花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

新型コロナウイルス感染症COVID-19と中薬香嚢

2020-03-29 | 医学あれこれ


《新型コロナウイルス感染症COVID-19と嗅覚障害》の記事で、嗅神経性嗅覚障害に対する嗅覚トレーニング(olfactory training)(Hummel et al. 2009年)に触れた。用いられた嗅素はバラ・ユーカリ・レモン・クローブ香である。今回のCOVID-19の嗅覚障害に対し、これら4嗅素を用いた嗅覚トレーニングの検証報告はない。 
 嗅覚系の神経は絶えず新陳代謝が行われ、再生した嗅神経細胞が既存の神経回路に組み込まれて機能する為には継続した嗅覚入力があることが重要である。嗅素を用いる嗅覚トレーニングの刺激は、さらに上位中枢の神経活動網を再構築することも示唆されている。嗅覚刺激療法の意義は言うなれば、刺激がないとテンションが下がる嗅覚系に対して絶えず“喝を入れる”ということになる。

嗅覚障害に関連して今回注目したのは、武漢大学中南医院(Zhongnan Hospital of Wuhan University)のグループによる新型コロナウイルス関連肺炎の診断治療指針報告の中の「佩戴中薬香嚢」“Wearing perfumed Chinese herb bags for prophylaxis”と記された香嚢(匂い袋)の効用である。両論文には、多数の定型的・非定型的胸部CT画像の提示を含む、COVID-19の西洋医学的診断から治療に至る詳細な検討があり、末尾にはECMO(extracorporeal membrane oxygenation;体外式膜型人工肺)を装着した重症例の提示や治療経験・教訓が補足されている。加えて本疾患の中医学的治療の章では、予防及び新型冠状病毒肺炎診療方案(試行第四版)に基づく臨床病期や治療薬が論述され、予防の項において足湯、玉屏風散を骨格とする予防方、薬茶などとともに、8種類の生薬粉末を納めた香嚢の携帯が提示されている。

現時点でSARS-CoV-2感染後の嗅覚障害治療における嗅覚トレーニングの有効性を示すエビデンスはない。また本論文中には中薬香嚢を用いた実際の臨床データの提示は記されていない。生薬を用いた嗅覚トレーニングがSARS-CoV-2の感染予防、及び感染後の嗅覚障害合併予防や嗅覚障害の治療に有用であるかは現在のところ不詳であるが、耳鼻科医かつ漢方医として大いに関心を持っている領域である。さらにあくまで私見であるが、中薬香嚢は単に身につけるだけではなく、朝晩嗅ぐ習慣(両側のみならず左右片側づつ)を意識して行った方が有効と考える。

※中薬香嚢に含まれる生薬8種の性味、帰経、効能:
clove 丁香:温裏薬(辛温、脾・胃・肺・腎経;温中降逆、散寒止痛、温腎助陽)
Perilla frutescens 紫蘇:温裏薬(辛温、肺・脾経;解表散寒、行気寛中、解魚蟹毒)
atractylodes lance 蒼朮:化湿薬(辛苦温、脾・胃・肝経;燥湿健脾、祛風散寒、明目)
fineleaf schizonepeta herb 荊芥:解表薬(辛微温、肺・肝経;祛風解表、透疹止痒、消瘡、止血)
cinnamon 肉桂:温裏薬(辛甘大熱、腎・脾・心・肝経;補火助陽、散寒止痛、温経通脈、引火帰原、鼓舞気血)
biond magnolia flower 辛夷:温裏薬(辛温、肺・胃経;発散風寒、通鼻竅)
asarum sieboldii 細辛:温裏薬(辛温、肺・腎・心経;解表散寒、祛風止痛、通鼻竅、温肺化飲)
Elettaria cardamomum 小豆蔲:化湿薬(辛温、肺・脾経;温中祛寒、行気燥湿)


Cardamon(カルダモン)は、ショウガ科、エレタリア属(Elettaria)とアモムム属(Amomum)の複数の植物種子から作られる香辛料である。英文論文では“Elettaria cardamomum”、中文論文では「白豆蒄」(Amomum kravanh Pierre ex Gagnep.)(化湿薬(辛温、肺・脾・胃経;化湿行気、温中止嘔))との記載である。「草香」(Amomum tsao-ko Crevost et lemaire)(化湿薬(辛温、脾・胃経;燥湿御中、除痰截瘧))は「白豆蒄」と同じくアモムム属である。



