花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

「正」と「譎」│其の二・文人画を巡る

2018-01-21 | アート・文化


田能村竹田の画論集『山中人饒舌(さんちゅうじんじょうぜつ)』の中に、池大雅と与謝蕪村を比較した一文、「大雅正而不譎。春星譎而不正。然均是一代作霸之好敵手。」(大雅は正にしてして譎(けつ)ならず。蕪村は譎にして正ならず。然れども均しく是て一代の霸を作すの好敵手なり。)がある。先の『論語』の一節を踏まえた対句である。
 漢文学者、竹谷長二郎著『山中人饒舌訳解』を拝読すれば、「蕪村は俳画的なものや北宗画的なものを描いており、それらは正当な南画からみれば「譎」といえるだろう」との論述があり、竹田が「譎」の評価を下した基準が蕪村の俳画的な要素に対する非難に基づくことが指摘されている。逸格と敬愛する以上に半ば神格化して大雅を崇める眼には、蕪村の様々な画上の工案工夫や諧謔が捨棄放下にあらず、ぶれ多く俳気多い俗気満載の許し難い「はからい」、「さかしら」の臭みと見なされたのである。



以下に順不同に列挙したのは、『十便十宜帖』を愛蔵なさった川端康成の両画帖についての評価を始め、両雄を論じた様々な比較論からの抜粋である。学術論文としての体裁ではない為か、主題の大雅と蕪村についての話だけに止まらず、執筆なさった先哲諸賢の基調あるいは稟賦までもが色濃く滲み出ている様に思える。此処に取り上げた評論は素人の乱読において遭遇したものであって、学問的、系統的な渉猟に基づいてはいない。凡庸卑俗の門外漢の当方にはもとより両巨匠の画を品定めする素養はない。大雅に対する崇拝に満ち溢れた高評価を拝した時は、不可侵の聖なる深淵をはからずも覗き見てしまった感があったのみである。

「大雅が自由な構圖と柔軟な筆致で、ほぼおなじやうな色調に樂しく描いて、小さい畫面に大きいひろがりを見せてゐるのにくらべると、蕪村はいろいろと苦心をし、變化をもとめてゐて、たとえば墨繪もまじへている。大雅と蕪村との南画家としての才能の上下はここでは論じないとしても、すくなくともこの一對の画帖では、大雅がすぐれてゐるという人が多い、殊に今日の文學者にはその説の人が多い。私も同感するのだが、蕪村にも同情したくなる。」
(「口絵解説 九.与謝蕪村「十宜圖」のうち「宜暁」│「川端康成全集 第28巻 随筆3」 ,p474)

「こうした水墨畫系統の畫こそ、蕪村晩年の繪畫の頂點を示すものであり、あたかもそれは「春風馬堤曲」に對應するかのようである。ここにいたって蕪村の繪畫は、はじめて大雅に拮抗することができたといえよう。」
(大雅・蕪村と十便十宜畫冊│「池霞樵 謝春星 十便十宜畫冊・別冊」,p23)
「十便・十宜畫冊を比較するかぎり、蕪村は大雅に一籌を輸するといわざるをえないだろう。しかし本畫冊を以て两者を比較するのは、蕪村にいささか酷である。蕪村の眞價が發揮されるのは、先にも述べたとおり、大體本畫冊製作より七年後の安永七年(一七七八)謝寅の落款を用いるようになった以降だからである。」(同,p28)

「譎とはさきに書いた氣取りを言つたものに違ひない。大雅の天眞に對する蕪村のだてをいつたのであろう。俳諧においては芭蕉、畫においては大雅という格別な人間にくらべられるといふ損な立場に蕪村はゐた。そして、それが文人といふものの位置ともいへるだろう。大雅は文人にして文人を越えてゐた。蕪村はまさに文人らしき文人である。文人の一典型といつてよいだろう。頭がよくて趣味を解し、多藝にして教養に富む。詩と書と畫と、ともによくして、しかもこの一筋を缺く。道が無く禪がないのである。」
(二 文人気質│「無用者の系譜」, p196)

