花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

断捨離に思う

2016-02-28 | 日記・エッセイ
内視鏡システムの一新にあたり医院内を整理整頓していたら、長らく取り出す機会がなかった開院当時の諸機関への申請書や契約書一式を久しぶりに目にした。これを好機に古くなった医学書や私的資料の多くを処分したのだが、何時もの体たらくで、もう少し置いておこうかと幾分はまた棚に戻っていたりする。末尾に掲げたのは、京都府医師会の会報、京都医報新年号の一隅に載せて頂いた新春随想である。



「新春随想~断捨離に思うこと」 (京都医報 No.2068、平成28年1月1日発行)

 新年明けましておめでとうございます。
「断捨離」と言う言葉が世に広く知られる様になったが、ものを断つ、ものを捨てる、そしてものから離れるということは実にむつかしい。色々と溜めこんだままの私は「断捨離」が出来ない典型例である。自慢ではないがこれだけは人後に落ちる気がしない。
 さて当家は庭の一隅で毎年、素人園芸で何らかの野菜の苗を育てている。春や夏にはトマトやキュウリの脇芽が野放図に伸び放題となり、秋口にはゴーヤの黄ばんだ葉とつるがだらしなく捨て置かれたままの畑となる。この原因のひとつは片付けをついつい先延ばしにするという私の横着さであり、さらに折角ここまで枝葉を伸ばしたものに引導を渡せないという、ぐずぐずとした感傷のためである。近隣には専業や兼業農家のプロが沢山おられるので、この様なだらしない優柔不断な状況は、立ち寄られた際に早速に御指摘を受ける仕儀となる。
 それでは玄人の仕業とはどのようなものなのか。週末の飼い犬の散歩が私の担当で、近隣の田畑に沿った道を一週間おきに歩くのが習慣であり、その際に姿勢の違いをまざまざと見せつけられる。例えば、先週にはまだ青々と葉が繁り多少の実が残っていた筈の作物がすっかり綺麗に取り払われていて、新しく植えられた幼苗がはやばやと若葉を伸ばし始めていたりする。旬の収穫が終われば早々に始末する、そして遅れることなく新たな作付けをする。これが農家の方のお取りになる常道なのである。 
 ほんの数か月前に過ぎ去った秋を振り返っても、稲穂が金色に実る時節は生産者の農家にとって慌ただしい農繁期であり、収穫の喜びの季節である。ひたぶるにうら悲しい凋落の秋などという情緒纏綿の感傷が入り込む隙は微塵もない。収穫というものには取捨選択というふたつの要素があり、豊穣に実ったものを取り込むことのみならず、実り以外の物をこの時に果断に捨て去って原点に返ることでもある。
 そしてこのような農家の取り組み方は、秋の季節だけには限らない。一年を通じて先の季節をずるずると引きずれば、来季を見据えた次の一歩を踏み出すことが出来ないからなのだろう。これからの始まりに優先権を置くというのが、四季に応じた健全な生産労働なのである。猛々しい狩猟にくらべて、農耕は穏やかに植物を育てるなどというふやけたイメージを、長らく勝手に私は抱いていたのであるが、全く然にあらず。その労働精神は実にクールで峻烈でさえある。生業が分業となり、生活の多様化に伴って、何時しか日々の生活を通じて四季の循環を如実にその身に受け止める環境が多くの人からは失われて、人はそれとともに終わった季節の残渣を引きずったまま、これらに敢然と終止符を打って前に進み行く果敢さを取り落としていったに違いない。
 日常診療においてしばしば巡り合うのは、身体の弱い所をゆっくりと補ってゆくのが漢方なのですねと申される方、色々と衰えて来たからと各種のサプリメントを取り揃えておられる方等々である。邪実を捨て去る「瀉」よりも虚を補う「補」のイメージを中心にして生活養生をお考えになる方々は、挙げてゆけばきりがない。しかし紛れもなく、生きるとは心と身体に有形無形の病的代謝産物が溜まりゆくことに他ならないのではないか。身も心も暖衣飽食となった現代における四季の養生は、果たしてどうあるべきなのだろう。少なくともその一つは、今一度、大自然の循環の中にしかと身を据え置いて、足し算よりも引き算を、取り込むことよりも捨て去ることにシフトを切ることではないかと思えてならないのである。