靳英輝・他:新型冠状病毒(2019-nCoV)感染的肺炎診療快速建議指南(完整版). 医学新治 New Medicine 30:1, p51, 2020
5.4 中医中薬治療
5.4.1 指導原則 辨証施治、三因治宜、防大于治。
5.4.2 預防
(1)環境:執行国家相関規定,強調病源隔離,同時積極消毒環境,加強衛生管理。
(2)個人:飲食有節、起居有常、合理膳食、不妄作労、適度鍛錬。
(3)心理:情志相勝。
(4)薬物:
①室内活動環境熏艾,艾葉按 1~5 g/平方米,熏30分鐘,1次/日。
②佩戴中薬香囊(丁香、荊芥、紫蘇、蒼朮、肉桂、辛夷、細辛、白蔲仁各2g粉碎装袋外用,10天更換1 次)。
③中足足浴方(艾葉 10g、紅花 10g、干姜6g)将薬物物用熱開水浸泡后,加入凉 水至適宜温度,浸泡20分鐘左右。
④中薬預防方:黄耆12g、炒白朮10g、防風10g、貫衆10g、金銀花10g、陳皮6 g、佩蘭10g、甘草10g。正常成人連続5天為一療程(児童減半)。
⑤代茶飲:蘇葉6g、霍香葉6g、陳皮9g、煨草果6g、生姜3片、頻泡服。
⑥中成薬:霍香正气軟胶囊(水)、剤量減半。

Ying-Hui Jin et al: A rapid advice guideline for the diagnosis and treatment of 2019 novel coronavirus (2019-nCoV) infected pneumonia (standard version). Military Medical Research 7:4, p14-15, 2020.
6.4.2 Prevention
(1) Community. Implement relevant national regulations and take great effort to keep away from contaminated materials, disinfect the environment, and improve the healthcare management.
(2) Individual. It is recommended to take food in proper amount and balanced nutrition, have regular daily life and physical activities, and avoid overloaded work.
(3) Psychology. Develop proper interests and career in a mutual promoting manner.
(4) Drug. Including:
I. Fumigation with moxa in the room, 1-5g/㎡ for 30min per day.
Ⅱ. Wearing perfumed Chinese herb bags (clove, fineleaf schizonepeta herb, Perilla frutescens, atractylodes lance, cinnamon, biond magnolia flower, asarum sieboldii, and Elettaria cardamomum, 2g for each, crushed into powder and put it into bags for external use, change a new one every 10days).
Ⅲ.Prescription of Chinese herbs for feet bath (vulgaris 10g, carthamus 10g, and dried ginger 6g) Soaking the herbs in boiling water and bath the feet into the medical liquid when the temperature is suitable. Soak feet for about 20min.
Ⅳ.Prescription of Chinese herbs for prophylaxis: Astragalus mongholicus 12g, roasted rhizoma atractylodis macrocephalae 10g, saposhnikovia divaricata 10g, Cyrtomium fortunei 10g, honeysuckle 10g, dried tangerine or orange peel 6g, eupatorium 10g, and licorice 10g. Taking the medicine above yielded decoction once a day for adults, and for 5days as a treatment course. If for children, cutting the dose to half.
Ⅴ.Medical tea: perilla lea 6g, agastache leaf 6g, dried tangerine or orange peel 9g, stewed amomum tsao-ko 6g, and 3 slices of ginger. Soak the herbs in hot water and drink the water just like enjoying the tea.
Ⅵ.Chinese patent medicine: Huoxiang Zhengqi capsule or Huoxiang Zhengqi Shu (in half dose).

COVID-19の集団発生が最初に発生しその後封鎖された武漢市で、医療従事者への感染が相次ぐ中でSARS-CoV-2と戦い、限られた時間の中で発表なさった本論文は各々20~30総頁数に及ぶ。今回取り上げた部分は御労作の極々一部にすぎない。英語・中文版ともにWEB上で全文の閲覧、DLが可能である。