「蕪村は相当工夫して描き、充分その持味を出している。にもかかわらず、大雅の悠揚迫まらぬ「十便図」の前ではやはり見劣りする。しかし先にも述べた通り、蕪村は稀に見る晩成型の画家であり、大雅よりも年長でありながら、この時まだ成長途上にあった。」
(Ⅲ南画の大成 (2)与謝蕪村│「日本の南画」,50-51)

「「気韻妍秀」は書画の風格が華麗に優れていることで、これは蕪村についても誰しも認めるところである。しかし人間性についてはどうだろうか。「習気」はよくない習慣や、身についた癖を言う。それが微塵もないという大雅の人柄の清らかさは、得難い資質である。」
(文人大雅の素顔│「池大雅---中国へのあこがれ」, p21)

「私は蕪村の畫が、これら「はいかい物之草画」に遊ぶことによって、真の自在さに到達し、「夜色楼臺雪萬家圖」「峨嵋露頂圖巻」その他、晩年謝寅時代の比類ない画境が開けたと思われるのである。大雅が詩書画一体の世界を持っているとすれば、蕪村の俳書画一体の世界は、「正」に対して「譎」と言われる。これは必ずしも貶して言うわけでなく、好敵手としての特色をきわだたせた評語であろう。私はこれを、「雅」に対して「俳」と言えば、さらに明確なのではないかと思う。」
(蕪村の畫と徘意│「蕪村画譜」, p10)

「つまり、徂徠から宣長に流れた古典読解の思想、字義や解釈を頼ってその意味を知るよりも、我が身にとつての味はひを大切にし、それを信じる精神に、蕪村も深く同調していたと言へよう。
 そして翻つて見るならば、かうした蕪村の精神は、漢詩の訳に限つたことでなく、中国伝来の文人画を、親しみ深い日本の文人画に翻訳しようと努めてゐたことにも通じるであらう。蕪村の絵が大雅のそれに比べて、「俳諧の気味」があると言はれて久しいのであるが、それは蕪村の意識して努めた所であつて、さう言はれても、彼は一言も弁解はしないであらう。」

(蕪村画の魅力│「蕪村画譜」, p212-213)

「翁(茶山翁)又云ふ大雅より蕪村画ハ上手なり。蕪村にハ毎度葛陂先生の宅に而出会すされ共翁も其時ハ少年にて事を慢り遂に壱度も挨拶もせずして過す残念なる事也。」
(屠赤瑣々録巻三│大分県先哲叢書「田能村竹田 資料集 著述篇」, p120)



元祖の文人とは経書経学を中心に学問を修めて人文的教養を身に付けた士大夫(したいふ)であり、高尚な人徳を有する知識人が俗世の栄利聞達とは別の処に優游自得の世界を創り、詩書画三位一体の風雅から生みだした作品が文人画(士大夫画)である。国を全うするか破るか、治国平天下が問われる「遊方之内」(世俗の規範の枠内に生きる)の世界に対し、文人や文人芸術が目指すのは、研ぎ澄ました美意識を携えて世俗を超越した「遊方之外」の世界の確立である。
 規矩準縄を越えて放縦不拘とは紙一重の磊落豪邁に生きる「The自由人」というものを蒸留すれば、単離、精製されてくるものは何だろう。『荘子』大宗師篇、第六に、「而已反其眞、而我猶為人猗。」(而(なんじ)は已に其の真に反る、而して我れは猶お人たりと。)と歌い顔色も変えない有様に、彼等を「茫然彷徨乎塵垢之外、逍遥乎无為之業」(茫然として塵垢の外に彷徨し、無為の業に逍遥す。)と孔子が語ったくだりがある。「正」、「譎」を分かつ縄墨規矩の此岸を離れ、風流、風雅の類さえ超絶し、雅俗の境さえ定かでない風狂の域に至るなら、それこそが真に純化された「正」やもしれない。言うまでもなく凡俗が到れる境涯ではない。

