花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

辛夷(しんい)

2018-02-23 | 漢方の世界


生薬「辛夷(しんい)」に関係するモクレン属、もくれん科の樹木には下記の種類があり、3~5月の開花直前の花蕾を採取し陰干したものを用いる。第十七改正日本薬局方で「シンイ」の基原植物に挙げられているのは、ハクモクレン以下の五種である。冒頭写真はコブシの花で、萼片に包まれた花蕾は6枚の白い花弁を開く。

モクレン(Magnolia. liliflora Desr.);木蓮、木蘭
ハクモクレン(M. denudate Desr.);白木蓮、玉蘭
ボウシュンカ(M. biondii Pamp.);望春花
マグノリア・スプレンゲリ(M. sprengeri Pamp.);湖北木蘭、武当木蘭
コブシ(M. kobus DC);辛夷、拳
タムシバ(M. salicifolia Maxim.)

「辛夷」は辛温解表薬に分類され、薬性は辛・温で、肺経・胃経に属する。花蕾が「荑」(テイ、つばな)に似て、辛味であることから辛夷の名となった。茅花(つばな)は茅(チガヤ)の花穂である。ちなみに『詩経』碩人(せきじん)で「手如柔荑」(手は柔荑(じゅうてい)の如く)と詠われた柔荑は茅の新芽である。「辛夷」の効能は発散風寒、宣肺通鼻(肺経の風寒感冒を散じ、鼻竅を通じる。)であり、耳鼻咽喉科疾患に縁が深い生薬である。すなわち軽浮上行の薬勢を持ち、風寒を散じ胃中の清陽の気を頭部に上達させ、鼻腔通気を改善して頭痛を止める働きを有する。配伍されている方剤には、葛根湯加川芎辛夷、辛夷清肺湯、蒼耳散などがある。

 代春贈  白居易
山吐晴嵐水放光、辛夷花白柳梢黄。
但知莫作江西意、風景何曾異帝郷。

(白氏文集巻第十六)
 春に代りて贈る
山は晴嵐を吐き水は光を放つ、辛夷花白く柳梢黄なり。
但知(ただ)江西の意を作(な)す莫(な)くんば、
風景何曾(なん)ぞ帝郷に異ならん。

白蓮の花がふらせる風花の舞ふ山峡を白狐とあゆむ
             不穏の花 富小路禎子

天下の名城、大阪城は落ちず

2018-02-15 | 医学あれこれ


耳鼻咽喉科領域の回転性めまい疾患を形成する条件は二つ、病位がどちらか一方である「一側性」、そして疾病の発症から頂点までの進展が急激で速い「急性」である。一側性病変であっても障害の進行がゆるやかである場合、また両側の障害が同時期、同程度におこる場合は、回転性めまいよりもふらつきや浮動感が主体となる場合が多い。どちらか一側の内耳(前庭)に生じた障害は、あたかも等しい高さの下駄の歯の片側が急に短縮したような状態を引き起こし、身体はバランスを崩して歯の高さが減った側(機能が低下した側)に転倒する。

ところで一側難聴の病態が固定した後に、健康側の耳が肩代わりして両耳分の聴覚を獲得するということはない。一方、平衡系は一側の前提機能低下や廃絶がおこっても、対側の前庭神経核をも含む脳幹や小脳神経系を介する中枢性の代償機構の発達が起こり、破綻した平衡システムを再構築するために前庭眼反射(VOR)や前庭脊髄反射(VSR)のremodelingが生じる。頭部や躯幹の姿勢を適正に保ち運動を可能にするインフラが再構築される結果、再び歩行や運動が可能になってゆく。

その過程はあたかも、大阪城の一角が攻撃を受けて機能不全に陥るとも、幾重にも張り巡らせた外堀や内堀、さらには堅固な真田丸のような防御ラインで本丸への侵襲を防ぐかの如くである。平衡システムはやすやすと白旗を挙げることなく、機を待ち捲土重来をめざすのである。左右の蝸牛と聴覚中枢を結ぶ経路を主体とした聴覚系に対し、平衡系に関連する身体器官は頭部に限局せず、頭部より下にも存在する。めまい疾患の治療において、耳鼻咽喉科医が守備範囲として内耳、前庭病変に注意を払うことは必須であるが、全身に目を向けねばならぬ理由のひとつがここにある。

会場受付にて

2018-02-13 | 日記・エッセイ


とある学会会場で受付のお役目に付いた日の事である。華やかに若い方々に前列に座って頂き、当方は後方部隊として参加費の出納に携わっていた。来場された方々の殆どは、受付に辿り着いてからおもむろに財布からお札を取り出される。数千円の会費に対し、壱万円をお出しになる方が過半数を遥かに超えた。財布に折りたたまれていた壱万円札や千円札は、当然深々と折り目が入っているか湾曲した癖がついている。その中に御一方、懐の長封筒から新札の千円札を揃えて取り出してお納め下さった方がおられた。

会計元締めの先生は御多忙の中、多量の整えた千円札を周到に御用意になっていたが、途中からは参加者からお納め頂いた千円札がお釣りに回ることになる。出てゆく古札の皺を後方で伸ばそうとはしたものの、幾多の修羅場を潜り抜けてきたかもしれない古強者のお札は、一向にこちらの意向になど従ってはくれない。思い返せば、いかに使い込まれた古札であろうともお札はお札である。何よりも過不足なくお預かりする、お釣りとしてお納め頂くことが、受付で金銭出納にかかわる者が守るべき綱領である。ましてや本日はお日柄も良くの披露宴でも祝賀会でもなく、学術研究の向上発達を要件とする学術集会であった。参加者は受付手続など素早く終えて講演会場にお入りになりたい。主催者側にとっては一人でも二人でも多くの御来場を頂いて、活発な議論の内に盛会に終わればそれが一番である。
 確かにそれはそうなのであるが、それでも綺麗なお札をやり取りするに越したことはない。会が無事に終わっての帰り道、先の奥床しいお気遣いの御方の顔が心にふと浮かんできた。