新型コロナウイルス感染症COVID-19と嗅覚障害

2020-03-27 | 医学あれこれ


新型コロナウイルス感染者における嗅覚障害や味覚障害の報告が各国から出てきている。3月27日現在、PubMedでCOVID-19/SARS-CoV-2と、Anosmia(無嗅覚)/Hyposmia(嗅覚低下)/dysgeusia(味覚障害)等の用語を掛け合わせて検索をかけたがヒットする論文は上がって来ず、いまだanecdotal evidence(事例証拠)蓄積の段階である。アメリカ耳鼻咽喉・頭頸部外科学会(American Academy of Otolaryngology-Head and Neck Surgery;AAO-HNS)は3月22日付で、アレルギー性鼻炎、急性および慢性鼻副鼻腔炎などの気道疾患を合併しない嗅覚障害、味覚障害例に対する注意喚起を行い、これらの症状を感染徴候として捉え隔離やウイルス検査を考えるべきであるとの警鐘を鳴らしている。
Anosmia, hyposmia, and dysgeusia in the absence of other respiratory disease such as allergic rhinitis, acute rhinosinusitis, or chronic rhinosinusitis should alert physicians to the possibility of COVID-19 infection and warrant serious consideration for self-isolation and testing of these individuals.

嗅覚障害をもたらすウイルスは、今回可能性が示唆されているSARS-CoV-2だけではない。《感冒後嗅覚障害》は上気道のウイルス感染後、鼻漏や鼻閉などの急性症状が消退したのにもかかわらず嗅覚障害が持続する状態を示す。患者さんは感冒罹患後から長期間経過した後に受診する為に、その時点でのウイルス同定は困難であることが多いが、ライノウイルス、インフルエンザウイルス、パラインフルエンザウイルスなどの関与が報告されている。ちなみに感冒当初、鼻副鼻腔粘膜が腫脹する時期の嗅覚障害は、吸入した空気が嗅裂部に到達できずに匂い分子が嗅細胞の受容体と結合できないために生じる。
 2017年、日本鼻科学会発刊の『嗅覚障害診療ガイドライン』では《感冒後嗅覚障害》(p514-516)について、中高年女性に多い、味覚障害合併が多いが大多数は味覚検査で異常を認めない風味障害である、病態は嗅粘膜および嗅覚伝導路にウイルスが感染し直接組織を傷害、またはウイルスに対する免疫応答(局所に浸潤した炎症細胞が放出する組織障害因子が関与)が2次的に嗅粘膜を傷害して発症する「嗅神経性嗅覚障害」(sensorineural olfactory dysfunction)の一種であると論述されている。予後に関しては、従来は回復困難と考えられてきたが、月~年単位の治癒経過を辿り嗅神経細胞が再生して嗅覚の自然回復があるとされている。治療は本邦では亜鉛製剤、漢方製剤(当帰芍薬散、人参養栄湯ほか)、ステロイド点鼻、内服ビタミン製剤、代謝改善剤を使用することが多い。また嗅素を用いた嗅覚刺激療法(olfactory training)(4種類の合成の香り、レモン(lemon)、バラ(rose)、ユーカリ(eucalyptus)、 クローブ(cloves)を一日2回ずつ嗅ぐ嗅覚訓練)の有効性が報告されている。
 嗅覚障害、味覚障害例において、鼻副鼻腔内に器質的病変がなければ即新型コロナウイルス感染を疑うべきか、障害例の全例にウイルス検査が必要かという問題は、今後さらなる検討が加えられる必要がある。さらにSARS-CoV-2を含む原因となるウイルスの種類により、もたらされる嗅覚障害や味覚障害の病態および障害予後に差があるのかも現時点ではいまだ不詳である。

人間は夢の如し│蘇軾「赤壁懐古」

2020-03-17 | 詩歌とともに


念奴嬌・赤壁懐古│「彩絵宗詞画譜」

  念奴嬌 赤壁懐古   蘇軾
大江東去 浪淘盡 千古風流人物
故壘西邊 人道是 三國周郎赤壁
乱石崩雲 驚涛裂岸 捲起千堆雪
江山如畫 一時多少豪傑
遥想公瑾當年 小喬初嫁了
雄姿英發 羽扇綸巾
談笑間 強虜灰飛煙滅
故國神遊 多情應笑我 早生華髪
人間如夢 一尊還酹江月