参考資料:
竹谷長二郎著、大越雅子改訂:「田能村竹田 画論『山中人饒舌』訳解」, 笠間書院, 2013
川端康成著:「川端康成全集 第28巻 随筆3」, 新潮社, 1982
サントリー美術館編:没後30年「川端康成---文豪が愛した美の世界」展図録, 2002
吉澤忠, 神田喜一郎, 古原宏伸著:「池霞樵 謝春星 十便十宜畫冊・別冊」, 筑摩書房, 1970
唐木順三著:「無用者の系譜」, 筑摩書房, 1960
武田光一著:世界美術双書008「日本の南画」, 東信堂, 2000
小林忠監修:「池大雅---中国へのあこがれ」, 求龍堂, 2011
山本健吉, 早川聞多著:「蕪村画譜」, 毎日新聞社, 1984
大分県先哲叢書「田能村竹田 資料集 著述篇」, 大分県教育委員会, 1992
金谷治訳註:岩波文庫「荘子 第二冊」, 岩波書店, 1975
金谷治訳註:ワイド版 岩波文庫「論語」, 岩波書店, 2001


タクシーに乗れば

2018-01-16 | 日記・エッセイ


学会旅行で各地を訪れた時は必ずタクシーを利用する。何処の運転手さんもガイドブックなど比較にならない程の情報通で、現地の歴史、穴場や流行から個人的な武勇伝に至るまで、四方山話を聞かせて頂けるからである。もっとも運転手さんの中には、お尋ねしてもぶっきら棒な一言しか帰して下さらない御方もある。そのような時はひたすら運転のお邪魔にならぬよう、後部席で医師ならぬ石地蔵になる。 

昨年、岡崎の京都国立博物館からの帰りに乗せて頂いた時の運転手さんは、乗車するお客さんは色々であるから普段から様々な分野の情報や知識を取り入れるべく努めているとおっしゃっていた。私の場合、日常診療の中で患者さんと交わす話は医療・医学関連の話がもっぱらである。だがお逢いする御方々は多岐に渡る経歴や人生経験をお持ちであり、接遇に際してこちらにもそれ相応の “仕込み”の下地が必要であると思うことは多い。

そのタクシーの中では紅葉狩から観梅に話題が飛び、紀内侍の鶯宿梅(おうしゅくばい)の故事を教えて頂いた。最後に掲げたのがその「勅なれば」の歌である。また丁度ハナミズキの街路樹の横を過ぎた時に、乃木希典大将に捧げたマッカーサー元帥お手植えのハナミズキの話を申し上げたら、また次へと会話が進み、あっという間に車は京都駅に着いた。載せて頂いた運転手さん達は今日もまた、それぞれのホームグラウンドをお元気に走っておられるに違いない。

内より、人の家に侍りける紅梅をほらせ給ひけるに、鴬の巣くひて侍りければ、家あるじの女、まづかく奏せさせ侍ける
勅なればいともかしこし鴬の宿はと問はばいかがこたへむ
かく奏せさせければほらずなりにけり (拾遺和歌集 雑下)


小田野直武│城野隆著「風狂の空」

2018-01-13 | アート・文化


小田野直武(武助)は、江戸中期における「秋田蘭画」の中核を成した秋田藩士である。西洋画(阿蘭陀絵)の先覚者でもあった多芸多才の平賀源内を師と仰ぎ、身分を越えて秋田藩主佐竹曙山(義敦)とともに絵画の技法を学ぶ。源内の導きで江戸へ出た後、『解体新書』附図の精妙な版下絵を担当して希代の翻訳書刊行に多大な貢献をした。『解体新書』序図篇の末尾には、『風狂の空』では源内が作った文とされる、おのれの画力を謙遜した慎ましやかな武助の跋文が掲載されている。
 そうして前途洋々であった筈の武助は、余儀なく政争の渦に巻き込まれてゆく。やがて源内が起こした刃傷事件に連動して国元への遠慮謹慎を申し渡され、その翌年、三十歳の若さで夭折した。志半ばでさらに究めんとした絵の道を断たれ、迎えた最期はむざんやなの唯一言に尽きる。《2018年NHK正月時代劇「風雲児たち~蘭学革命篇~」》に登場する武助(演じた俳優さんは加藤諒)はひたすら明朗、質朴な人物像で、江戸での希望に満ち溢れていた日々の姿が描かれている。私にはそれが、小田野直武に対する何よりの手向けの香華に感じられた。

