田能村竹田の画論集『山中人饒舌(さんちゅうじんじょうぜつ)』の中に、池大雅と与謝蕪村を比較した一文、「大雅正而不譎。春星譎而不正。然均是一代作霸之好敵手。」(大雅は正にしてして譎(けつ)ならず。蕪村は譎にして正ならず。然れども均しく是て一代の霸を作すの好敵手なり。)がある。先の『論語』の一節を踏まえた対句である。
漢文学者、竹谷長二郎著『山中人饒舌訳解』を拝読すれば、「蕪村は俳画的なものや北宗画的なものを描いており、それらは正当な南画からみれば「譎」といえるだろう」との論述があり、竹田が「譎」の評価を下した基準が蕪村の俳画的な要素に対する非難に基づくことが指摘されている。逸格と敬愛する以上に半ば神格化して大雅を崇める眼には、蕪村の様々な画上の工案工夫や諧謔が捨棄放下にあらず、ぶれ多く俳気多い俗気満載の許し難い「はからい」、「さかしら」の臭みと見なされたのである。
以下に順不同に列挙したのは、『十便十宜帖』を愛蔵なさった川端康成の両画帖についての評価を始め、両雄を論じた様々な比較論からの抜粋である。学術論文としての体裁ではない為か、主題の大雅と蕪村についての話だけに止まらず、執筆なさった先哲諸賢の基調あるいは稟賦までもが色濃く滲み出ている様に思える。此処に取り上げた評論は素人の乱読において遭遇したものであって、学問的、系統的な渉猟に基づいてはいない。凡庸卑俗の門外漢の当方にはもとより両巨匠の画を品定めする素養はない。大雅に対する崇拝に満ち溢れた高評価を拝した時は、不可侵の聖なる深淵をはからずも覗き見てしまった感があったのみである。
「大雅が自由な構圖と柔軟な筆致で、ほぼおなじやうな色調に樂しく描いて、小さい畫面に大きいひろがりを見せてゐるのにくらべると、蕪村はいろいろと苦心をし、變化をもとめてゐて、たとえば墨繪もまじへている。大雅と蕪村との南画家としての才能の上下はここでは論じないとしても、すくなくともこの一對の画帖では、大雅がすぐれてゐるという人が多い、殊に今日の文學者にはその説の人が多い。私も同感するのだが、蕪村にも同情したくなる。」
(「口絵解説 九.与謝蕪村「十宜圖」のうち「宜暁」│「川端康成全集 第28巻 随筆3」 ,p474)
「こうした水墨畫系統の畫こそ、蕪村晩年の繪畫の頂點を示すものであり、あたかもそれは「春風馬堤曲」に對應するかのようである。ここにいたって蕪村の繪畫は、はじめて大雅に拮抗することができたといえよう。」
(大雅・蕪村と十便十宜畫冊│「池霞樵 謝春星 十便十宜畫冊・別冊」,p23)
「十便・十宜畫冊を比較するかぎり、蕪村は大雅に一籌を輸するといわざるをえないだろう。しかし本畫冊を以て两者を比較するのは、蕪村にいささか酷である。蕪村の眞價が發揮されるのは、先にも述べたとおり、大體本畫冊製作より七年後の安永七年(一七七八)謝寅の落款を用いるようになった以降だからである。」(同,p28)
「譎とはさきに書いた氣取りを言つたものに違ひない。大雅の天眞に對する蕪村のだてをいつたのであろう。俳諧においては芭蕉、畫においては大雅という格別な人間にくらべられるといふ損な立場に蕪村はゐた。そして、それが文人といふものの位置ともいへるだろう。大雅は文人にして文人を越えてゐた。蕪村はまさに文人らしき文人である。文人の一典型といつてよいだろう。頭がよくて趣味を解し、多藝にして教養に富む。詩と書と畫と、ともによくして、しかもこの一筋を缺く。道が無く禪がないのである。」
(二 文人気質│「無用者の系譜」, p196)
「蕪村は相当工夫して描き、充分その持味を出している。にもかかわらず、大雅の悠揚迫まらぬ「十便図」の前ではやはり見劣りする。しかし先にも述べた通り、蕪村は稀に見る晩成型の画家であり、大雅よりも年長でありながら、この時まだ成長途上にあった。」
(Ⅲ南画の大成 (2)与謝蕪村│「日本の南画」,50-51)