大江東に去り 浪は淘(あら)ひ尽くせり 千古の風流人物を
故塁の西辺人は道(い)ふ 是れ 三國 周郎の赤壁なり と
乱れし雲は 空を崩し 驚ける濤は 岸を裂き 千堆の雪を捲き起せり
江山 画けるが如し 一時 多少の豪傑ぞ
遥かに想う 公瑾の当年 小喬 初めて嫁し了(おわ)り 
雄姿 英發なりしを 羽扇(うせん) 綸巾(りんせん)
談笑の間に 強虜(きょうりょう)は灰と飛び煙と滅せり
故国に神(こころ)は遊ぶ 多情(のひと) 
応に我を笑うなるべし我が 早く 華髪を生ぜしを
人間(じんかん)は夢の如し 一尊 還(ま)た 江月に酹(らい)す

大江の水は東へ東へと流れゆき、波は千年の古人---自由不羈のすばらしい人々---のおもかげを洗いつくした。あの石垣の西の方、そこが三国のころの周瑜の古戦場、赤壁だと、ひとはいう。岩石は雲の峰のくずれたにもまがい、おどろしく、さかまく波がしらは岸をつんざき、雪の山にも似たしぶきを飛ばす。画をみるような山と川、あのひととき、ここに出あった英傑の数はいかばかりであったか。
 想いやれば、周瑜はそのとし、美しい小喬を迎えたばかりで、英雄のすがたいさましく、羽うちわと綸子の頭巾(をつけた諸葛孔明との)談笑のしばしのまに、強敵は灰けむりとなって、ついえ去った。ああ、故里へ魂ははせる。心ある人は、私が早くも白髪頭になったと笑うでもあろう。だが、人の世はまことに夢。まずはこの一本の酒を大江の月にささげるとしよう。
(中国詩人選集「蘇軾 下」, 126-130)

*「念奴嬌」:詞牌の名。
*「大江」:長江、揚子江。
*「公瑾」:周瑜の字(あざな)。孫権を補佐し赤壁の戦いで曹操軍を迎撃する。
*「小喬」:周瑜の妻。沈魚落雁閉月羞花の佳人、姉と合わせて二喬と称する。
*「酹」(ライ、そそぐ):その地の土主に酒をそそぐ祭儀。諸神の祭坐を連ねて祀り食を以てする祭祀が「餟」(テツ、まつる)、酒を以てするを「酹」という。(「字通」, p1582)
*版本による相違:
「乱石崩雲 驚濤列岸」(乱石は雲を崩し 驚濤は岸を裂き)
「乱石石穿 驚濤拍岸」(乱石は空を穿(うが)ち 驚ける岸を拍(う)ち)
強虜灰飛煙滅」(強虜は灰と飛び煙と滅びた) 強虜(きょうりょ):野蛮な強敵。
檣櫓灰飛煙滅」(檣櫓は灰と飛び煙と滅びた) 檣櫓(しょうろう):艦船の帆柱(檣)の上にある物見の台。ひいては軍船。
*「多情應笑我 早生華髪」:「應笑我多情」の倒句ととれば、感慨多端なこの私をどうぞ笑ってくだされ、さればこそ、雄姿凛々しい周瑜とは比べようもなく、このような白髪頭になるのだと、の意である。


赤壁2 決戦天下/Red Cliff II 呉宇森監督, 2009年公開

『三国志演義』では、周瑜は何度も怒気で矢傷を破り口吐鮮血(喀血)を繰り返した後に早世する。末期の言葉は「(天は)この周瑜を生まれさせながら、何であの諸葛亮(孔明)めまで生れさせたのか)」(「完訳三国志 四」, p219)、原文は「既生瑜、何生亮」である。怒りは肝を傷つけ(怒傷肝)、肝気鬱結、肝火犯肺を来し、灼熱の火邪は肺を焼灼して喀血に至る。『故事中医』《周瑜是吐血而亡嗎》は「周瑜只知兵家之事、帯兵打仗実為一員猛将、也不乏謀略、可以称為不可多得之将才。而孔明実乃一代師中之師才、他不僅上知天文、下知地理、中通人事、而且精通術数、熟読医理、深諳心理等、実不是周公瑾可比擬的。」(「故事中医」, p48-49)と周瑜と孔明を対比し、世に得難い将ではある周瑜、かたや森羅万象に通暁する孔明との器量の違いを述べている。『三国志演義』でのやたら怒りの沸点が低い将の姿とは全く異なり、映画「レッドクリフ PartII」の周瑜はまさに雄姿英発の快男子である。ラストシーンには、両者が友軍としてかわす最後の交感と、己がじしの道を進み行かんが為の別れが美しく描かれている。