「わしの目に狂いはなかった。いや、わしの予想などはるかに超えた才をそなたは示してくれた」
「それもこれも先生のおかげです。角館で先生に会うてなければと思うと------。何やら運命のようなものを感じます」
「人の出会いとはそんなものじゃろう。わしにとっても田沼様や藍水先生、玄白さんらとの出会いが大きかった」
宙間に視線を漂わせながら、源内は微笑を浮かべている。
「ただのう武助、運命は無為徒食の輩にはやって来ぬ。己が道を必死になって模索し、切り開いていこうとする者にのみに開かれる。そなたもその下地があったからこその運命-----。今後もその気持ちを忘れずに精進するのじゃ」
(「風狂の空」, p.428)

この後、捕縛するために踏み込んで来た役人の足音を聞いて、非常の人、源内は覚悟を決める。追い縋る武助に向かい、最後の頼みだ、去れと叫ぶ。「絵を、よき絵を描けよっ」が、別れ行く愛弟子への餞の言葉となった。そして、武助がふたたび師にまみえる日は二度と訪れなかった。



我が友人杉田玄白譯する所の解體新書成る。予をして之が圖を寫さしむ。夫れ紅毛之画や至れるかな。余の如き不佞は敢て企(つまだ)ち及ぶ所に非ず。然りと雖も又、圖(えが)くべからずと云はば、怨み朋友に及ばん。嗚呼、怨みを同袍に買はんよりは、寧(むし)ろ臭を千載に流さんか。四方の君子、幸いに之を怨せよ。 東羽秋田藩 小田野直武



参考資料:
城野隆著:祥伝社文庫「風狂の空 天才絵師・小田野直武」, 祥伝社, 2015
小川鼎三監修, 大鳥蘭三郎校注:「解体新書 覆刻版」, 講談社, 1973
広瀬秀雄, 中山茂, 小川鼎三校注:日本思想大系65「洋学・下」, 岩波書店, 1972
小林忠著:「江戸絵画史論」, 瑠璃書房, 1983


一滴の油、散じて満池に及ぶ│2018年NHK正月時代劇「風雲児たち~蘭学革命篇~」

2018-01-11 | アート・文化


本邦初の西洋医学書『解体新書』刊行を巡る真摯な苦闘、『ターヘル・アナトミア』の翻訳事業における“蘭学事始”秘話を描いた熱き歴史時代劇である。前人未到の領域に果敢に挑戦した前野良沢、杉田玄白はじめ、偉大な先賢の恩恵を頂くことなくして現代の医療は成り立たない。お蔭を蒙った後世の医師群の末席に連なる者として深く心を揺さぶられた。冒頭には滔々と「このドラマは大河ドラマではなく、よって時代考証は大ざっぱである」という表示が出る。これは笑う所であって笑って終わる所でない。それならば“肝腎”を何処に置いたのか、その眼でしっかり見届けよと観る者に突きつけた果し状であろう。

原作はみなもと太郎(本ドラマの中に版元の男・寛三に扮して御出演)による一連の大河歴史漫画、『風雲児たち』で、脚本は一昨年の大河ドラマ「真田丸」を御担当なさった三谷幸喜である。出演者は前野良沢(片岡愛之助)、杉田玄白(新納慎也)、中川淳庵(村上新悟)、桂川甫周(迫田孝也)、平賀源内(山本耕史)、田沼意次(草刈正雄)をはじめ、「真田丸」で好演なさった多くの俳優さんである。各々の俳優陣の演技には、一見逆張りあるいは一層先鋭化されたようなキャラ設定の人物像であっても、何処か「真田丸」の懐かしい残り香が漂っている。何よりも諸兄諸姉が配役を心底楽しんで演じておられる様子が伝わって来る。



「帰路は、良沢、淳菴と、翁と、三人同行なり。途中にて語り合しは、扨々(さてさて)今日の実験、一々驚入。且つこれまで心付ざるは恥べき事なり。苟(いやしく)も医の業を以て互に主君主君に仕る身にして、其術の基本とすべき吾人の形態の真形を知らず、今まで一日一日と此業を勤め来りしは面目もなき次第なり。何とぞ、此実験に基づき、大凡(おおよそ)にも身体の真理を弁へて医を為さば、此業を以て天地間に身を立るの申訳もあるべしと、共々嘆息せり。良沢もげに尤千万、同情の事なりと感じぬ。」