身をつくしてや│戯曲「桂春団治」

2016-02-27 | アート・文化


『わが喜劇』(館直志、二代目渋谷天外著)の中に掲載された戯曲「桂春団治」をこの正月に読み返した。彼をこよなく愛するが故に並とは違う女の人生を歩んだ三人の女性が描かれ、その肩越しに覗くかたちで初代春団治像が浮かび上がる。原作「小説 桂春団治」(長谷川幸延著)における色模様は湿熱内盛の世界である。芳香化濁、清熱祛湿を経て、戯曲「桂春団治」では一幅の舞台に昇華されている。

三人三様の設定は以下の通りである。「おたま」は逆鱗に触れるのを百も承知で、師匠のあんたには芸人の苦しさは分かっても人間の苦しさが分かってないと言い放つ。生来冷たい性(さが)かと思うほどの冷静さを見せて身の引き時を決断する。「おとき」は、騙され泣きすがるだけの世間知らずの嬢さんから、程経て春団治が訪れて来た時には戯れ言をさらりといなす大人の女性に成長する。再びの別れに際して、日本一になっておくれやすと万感の言葉を絞り出す。「おりう」は春団治のために蕩尽した御寮人さんで、冒頭から噂になるも前篇で姿を見せるのは一度だけである。彼が彼岸へ旅立つ枕元で、おたまさん、おときさん、たった一人の子供の春子さん、みんなの手を握ってゆかせてあげたいとその人となりを見せる。彼女らは男の芸の肥やしにされて舞台の隅に転がるだけの女などではない。大向こうと闘い続け一世を風靡し、賑やかな大輪の話芸の花を咲かせた春団治師匠の業績が偉大であろうとも、この女性陣がなにわの春団治に敢然と差し出した澪標(みをつくし)の凄味に比べたら、それさえもが虚仮威(こけおど)しに映る。

金子光晴の詩《葦》には、「愛憎の/もつれのまゝに/うきつ、しづみつ、/なにをみるひまも僕にはなかった。/しかし、おどろく程のことはない。/女たちの/やさしさ以外は/みんなつまらないことばかり。/葦の葉から/葦の葉へ/ぬけてゆく風のように みんな/こけおどかしにすぎないのだ。」の一節がある。心揺さぶられるのは無私の心から生み出されたやさしさだからであろう。見返りを期待すれば、示すやさしさは撒き餌でしかない。女大学が指し示す静謐な女の道からはみ出た生き方であっても、三人の内の誰一人として最後まで性根が曲がった女性に描かれていないことがしみじみと余韻を残す戯曲である。



修練の道

2016-02-25 | 日記・エッセイ


今月、最新の内視鏡システムのデモを受ける機会を得た。勤務医の頃から触れているメーカーの光学器械であるが進歩には目を見張った。私が研修医になった1980年代初頭、指導医が執刀なさる狭い術野を傍らで覗き込めない手術は、いかにして技術を身に付けるべきかと真剣に思い悩んだものだった。その後、内視鏡下副鼻腔手術などでは術野の画像がモニターに大きく鮮明に映し出され、術者以外の医師、スタッフを問わず進行中の手術をリアルタイムに経験することが可能となり、かつてに比べはるかに「術を盗みやすい」、「術を盗ませやすい」ハード環境が整った。これに加えてソフト面においても、新人に知識や技術をうまく伝達して育成できないと指導、管理能力を問われるという、近年の意識変革がより効率的な術の伝授を可能にした。手取り足取りで育てますという、一見やたら優しげな時代が到来したのである。もっともただ注ぎ込まれるものに対し受け身のまま、己で味付けしてゆく創意工夫の意識を欠いていたならば、その最終的な仕上がりには雲泥の差が出ることに違いはない。今も昔も能動的な「術を盗む」という姿勢が、どの道の修練においても求められることには変わりはないのだろう。そして、かつてアクセス制限があった技術情報が広く開陳される時代というのは、新人がそれらを短期間にマスターすることがもはや当然となったことを意味する。その世界に生きる業界人とみなされる最低仕様が、はるかにハイスペックになっているのである。

