、何をもちてか情(こころ)を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。(万葉集・巻第五)

天平二年正月十三日、師の老の邸宅に集まって宴を開いた。折しも、初春の佳き月で、気は清く澄み渡り風はやわらかにそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香のように匂っている。そればかりか、明方の嶺にには雲が往き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋をさしかけたようである。夕方の山洞には霧が湧き起り、鳥は霧の帳に閉じこ林に飛び交うている。庭には春生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋来た雁が帰ってゆく。そこで一同、天を屋根とし地を座席とし、膝を近づけて盃をめぐらせる。一座の者みな恍惚として言を忘れ、雲霞の彼方に向かって胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。ああ、文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。漢詩にも落梅の作がある。昔も今も何の違いがあろうぞ。さあ、この園梅を題として、しばし倭(やまと)の歌を詠むがいい。
(青木生子, 井出至, 伊藤博, 清水克彦, 橋本四郎校注:新潮日本古典集成 万葉集二, p61-70, 新潮社, 1978)

三十二首の内
春されば まづ咲くやどの 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ
            筑前守山上大夫(山上憶良)

青柳 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし 
            笠沙弥(沙弥満誓、俗名笠朝臣麻呂)

我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも
            主人(大伴旅人、序における師老)