「「気韻妍秀」は書画の風格が華麗に優れていることで、これは蕪村についても誰しも認めるところである。しかし人間性についてはどうだろうか。「習気」はよくない習慣や、身についた癖を言う。それが微塵もないという大雅の人柄の清らかさは、得難い資質である。」
(文人大雅の素顔│「池大雅---中国へのあこがれ」, p21)
「私は蕪村の畫が、これら「はいかい物之草画」に遊ぶことによって、真の自在さに到達し、「夜色楼臺雪萬家圖」「峨嵋露頂圖巻」その他、晩年謝寅時代の比類ない画境が開けたと思われるのである。大雅が詩書画一体の世界を持っているとすれば、蕪村の俳書画一体の世界は、「正」に対して「譎」と言われる。これは必ずしも貶して言うわけでなく、好敵手としての特色をきわだたせた評語であろう。私はこれを、「雅」に対して「俳」と言えば、さらに明確なのではないかと思う。」
(蕪村の畫と徘意│「蕪村画譜」, p10)
「つまり、徂徠から宣長に流れた古典読解の思想、字義や解釈を頼ってその意味を知るよりも、我が身にとつての味はひを大切にし、それを信じる精神に、蕪村も深く同調していたと言へよう。
そして翻つて見るならば、かうした蕪村の精神は、漢詩の訳に限つたことでなく、中国伝来の文人画を、親しみ深い日本の文人画に翻訳しようと努めてゐたことにも通じるであらう。蕪村の絵が大雅のそれに比べて、「俳諧の気味」があると言はれて久しいのであるが、それは蕪村の意識して努めた所であつて、さう言はれても、彼は一言も弁解はしないであらう。」
(蕪村画の魅力│「蕪村画譜」, p212-213)
「翁(茶山翁)又云ふ大雅より蕪村画ハ上手なり。蕪村にハ毎度葛陂先生の宅に而出会すされ共翁も其時ハ少年にて事を慢り遂に壱度も挨拶もせずして過す残念なる事也。」
(屠赤瑣々録巻三│大分県先哲叢書「田能村竹田 資料集 著述篇」, p120)
元祖の文人とは経書経学を中心に学問を修めて人文的教養を身に付けた士大夫(したいふ)であり、高尚な人徳を有する知識人が俗世の栄利聞達とは別の処に優游自得の世界を創り、詩書画三位一体の風雅から生みだした作品が文人画(士大夫画)である。国を全うするか破るか、治国平天下が問われる「遊方之内」(世俗の規範の枠内に生きる)の世界に対し、文人や文人芸術が目指すのは、研ぎ澄ました美意識を携えて世俗を超越した「遊方之外」の世界の確立である。
規矩準縄を越えて放縦不拘とは紙一重の磊落豪邁に生きる「The自由人」というものを蒸留すれば、単離、精製されてくるものは何だろう。『荘子』大宗師篇、第六に、「而已反其眞、而我猶為人猗。」(而(なんじ)は已に其の真に反る、而して我れは猶お人たりと。)と歌い顔色も変えない有様に、彼等を「茫然彷徨乎塵垢之外、逍遥乎无為之業」(茫然として塵垢の外に彷徨し、無為の業に逍遥す。)と孔子が語ったくだりがある。「正」、「譎」を分かつ縄墨規矩の此岸を離れ、風流、風雅の類さえ超絶し、雅俗の境さえ定かでない風狂の域に至るなら、それこそが真に純化された「正」やもしれない。言うまでもなく凡俗が到れる境涯ではない。
参考資料:
竹谷長二郎著、大越雅子改訂:「田能村竹田 画論『山中人饒舌』訳解」, 笠間書院, 2013
川端康成著:「川端康成全集 第28巻 随筆3」, 新潮社, 1982
サントリー美術館編:没後30年「川端康成---文豪が愛した美の世界」展図録, 2002
吉澤忠, 神田喜一郎, 古原宏伸著:「池霞樵 謝春星 十便十宜畫冊・別冊」, 筑摩書房, 1970
唐木順三著:「無用者の系譜」, 筑摩書房, 1960
武田光一著:世界美術双書008「日本の南画」, 東信堂, 2000
小林忠監修:「池大雅---中国へのあこがれ」, 求龍堂, 2011
山本健吉, 早川聞多著:「蕪村画譜」, 毎日新聞社, 1984
大分県先哲叢書「田能村竹田 資料集 著述篇」, 大分県教育委員会, 1992
金谷治訳註:岩波文庫「荘子 第二冊」, 岩波書店, 1975
金谷治訳註:ワイド版 岩波文庫「論語」, 岩波書店, 2001