山茱萸(さんしゅゆ)

2016-02-18 | 漢方の世界
山茱萸(さんしゅゆ)は、若葉の芽吹きに先立ち、黄色の小花からなる集合花を枝一杯に咲かせるミズキ科の落葉小高木である。別名、春黄金花(はるこがねばな)、秋に楕円形の赤い実を鈴なりにつけることから秋珊瑚(あきさんご)とも言う。この実から種を除いた成熟果肉が、収渋薬(収斂薬、固渋薬とも言う)に分類される、同名の生薬「山茱萸」である。収斂、固渋とは、体内や体表から汗、血、便などの液体成分が漏れ出るのを止める作用を称する。薬性は酸、渋、微温で、帰経は肝・腎経に属する。肝血と腎精を滋養する補益肝腎の要薬であり、さらに斂汗(止汗)、止瀉(止痢)、固精、縮尿、止帯(帯下を止める)、止血などの作用を有し、発汗過多、盗汗、遺精、尿失禁、月経過多、五更瀉の下痢に用いられる。山茱萸が配伍されている方剤には、六味地黄丸、枸菊地黄丸、八味地黄丸、牛車腎気丸などがある。

山茱萸にけぶるや雨も黄となんぬ    水原秋櫻子




ある夏の思い出

2016-02-16 | 日記・エッセイ
大阪大学総合学術博物館にはじめて伺う機会を得たのは、高橋京子教授御主催の第7回特別展「漢方今昔物語~生薬国産化のキーテクノロジー」が2014年に開催された時である。江戸時代の薬草政策にかかわった森野旧薬園の事跡から二十二世紀に避けて通ることの出来ない生薬資源をめぐる諸問題までを踏まえ、今後の漢方医学が見据えておかねばならない方向性を明確に御教示下さった展示であった。
 その後に常設展示室を一巡し、湯川秀樹博士が揮毫なさった「天地有大美而不言、四時有明法而不議、萬物有成理而不説、聖人者原天地之美、而達萬物之理」の書を拝見した。『荘子』知北遊篇からの一文で、天地は優れた働きを遂げながら言葉では語らず、四季は明確な法則を持ちながら議論をせず、萬物は理を有しながらそれを説かず、聖人というものは天地の雄大なる働きを根拠として萬物の理に通暁しているという意味を示している。湯川博士は中間子理論でノーベル物理学賞を受賞された理論物理学の大家であるが、人間の叡智を傾けて萬物を貫く真理を追究してこられた博士が、大美あるも言わず、明法あるも議せず、成理あるも説かずの言葉にどのような思いを込めて筆を揮われたのだろうか。その書の前でしばし小さく佇んでいたのは、大暑に差し掛かった蝉しぐれが喧しい日であった。







薬のほかの配剤有り│医聖 曲直瀬道三

2016-02-15 | 漢方の世界


「まことに料理の上手は庖丁の他の料理をし、醫者の上手は薬のほかの配剤有りと見えし。」と言う感嘆の言葉で締めくくられているのは、「売家の松」で取り上げた神沢杜口著『翁草』の異本にある、江戸時代の名医、曲直瀬道三先生のエピソードである。御病人の心をしかと受け止めることは勿論のこと、お師匠様に簡単にお尋ねするなどは憚られたであろうこの時代、弟子の質問に対し懇切に説いてお聞かせになる道三先生は、実に仁恕溢れる御人柄である。事の次第は以下の通りである。