参考資料:
汪氏編:「彩絵宗詞画譜」, 北京大学出版社, 2018
小川環樹編:中国詩人選集二集6「蘇軾 下」、岩波書店, 1962
白川静著:「字通」,平凡社, 1962
小川環樹, 金田純一郎訳:岩波文庫「完訳三国志 四」, 岩波書店, 2012
張景明主編:「故事中医」, 第四軍医大学出版社, 2015






新型コロナウイルス感染症におけるTCM│中薬による予防(一)

2020-03-08 | 医学あれこれ
Luo Hui et al.: Can Chinese Medicine Be Used for Prevention of Corona Virus Disease 2019 (COVID-19)? A Review of Historical Classics, Research Evidence and Current Prevention Programs. Chin J Integ Med, 2020

中薬(漢方薬)によるCOVID-19予防について検証を行った論文である。(1)中国最古の医学書『黄帝内経』に始まる伝染性疾患・疫病に関する古典の解析、(2)過去のSARSとH1N1インフルエンザについての分析疫学研究、(3)2020年2月12日までに23地域の公的機関から出されたCOVID-19の予防プログラムの検討の三方面から厳密で詳細な解析が加えられている。本稿で編訳と考察を行った全文(英文)はWEB上で閲覧、DL可能である。

(1)医学古典にみられる“疫病”予防(CHM(chinese herbal medicine) formula for preventing “Pestillence” in ancient CM classics)
“pestilence”(refers to fatal epidemic disease, wenyi;予後不良の伝染病、瘟疫(うんえき))の予防及び治療理論は中国最古の医学書『黄帝内経』に始まる。本書に記された伝染病の伝播防止における二大原則は、体内に健康な気を保ち適切な食生活と運動を行い外邪の侵入を防ぐこと、及び感染源の遮断であり、これらはが現在に至るまで揺るがない原則である。『黄帝内経』には最初の推薦中薬は「小金丹」が紹介されている。
 以降の時代、『肘后備急方』、『備急千金要方』、『外台秘要』、『本草綱目』などの数多くの成書に伝染病予防に関する記述がある。その一方、中薬を用いた予防に関する具体的な報告は稀である中で、北宋の政治家・詩人、蘇軾(蘇東坡)が、左遷された湖北省、黄州で用いて民衆を救った「聖散子」について、自ら論述した貴重な経過報告がある。異なった時代の文献比較では、金・唐時代(紀元後3-10世紀)では病的因子の除去(eliminate the pathogenic factors)を意図した薬物の選択が行われ、明・清時代(紀元後14-20世紀)では健脾、祛湿、清熱と解毒(fortify spleen (Pi), resolve dampness, clear heat, and detoxify)を目的とする。

*「小金丹」:「又一法、小金丹方:辰砂二両、水磨雄黄一両、葉子雌黄一両、紫金半両、同入合中、外固了、地一尺築地実、不用炉、不須薬制、用火二十片燬之也、七日終、候冷七日取、次日出合子、埋薬地中七日、取出順日研之三日、煉白紗蜜之丸、如梧桐子大。毎日望東吸日華気一口、氷水下一丸、和気咽之。服十粒、無疫干也。」(『黄帝内経素問』刺法論篇第七十二)は、疫病の伝染を防ぐ方法をお尋ねになった黄帝に対して岐伯がお答え申し上げたくだりである。辰砂(硫化水銀)の使用は水銀中毒の可能性がある。
*「聖散子」:『蘇沈良方』、『太平恵民和剤局方』、『医方類聚』に収載。
論聖散子「普予覽《千金方》三建散,雲於病無所不治。而孫思邈特為著論,謂此方用藥節度,不近人情,至於救急,其驗特異。乃知神物效靈,不拘常制,至理開感,智不能知。今予得聖散子,殆此類也。(後文省略)」(沈括、蘇軾著『蘇沈良方』)
〇聖散子方の組成『蘇沈良方』:草豆蒄、木猪苓、石菖蒲、高良姜、独活、附子、麻黄、厚朴、藁本、芍薬、枳殻、柴胡、沢瀉、白朮、細辛、防風、霍香、半夏、茯苓、甘草
*脾の生理的機能と健脾:
五臓の「脾」(spleen、Pi)は西洋医学的な脾臓とは異なる臓器概念である。脾、および脾と表裏関係にある六腑の胃は、密接な関係で消化系統の重要な臓器をして働くので「脾胃」と総称されることが多い。飲食物から消化吸収した栄養物質や水液を原料として、気血津液が作られ生命活動が維持されるために、脾胃は「気血生化の源」、「後天の本」と呼ばれる。これらの機能が減弱すると食欲不振、倦怠感、腹の膨満感、エネルギーや栄養不良などの全身の気血不足状態が引き起こされる。また飲食物中の余剰の水液を肺や腎に送って汗や尿に変えて体外に排出する機能も「運化水液」とよばれる脾の機能であり、機能低下が起こると水液が体内で停滞し湿毒、痰飲などの病的物質が生じ、頭痛、めまいやむくみの原因となる。