上は『蘭学事始』における腑分観臓後の杉田玄白の感慨である。『ターヘル・アナトミア』がいかに御立派に思える本であっても、「照らし合せ見しに」、「拾ひとりてかずかず見しに」という言葉で示される実証主義に基づく検証を経ずして、希代の翻訳作業は開始されなかった。これら先賢の諸医家の原動力となったのは、治療上の大益を得んという使命、かかわる生業における責務、そして真理に対する飽くなき渇仰である。その要があると狙いを定めたら最後、求めて已むことがない姿勢が、各人により表現型が異なっていても、“蘭学事始”において展開する真骨頂である。



翻訳作業の主翼を担いながら『解体新書』の訳者に名がない前野良沢と、刊行を急ぎ主著として名を冠した杉田玄白。天下後代に続く道のために信念を貫くという心は同じであっても、それが故に先駆者として、片や精密微妙の所を明らかにして、片言隻語たりとも蘭語の翻訳に誤謬があっては許されぬという者と、片や先ずは上梓し此の学を海内に伝え、未到達地開拓の人柱とならんという者である。学究肌VS実務肌という皮相な単純図式を越えて、両雄の間に生まれた齟齬や確執は深い。
 ドラマの最終は、新春のドラマらしく齢を重ねた後に涙で抱き合う大団円で締め括られる。寛政四年(1792年)十一月二日、養嗣子の杉田伯玄が養父の鷧斎先生(杉田玄白)六十歳の長寿を祝い、併せて蘭化先生(前野良沢)七十歳を寿ぐための合同賀宴を開いたのは史実である。『解体新書』発刊後、あたかも「永く此れより決(わか)れ、各自(おのがしし)努力せん」の如く相容れぬ道を進まれた両先生が、祝宴で再会なさった時の心底は神のみぞ知るである。ドラマで描かれたクライマックスの感動的な情景は事実ではなかったかもしれない。だが両雄の心に去来したであろう万感の思いの中に、お互いを労わり讃え合う心がなかったと誰が言えるだろう。異質な個性が火花を散らせて絡み合い、さらなる高みに行かんと切磋琢磨した、“蘭学革命”の峻路を共に歩みし者同士でしか共有できない“恩讐の彼方”の境地であったのではないか。人は遠慮も感傷もなく、ただ己が信じる道を歩くのみである。

「人は出合い、そしてまたわかれる。その離合集散の繰り返しが、人と人の歴史をつづってゆく。人は生きる。己にしかない個性をひっさげて。そして時間がまた少し流れる-----」(『風雲児たち~蘭学革命篇~』, p207-208)



私が医学教育を受けた1970~1980年代では、基礎医学に属する解剖学の講義実習は、専門課程に入った三回生で始まった。これも個人情報の守秘義務であるから詳しい記載は控えるが、尊い御身体を献体なさった御方々が静かに横たわっておられた、あの解剖実習室の厳粛な光景は齢を重ねても脳裏から消えることはなく、医師としての原風景となった。
 最後に記すのは、杉田玄白著『形影夜話』の一節である。解剖学は根拠に基づく医療の原点である。

「医は人を医するの業なれば、先ず身体具稟の内外諸物の形質を精究するを第一とすべきなり。」(杉田玄白著『形影夜話』│「洋学・上」, 254-255)
「夫医術の本源は、人身平素の形体、内外の機会(ようす)を精細に知り究るを以て、此の道の大要となす、とかの国に立ればなり。凡そ病を療するに、此に精しからざれば、決して的中の治療はならざるの理なり。」(同, p257)



参考資料:
みなもと太郎著:「風雲児たち~蘭学革命篇~」, リイド社, 2017
小川鼎三監修, 大鳥蘭三郎校注:「解体新書 覆刻版」, 講談社, 1973
片桐一男全訳注:講談社学術文庫「蘭学事始」, 講談社, 2000
吉村昭著:新潮文庫「冬の鷹」, 新潮社, 1976
菊池寛:「菊池寛 短編と戯曲」, 文藝春秋, 1988
片桐一男著:「知の開拓者 杉田玄白---『蘭学事始』とその時代, 勉強出版, 2015
沼田次郎, 松村明, 佐藤昌介校注:日本思想大系64「洋学・上」, 岩波書店, 1972
広瀬秀雄, 中山茂, 小川鼎三校注:日本思想大系65「洋学・下」, 岩波書店, 1972
鳥井裕美子著:「前野良沢 生涯一日のごとく」, 思文閣出版, 2015

