朝から霧雨が降り続く中、飼い犬まるを連れて散歩に出た。尾籠な話になるが、例によって草地でぐるぐると場所捜しが始まった。何度も渦を描いては此処にするのかと思いきや、また唐突に歩き出しては新たな場所を嗅ぎ出す。五回以上の探索の後、遂に満足がゆく地に至り腰を落ち着けて事が終了した。
それを片付けながら却下となった幾つかの叢を振り返った。それぞれの何処が気に入らなかったのか、飼い主の眼には全く判然としない。二つ向こうの候補に上がった叢には小さな蒲公英が咲いていた。少なくとも其処は上にするのを憚って避けた、という筈がない。始末を付けて立ち上がると、本人ならぬ本犬は、早く行こうと言わんばかりの満ち足りた顔で当方を見上げている。例の場所の採択基準が一体何処に力点を置いて構成されているのか、この四月で九年の付き合いになるが未だに何も見えてこない。
さて人間の世界に立ち返り、「わたしのこだわり」などとというものは他人(ひと)から見ればこのような類いなのかもしれない。どや顔で最良の選択だと悦に入るのも、そうではないものを掴んだと消沈するのも、本人が執着する程には端から眺めたら左程の違いはないのである。