(2)SARS / H1N1インフルエンザ疫学研究における予防(Evidence of CHM formula for preventing SARS / H1N1 influenzae)
SARSの予防に関して症例研究1件(香港の病院従事者16437人)、コホート研究2件(北京2病院の医療関係者3561人、4163人)があり、前者では玉屏風散加減に桑菊飲の服用者群ではSARS感染を認めず(0/1063)、非服用群の感染率は0.4%(64/15347人)であった。なお服用者の0.4%(19/15437)に下痢、咽頭痛、めまいなどの副作用が出現した。後者のコホート研究では、清熱解毒薬を加えた玉屏風散加減の服用期間が各々6日、12~25日、両者ともにSARS感染者の出現なく、服用に伴う副作用や安全性に関しての記述は認めなかった。
 H1N1インフルエンザ予防に関する研究は、中国本土での発生時で病院・学校など高リスクの感染が懸念される環境におけるRCT3件(介入群/対照群の人数は100/100、28/25、27/27)、CCT1件(介入群/対照群の人数は23947/1382)があり、個々に調整された中薬や市販薬(清解防感顆粒、抗病毒口服液、感冒清熱胶嚢)の投与期間は3~7日、追跡期間は5~30日で、効果判定は血清学的診断にて行われた。これらのデータをメタアナリシス解析した結果では、中薬服用群の感染率は対照群より有意に低値を示した(相対危険度0.36、信頼区間0.24-0.52、P<0.01)。CCTを除いた3件で行われた感度分析でも同様の結果が得られた(相対危険度0.36、信頼区間0.21-0.62、P<0.01)。

*症例対照研究(case-control study):観察研究を行う研究手法。すでに疾病ありの群と疾病なしの群の過去を分析し、特定要因の曝露(ここでは中薬投与)を比較調査する後向き研究である。
*コホート研究(cohort study):観察研究を行う研究手法。症例対照研究よりもEBMレベルが高い。曝露(中薬投与)ありの群と曝露なしの群を一定の長期間追跡し、アウトカム(疾病罹患の有無)を比較調査する前向き研究である。
*ランダム化(無作為化)比較試験(randomized controlled trial;RCT):対照群と介入群(中薬が施された群。対照群に比してどれほどの効果があるかを調べる為のグループ)を比較する研究手法。コホート研究よりさらにEBMレベルが高い。効果の検証から主観的評価を除く為に、各群は乱数表などを用いて無作為に割り付ける(randomization)。
*比較臨床試験(controlled clinical trial;CCT):対照群と介入群を比較する研究手法。患者番号などを用いた無作為割付を行っていない。効果の検証に主観的評価が加わる可能性がある。準ランダム化対照試験(non- randomized controlled trial;NRCT)
*メタアナリシス(meta-analysis):独立して過去に行われた複数の臨床研究のデータを統合し統計解析を行う総括的な研究手法。RCTよりさらにEBMレベルが高い。
*感度分析(sensitivity analysis):曝露とアウトカムに関連する他要因を想定し、その要因の為のアウトカムの変動を追跡して研究解析結果の頑健性(robustness)を量的に評価する手法。
*相対危険度(relative risk;RR):曝露要因と疾病との関係の強さを評価する指標。曝露群(中薬服用群)/非曝露群(非中薬服用群)0.36は、中薬服用者は非服用者よりも感染リスクが36%になることを意味する。
*P値(P-value):p<0.01は、99%以上の確率で偶然の産物ではない差異が認められるという表示である。すなわち中薬服用群と非服用群の比較においては、99%の確率でH1N1インフルエンザの発症率に差があるという仮説が正しいと証明される。
*Evidence-based medicine(EBM):最良かつ最新の科学的根拠(エビデンス)に基づく医療