戊戌歳を寿ぐ│大和未生流の花

2018-01-07 | アート・文化


今年も新年祝賀会が、須山法香斎御家元、副御家元、次期御家元と一門が賑々しくうち揃い、御来賓の御方々をお迎えして、名勝旧大乗院庭園に隣接する奈良ホテルにおいて開催された。本年は、流派主催の奈良・大阪華展の案内ポスターを一つに纏めた書冊が、新年を寿ぐ一同に下された。巻末には、初代御家元から当代御家元に到る、大和未生流の歴史を刻んだ年表が記されている。宴が果てて帰宅後に、改めて賜った書冊を紐解いてみた。空薫の如く各期の展覧会場に漲っていた、大和未生流が絶ゆることなく目指し続けるいけばなの薫香が、頁を見開いたこの身にくゆりかかる心地がした。
 すでに心新たに本年の通常診療を始めていても、流派の新年祝賀会に出席させて頂いた時に毎年初めて「精神一到何事か成らざらん」という気概が湧いて来る。本日ははや七草の節句である。迎えた平成三十年戊戌歳が、全国津々浦々の皆々様にとりましてどうぞ豊かな年であります様に。


「大和未生流」巻頭頁(平成三十年一月七日発行)

戌年の犬

2018-01-04 | 日記・エッセイ


我家の飼犬まるが初めての戌年を迎えた。生後三ケ月で出会い、本年四月ではや十年になる。「カールのおじさん」の様に口の周りが黒かった子犬はヒゲに白髪が混じる熟年の男になった。カメラを向けると幼少の頃はカメラ目線になってくれたが、年年歳歳写真を撮られるのが嫌になったらしい。大きく開いた口から尖った乳歯を見せた三ケ月の頃は無邪気に正面から撮らせてくれた。ところが九歳になった昨年度の右の写真など、やや斜めの視線のままでまた撮るのかよと言わんばかりである。普段は全く陽気で元気な犬であるが、カメラを向けるたびに笑顔が消える。ともかく早く終わらせろという風情が露骨で、終わればそそくさとその場から立ち去ってゆく。
 まさに光陰矢の如し。家に迎えた時から「苦しきことのみ多かりき」という思いだけは決してさせたつもりはないが、こればかりは本犬と会話が出来たならば何と言うだろうか。戌年の本年、愛犬の写真で飾られた年賀状を沢山頂いた。大切になさっておられるということはその犬の表情を見ればわかる。カメラを意識しない時の最近の笑顔をお見せ出来ないのがまことに残念であるが、私も此処に本年の記念として写真を残しておこう。

宝船いまは漕ぎ出でな

2018-01-03 | 日記・エッセイ


なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな
(永き世の 遠の眠りの みな目覚め 波乗り船の 音の良きかな)

  立つ春の朝(あした)よみける  西行
年暮れぬ 春来べしとは 思ひ寝に まさしく見えて かなふ初夢
            (山家集上 春)

万年如意│戊戌

2018-01-02 | 日記・エッセイ


  延喜御時御屏風に   紀貫之
松をのみ常緑(ときは)と思に世とともにながす泉も緑なりけり
            (拾遺和歌集・巻第五 賀)

  賀屏風、人の家に、松のもとより泉いでたり   紀貫之
松の根にいづる泉の水なればおなじき物をたえじとぞ思
            (拾遺和歌集・巻第十八 雑賀)






謹賀新年│平成三十年戊戌元旦

2018-01-01 | 日記・エッセイ
新年明けましておめでとうございます。
平成三十年の皆々様の御健康と御多幸を心よりお祈り申し上げます。
何卒本年も宜しくお願い申し上げます。



  寛平御時后の宮の歌合によめる   源宗于朝臣
ときはなる松のみどりも春くればいまひとしほの色まさりけり 

              (古今和歌集 巻第一 春歌上)