多紀元悳(元徳)│「医家初訓」

2018-02-10 | 漢方の世界

多紀元悳著「廣惠濟急方」│東都書肆

2018年NHK正月時代劇「風雲児たち~蘭学革命篇~」において、唯一釈然としなかった点は劇中の漢方医の扱いである。『解体新書』の将軍への献上阻止から杉田玄白等の襲撃まで、既得権や権威を守らんと暗躍する“蘭学革命”に対抗する陰険で狭隘な体制派として卑小化されていた。映像としては実に解りやすいプロットである。しかし蘭方医が革命志向、漢方医が保守志向かと言えば然にあらず。元来、臨床医家というものは保守派(政治的な意味ではありません)には程遠い。何故なら古今東西を問わず、其の内に必ず脈々と流れている底流が懐疑精神、実証主義であるからである。

ドラマではヒールとしてあえて皮相浅薄に描かれていた多紀元悳(元徳、もとのり)(1695-1766)(演じた俳優さんは山西 惇)であるが、史実的には医官の最高位で将軍の侍医を司る「奥医師」の重職を務めた漢方医である。字は仲明、通称は安元、名は元徳、号は藍渓、永壽院と称し、『医心方』の編著者、丹波康則を医祖とする本邦漢方医界の名門、多紀家の六代目である。元悳の父、元孝が設立した私塾の医学校、躋寿館(せいじゅかん)が焼失した際に、再建にあたり「私財をなげうって無一文となり、自宅の屋根の修理もかなわず、雨の日は傘をさして食事をし、職人の支払いに窮して往診の駕籠の戸をはずして与え、そのため元日の登城に戸のない駕籠で参上したという。」(漢方医学書集成41, p9)であり、家産を蕩盡するも少しも意としていない。後に躋寿館は幕府の医学教育機関として官立化され医学館に改称され、歴代の多紀氏が館長として教導の任についた。

元悳の著作には、救急医療に関する家庭の医学書、冒頭写真の『広恵済急方』(こうけいさいきゅうほう)、『養生大意』、『医学平言』、および還暦の年に著された、初学者に医家としての志を説いた『医家初訓』がある。時代を越えて『医家初訓』には、遥か後代の木端医師の心を揺さぶる言辞が其処彼処に散りばめられている。汲々と身の保全を計り、私利私略を巡らす頑迷固陋な医家の姿などは何処にもない。

「醫家恥べきの最とする所は本業の拙より外はなし。」(醫家初訓│「杏林叢書・上」, p673)

「凡醫家習業は學と術と相須てなることなり。(中略)醫経本草等の軌範を以て病人に施し、又病人よりして醫経本草の説に照し病證變化の機と薬剤の當否を參伍し、彼是塾案し数年の間歴史経験すること潭心精思九折の功を積て遂に良工たるべきなり。」(同, p678)

「福醫の有様を羨み其行を學ぶべからず。福醫とは醫の名を以て榮利を貪り寛闊に暮す醫賊のことを云なり。」(同, p675)

「衣服居宅の美ならず従騶の盛ならざるを恥とするは、婦女子の恥とする所にて丈夫のあるまじきことと知べし。」(同, p674)

此処に述べられているのは、本業が拙き事を最も恥とし、学問なくて徒に治術を施さず、反対に紙上の空論、文義章句の間に拘泥せず、治術に心を潜めること、以上の治学兼備の姿勢をもって、臨床現場で専一に病人に誠意を尽くすことを志した臨床医家の姿である。それが故に「醫事の上に就て見聞を廣め意智を益すことなし」、「元来根柢なければ益べき智もなく伸すべき才もなく」、「外飾華麗に口給を以て虚名高く」の《福医》を舌鋒鋭く糾弾する激しさは類をみない。一見《福医》とは、受診するだけで病が直る様な御利益のある医師かと勘違いしそうであるがそうではない。口給を以てとは、『論語』公冶長篇「人に禦(あつ)るに口給を以てすれば、屢(しばしば)人に憎まる」と述べられた口舌の徒である。
 学識と臨床経験、教養と人生経験に裏付けられた一連の一家言を拝すれば、大行は細謹を顧みずという剛毅果断、一箪の食一瓢の飲を楽しむ清廉潔白、そして自他ともに極めて厳格な真意一到を併せ持った、多紀元悳の御人となりが彷彿と眼前に浮かぶ様である。最後にもう一度、『医家初訓』の言辞を記して先哲に敬意を表したい。

「殊更醫の徒は初學のときより志を立ること堅固にすべし。醫の志を立るとは、忠孝仁慈を本とし治學兼備の良工となり、上は君父の身を安じ下は衆庶の疾を救はんと心を専らにし意を一にするを云なり。」(同, p671)

「人は萬物の霊にして人の命より重きはなし。其重き命を司る任なれば、凡百技藝の中に於て醫業ほど重きはなかるべし。」(同, p672)

「凡醫家業成りと思ふとも猶足らずとして初學の時の心を忘れず、手巻を釋ず、老至るとも怠るべからず。讀は讀ほど疑ふべきことあり。實に熟したりとは定がたき事多ければ、夕に死する朝までも此年を廢すべからず。」(同, p678)
*「手に巻(かん)を釋(と)かず」は本を離さない、読書を止めないの意味である。

参考資料:

富士川游, 小川剣三郎, 唐沢光徳, 尼子四郎編:「杏林叢書・上」, 思文閣, 1924
大塚敬節, 矢数道明編:近世漢方医学書集成41「多紀元簡」, 名著出版, 1980