(3)COVID-19に対する各地の予防プログラム
自治区をふくむ31の行政地域の内、23地域の公的機関から出されたCOVID-19予防プログラムの解析では、治法における重要原則は益気固表、疎風泄熱、祛湿(tonify qi to protect and provide defense from external pathogens, disperse wind and discharge heat, and resolve dampness)であり、医学古典の記述およびSARSでの観察結果との類似性が指摘される。23の地域プログラムに含まれる54の生薬の内、3ケ所以上に採用された汎用19生薬は上位より黄耆、甘草、防風、白朮、金銀花、連翹、蒼朮、桔梗、霍香、貫衆、蘇葉、芦根、沙参、陳皮、麦門冬、佩蘭、大青葉、薏苡仁、桑葉で、黄耆(Radix astragali)、白朮(Rhizoma Atractylodis Macrocephalea)、防風(Radix saposhnikoviae)の三味は「玉屏風散」の配合生薬である。「玉屏風散」は近年の研究で抗ウイルス、抗炎症、免疫調節作用があることが報告されている。

*「玉屏風散」:
効能は益気固表止汗。『世医得效方』、『医方類聚』、『丹溪心法』における黄耆、白朮、防風の配合比率は2:2:1である。

*上位汎用6生薬の性味、帰経、効能:
◎黄耆:補気薬(甘・微温、脾・肺経;健脾補中、昇陽挙陥、益衛固表、利尿、托毒生肌、補気行血)
◎甘草:補気薬(甘・平、心・肺・脾・胃経;補脾益気、袪痰止咳、緩急止痛、清熱解毒、調和諸薬)
◎防風 :解表薬(辛・甘・微温、膀胱・肝・脾経;祛風解表、勝湿止痛、止痙、止瀉)
◎白朮 :補気薬(甘・苦・温、脾・胃経;健脾益気、燥湿利尿、止汗、安胎)
◎金銀花:清熱解毒薬(甘・寒、肺・心・胃経;清熱解毒、疎散風熱)
◎連翹:清熱解毒薬(苦・微寒、肺・心・小腸経;清熱解毒、消腫散結、疎散風熱、清心利尿)


中国国家衛生健康委員会発布の「新型冠状病毒感染的診療方案」(最新版は試行第七版、2020年3月3日)に予防プログラムは含まれていない。著者らはその第一理由に「三因制宜」の原則を挙げ、第二は地域レベルで推薦された生薬・処方内容の地域差があり、これらを統べた全国的な確固たるエビデンスを備えた予防プログラムは確立されていないことを指摘する。例えば北部の乾燥地域では養陰作用がある沙参、麦門冬が、湿度の高い南部地域では湿濁を除く芳香化湿の作用がある霍香、佩蘭が加薬されている地域差を挙げる。さらに18の地域プログラムで、年齢や性別、慢性基礎疾患の有無などの違いに対し応用可能な二味かそれ以上の生薬が提示されていること、7の地域プログラムで中医学的体質に基づいた生薬選択が行われていることを踏まえ、各人に合せた最良の予防戦略(tailored prevention strategy)が、予防効果を挙げる為には必須であることを強調する。

*三因制宜:因時・因地・因人制宜、すなわち季節、地域、個人の体質・性別に基づいて予防および治療方法の調整をおこなうこと。

加えて著者らは、長期にわたる薬物使用における安全性を確保する為に、地域の公的機関が発布した医療プログラムに従った医療管理下での処方を選ぶこと、由来不詳あるいは公的な推薦がない処方や生薬を用いることに警鐘を鳴らす。万人が生薬による予防を行うことは推薦せずの言明とともに、医療関係者、家族、その他の患者との接触者、集団発生地域の住民などの高リスク集団において、入手が容易なこれらの生薬を用いた予防プログラムが有意義であると論述する。

さらに本研究の限界として、第1に“pestilence”が古典においては感染経路が多岐にわたる広範囲な概念を含み、必ずしも呼吸器感染症、特に今回のCOVID-19の病態を完全に表すものではないこと、第2にSARS、H1N1インフルエンザにおける過去の研究報告に基づく応用がなされても、COVID-19自体の予防法に関する直接的なエビデンスが現時点では得られていないこと、第3に各地の予防プログラムが、過去の伝染性疾患あるいはCOVID-19流行初期の疾病概念に基づいて各地の熟練の医療者が集団発生後の短期間に下したものであり、今後さらなる臨床応用と改良が必要であることを提示する。考察は以下の結論で締められている。
In conclusion, based on historical records and clinical evidence of SARS and H1N1 influenza prevention, CHM formula could be an alternative approach for the prevention of COVID-19 in high-risk population while waiting for the development of a successful vaccine. Prospective well design population studies are needed to evaluate the preventive effect of CM.


