花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

忠諫│花便り

2020-10-29 | アート・文化
司馬遷はその後も孜々として書続けた。この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ活きていた。現実の生活では再び開かれることのなくなった彼の口が、魯仲達の舌端を借りて始めて烈々として火を吐くのである。或いは伍子胥となって己が眼を抉らしめ、或いは藺相如となって秦王を叱し、或いは太子丹となって、泣いて荊軻を送った。楚の屈原の憂憤を叙して、その正に汨羅に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦を長々と引用した時、司馬遷にはその賦がどうしても己自身の作品の如き気がして仕方が無かった。

(李陵│中島敦著:「李陵・山月記」, p114, 新潮社, 1969)



学者先生

2020-10-16 | 日記・エッセイ


生涯で初めてお目にかかった学者先生は、京都産業大学名誉教授、宗教哲学者の三谷好憲先生である。御縁を得て十代の頃に友人と二人、様々な英文の御講話を頂く貴重な機会を得た。度の強い眼鏡を装用し御着物で端座なさっていた、長身痩躯の御姿が今もありありと眼に浮かぶ。

御自宅は坂道を登った京都郊外の静謐な一画にあり、御座敷には数多くの洋書や和書が整然と並んでいた。其処には私が育った自宅兼医院の、やたら騒々しい町医者の家とは明らかに違う涼やかな空気が流れていて、学者がお住まいになる御家とはこのようなお家なのだと子供心に響いてくるものがあった。そして夏になれば、御自宅からやや離れた深い木立に囲まれた別所で御講義が行われた。涼風が吹き来る中での豊かな勉学の一時を振り返る時、あたかも十便十宜図に描かれた宜夏のようであったと思うのである。

1992年に御病気で御逝去され、学究の血を受け継がれた御子息の三谷研爾教授がおまとめになった御遺稿集『思索の森へ カントとブーバー』(行路社, 1993)を後に頂戴した。医学の道に入った時に三谷好憲先生に頂いたドイツ語の辞書とともに、御本は私の一生の宝物である。あの頃のやっと襁褓が取れたばかりに過ぎない学生には(そして今もなお進歩がなく慚愧に堪えない)、三谷先生の深い学識と教養はまさに猫に小判状態であった。三谷先生はそのような遥かに至らぬ若輩に対しても、何時も真正面から真摯に向き合って下さった。高潔無比にして清廉潔白、そして溢れるばかりの慈愛に満ちた先生であった。

紫なるもの

2020-10-10 | 日記・エッセイ


切花延命剤を用いた生け花の推移を述べた《紅葉と楓をたずねて│其の九・花の命を見つめる》(2017/9/17)に続く、花の”望診“第二段である。この秋、鳥兜(とりかぶと)、竜胆(りんどう)、紫苑(しおん)と紫色の花々を徹底的に生ける機会を得た。家でも流派の華展においても必ず切花延命剤を用いてきたが、花の姿かたちは衰えないまま、花弁の色が次第に深紫から薄紫に褪せてくることに気付いた。後から咲いた蕾の花弁は、当初から花開いていたものよりさらに一段と淡い紫色を見せている。もっとも切花延命剤を用いたからこそ1週間以上も後の花を見届けることが出来た訳だが、紫色以外の花においては左程退色が見られない。
 紫は古来、高貴な色である。そして人の内なる紫なるものも移ろいやすく、何時しかあるかなしかの色合いに変わりゆく。


秋の月其の六│花便り

2020-10-06 | アート・文化


   八月になりて、二十余日の暁がたの月、いみじくあはれに
   山の方はこぐらく、滝の音も似るものなくのみながめられて
思ひ知る 人に見せばや 山里の 秋の夜ふかき 有明の月
       更級日記 菅原孝標女


秋の月其の四│花便り

2020-10-04 | アート・文化


   例ならずおはしまして、位など去らんと
   おぼしめしける頃、月の明かりけるを御覧じて
心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜はの月かな
       後拾遺和歌集・巻第十五 雑一 三条院御製