細川三斎の御母堂が重湯も通らぬ重病を患い、小倉内外の医師が治療にあたったが全く薬石効なし。そこで名医の呼び声が高い曲直瀬道三に使者をたてて御来訪を仰いだ。到着されるやいなや、周囲は御診察をお薬をと急き立てた挙句、うつけ坊主とまで罵り騒ぐ。これに対して悠然とかまえた道三先生は、
「さて病人の様躯見とゞけしに、都にて聞しに少しも違ふ事なし。さらば薬を調合せん、さりながら大事の病人也、今夜の薬は自からせんじ申べし」
と高らかに宣言され、三日間は人手に触らせず、御大自ら薬を調合なさった。病人はこの有難い薬を戌刻(19~21時)にはじめて服用し、翌朝にはもう元気を取り戻すことが出来た。そして三日目以降には処方の指示を出して人におまかせになったのであるが、一時は明日をも知れぬほどに重篤であった病人は順調に回復を遂げて、見事本復を迎えたのであった。是非とも御師匠様の名処方を書き残さねばと、帰京後に下向に付き従った弟子たちはその内容をお伺いした。道三先生はこれに応えて曰く、

「我此度の配剤何と印し申べき様なし。去ながら其あらましを語らん、抑、小倉より病人の事申来ると、使者に其病態を聞に、かつて死症にあらず、然ども、前々の療治皆補になづみ薬毒脾胃を責、我其事を都にてさとし、下りて病人を見るに少しも相違なし。又、彼是と時うつし夜に及び病人を見し事は、我に逢と薬をくれよといはん、やらずんば心元なく気を落とさん、かねて薬毒胸膈に満あれば、何とぞ其まゝに捨置たけれど、大事の病人薬をのまさで置まじければ、用るところ皆斗り也、此さゆを以て腹中を洗ひ薬毒を下し、其上にて予が見立てし薬をあたへしかば、何の造作もなくすらすらと本復せり、か々る大病人にさゆをのます事、付々の人も思ひ、病人もしらばいな事におもふべしと、自身薬をせんぜし也。」
(「随筆百花苑」第十巻、第九、當話、附名医話、p138-139、中央公論社、1984)
このたびの処方のあらましを何と記せと申すべきか。小倉の御病人の現症や治療歴を使者から伺うに死にいたる病などではない。これまでの治療がすべて補法に傾いて薬毒が脾胃を傷めているのであり、出向いて下した診断結果も同じであった。時間を置いて御病人を診たのは、逢えば薬ばかりを欲しがるからである。薬毒が胸膈に壅滞しているのであるからそのままに捨て置いて薬毒を抜くべきなのだが、切にお薬をと願う病人に何も出さなかったら不安で気落ちするに違いない。まずは白湯を飲ませて腹中を洗い薬毒を瀉し、その上で見立てた本治の薬を服用させたのであるから当然本復を得たのだ。白湯をただ白湯だとして飲ませたならば、周囲の人間も御本人も、重篤なのにこの様なただの白湯をのませるだけかと不信に陥るだけだろう。そこで大事の病人であるから自ら煎じると称し、それと知られぬ様にした訳だよ。(拙訳)

御著『啓迪集』巻之六、老人門には「不同年少用狼虎之剤務求速攻」と戒めが記されている。迅速な効果発現を求めて狼虎の峻剤を用いて薬毒を瀉すれば、老人においてはすでに虚している元気が脱してしまう弊害がある。一般人にとってはただの白湯であるが、病人の病因や病態生理を見極めた道三先生の手にかかればこれも薬方である。ところで『列子』巻第五、湯問篇には「甘蠅,古之善射者,彀弓而獸伏鳥下」と記された射術の名人、甘蠅老師が出てくるが、中島敦著「名人伝」において、甘蠅老師は断崖から半ば宙に乗出した危石の上に事もなげに立ち、見えざる矢を無形の弓につがえて頭上の鳶を鮮やかに射落してみせる。老師曰く「弓矢の要る中はまだ射の射じゃ。不射之射には、烏漆の弓も粛慎の矢もいらぬ。」なのである。一つの生薬も含まない道三先生御処方のこの白湯は、言うなれば「無薬之薬」か。