赤壁月 / 月岡芳年「月百姿」/ 81 Moon of the Red Cliffs Sekiheki no tsuki
Stevenson J: Yoshitoshi’s one hundred aspects of the moon, Hotei Publishing, 2001
《前赤壁賦》壬戌之秋、七月既望、蘇子與客泛舟、遊於赤壁之下。










将たる者とは│「六韜」論将篇

2020-03-01 | 日記・エッセイ


混沌の全体像がようやく明らかになり成行きを見極めた後に、事態は当初より予測可能で十分対処し得たと嘯く後出しの結果論が世に溢れる。真に先見の明があったならその折に当機立断な行動に繋げた筈なのだ。火の粉をかぶろうが石を投げられようとも、内に省みて疚(やま)しからずんば、夫れ何をか憂え何をか懼れんである。畢竟、為すべき行動を為せなかったとすれば、誰の所為でもなく、全ておのれの不徳の致すところである。義は勇の相手にして裁断の心なり。道理に任せて決定して猶予せざる心をいふなり。時宜を逸せば、従容として己が慙愧の念を生涯携えてゆく以外、残された節義の道はない。
 中国の兵法書『六韜』(りくとう)に、太公望が武王に御指南申し上げる、将たる者を任命する際に考慮すべき負の条件「十過」及び各々の十過を有する敵将を如何に攻め落とすかという計略のくだりがある。漢字の原意は白川静博士著『字統』、『字通』、『字訓』を参照した。

一 勇而軽死者可暴也(勇にして死を軽んずる者は暴(さら)すべきなり)
命を軽んじ蛮勇の戦をする者は、挑発して暴発させる。
「暴」:原意は骨肉を原野にさらす

二 急而心速者可久也(急にして心速かなる者は久しくすべきなり)
先走りの早合点をする者は、持久戦に持ち込み苛立たせる。
「久」:屍を後ろから木で支える形。

三 貪而好利者可賂也(貪にして利を好む者は賂(まいな)うべきなり)
強欲に利益ばかりを貪る者は、賄賂で抱き込む。
「賂」:元来は賄賂性のものではなく、人に遺贈するもの。

四 仁而不忍人者可労也(仁にして人に忍びざる者は労すべきなり)
周りを労り忖度しすぎる者は、振り回して疲弊させる。
「労」:かがり火を組んだ形。聖火を以て耒(すき)を祓ってから(農具を清める儀式)農耕がはじまる。

五 智而心怯者可窘也(智にして心怯なるもの者は窘(くるし)むべきなり)
知力があるが臆病で決断が下せない者は、策を練り袋小路に追い込む。
「窘」:穴中の狭隘に苦しむこと。

六 信而喜信人速者可誑也(信にして喜んで人を信じる者は誑(あざむ)くべきなり)
頭の中がお花畑である者は、易々と人を信じるのに付け入り嘘偽りの言葉で騙す。

七 廉潔而不愛人者可侮也(廉潔にして人を愛せざる者は侮(あなど)るべきなり
かくあるべしと人を高みから断罪する者は、侮辱して怒らせ分別を失わせる。

八 智而心緩者可襲也(智にして心緩なる者は襲うべきなり)
知力はあるがやるべき行動が鈍い者は、寸暇を置かずに攻撃する。

九 剛毅而自用者可事也(剛毅にして自ら用うる者は事とすべきなり)
自らを恃むあまり人に任せない者は、多事に奔走させて消耗させる。
「事」:もと祭事、のに政事の万般を言う。

十 懦而喜任人者可欺也(懦(じゅ)にして喜んで人に任じる者は欺(あざむ)くべきなり)
自らを恃めずに人に丸投げする者は、意気地がなく臆病なのに付け込み計略にかける。
「欺」:仮面を被って人を劫(おびや)かすこと。