花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

川舟│花便り

2020-07-30 | アート・文化
 不意に何か言う船頭の声が聞こえて顔を上げると、行く手にも雪が見えるだけであった。舟は巧みに操られ、暗い水面を滑り続ける。行き暮れておぼつかない前途を見る気がしたが、彼女も道を決めたからには止まるわけにはゆかない。自分には墨と筆があればいい、見かけの幸福が何になる、と気色ばんだ。ひとりが何だろう。憂鬱な日には憂鬱を描き、心の弾む日には弾むように描く。そして残りの一生を墨とともに生きてゆくだけであった。

(乙川優三郎著:「冬の標(しるべ)」, p333, 中央公論新社, 2002)




新参者│花便り

2020-07-23 | アート・文化
科学は普遍的であるという主張に反して、科学者の社会的、専門的な地位がしばしば新しい考え方の受け入れに影響を及ぼすのである。革命的な新しい概念の創始者が、自分の学問領域のエリート社会の中で低い地位にあったり、他の領域からの新参者であった場合、その考えは真剣な検討の対象とはまずなりえないだろう。それが真価においてではなく、その創始者の社会的業績によって判断されてしまうからである。しかし、学問を進歩させる独創的な考えに貢献するのは、たいていその学問領域における確立された教義に洗脳されていない部外者か、もしくは他の学問領域から来た新参者である。この事実こそ、新しい考えに対する抵抗ということが科学史の上で常に問題となる原因なのである。

(七章 論理の神話│W. ブロード・N. ウェード著, 牧野賢治訳:「背信の科学者たち」Betrayers of the Truth: Fraud and Deceit in the Halls of Science, p175, 化学同人, 1988)




覚悟│花便り

2020-07-19 | アート・文化
人が知性と名づけたものの中には、立身出世への計算や、世間体への見栄や、周囲の人間への配慮などがたくさん含まれている。そういうものがいっさい心に浮かばなくなったとき、はじめて、ああこれが純粋の思いなのかと思い知ることができるわけだ。ほんとうの知性とは、いわゆる知性で抑えられぬ心を知るときにきびしく極まる一種の覚悟ではないだろうか。

(道成寺│岡部伊都子著:「能つれづれ こころの花」, p56, 檜書店, 1999)




凛│花便り

2020-07-18 | アート・文化
 やはり人生の季節を大切にひとつひとつ重ねてこられた人たちは、創るものも素敵であるが、一人の人間としても魅了される人たちでもある。幸福には大きい幸福と小さい幸福があるように思う。良い年をとってゆくと言うことは、小さい幸福を次々と積み重ねていくことのようである。
 
(凛とした女たち(前書・稲越功一)│稲越功一 撮り下ろし「平成の女たち」, p10, 世界文化社, 1996)




新蝉

2020-07-14 | アート・文化


若いころ美濃にいたときのことである。木蔭で蝉がカラから抜け出そうしていた。頭が出て手足も出ているが、左の羽だけがカラにくっついて離れない。私はかわいそうに思って、離してやろうと指の爪でさわった。ところが、私の指がさわったところは、ちぢかんでしまって羽が広がらず、とうとう自由に飛ぶことができなかった。これを見て、慚愧の汗をかいたことがあった。今、そのことを深く思うのである。
(中略)
ところが、今どきの老師さまは、ご親切にも、手を取り足を取って教えるように、いろいろ理屈を説明し、そなたの悟りは、まさしく我が悟りとひとつものだ、などといって、冬瓜(とうがん)の判子を捺したような安証明書を発行するのである。そんなものは禅の宗旨とはほど遠いものだ。修行者を愛するようでいて、大いに害しているのだ。そして、修行者はそれが毒であることも知らずに、人をたぶらかす狐の涎を、尻尾をふって喜んでなめるのだ。かくして、一生どっちつかずの、悟りきれぬ者になってしまうのだ。

予曾在濃陽日、於陰僻處、見新蝉離㲉、頭首漸出、手脚次第脱、末後左翼貼㲉者二三分、滞著不能蛻。予不忍棄去、爪其皮㲉放之。可悲、予所添力、拳縮不舒、飛揚為之不快。予則漸汗滿肌而已。於此深概念。
(中略) 
可惜、大好善知識乍起婦仁之心、恣婆禪之情、終提攜教諭説種種道理、推智解窠臼、拽情量窟宅、乃以冬瓜印子、一印印定云、你亦如是、我亦如是。能護持焉。嗟、其護持任你護持、如何命根不斷、祖庭猶隔天涯。是如甚愛之、而其實害之。學人不知毒、舐許多狐涎、搖尾歡喜、掉頭踊曜。終成一生半醒半醉底道人。佛手亦不能醫他矣。
(「荊叢毒蘂 乾」, p984-988)

参考資料:
芳澤勝弘訳注:臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念刊行「荊叢毒蘂 乾」, 禅文化研究所, 2015

之を望むに木鶏に似たり│花便り

2020-07-10 | アート・文化
紀渻子(きせいし)、周の宣王の為に闘鷄を養へり。 十日にして問ふ、 鷄闘はしむ可きや、と。曰く、未だし。方(まさ)に虚驕(きょけう)して気を恃む、と。 十日にして又問ふ。曰く、未だし。猶ほ影響に應ず、と。 十日にして又問ふ。曰く、未だし。猶ほ疾視(しつし)して気を盛んにす、と。十日にして又問ふ。曰く、幾(ちか)し。鷄鳴く者有りと雖も、己變なし。 之を望むに木鷄(ぼくけい)に似たり。 其の徳全(まつた)し。異鷄敢て應ずる者無く、反り走らんのみ、と。

紀渻子が周の宣王のために闘鶏を飼っていた。十日程した時に宣王が、「鶏は闘わせることができるようになったか」と尋ねた。すると紀渻子は、「まだでございます。今や、から元気を張って気負い立っております」と答えた。それから十日程たって又尋ねると、「まだでございます。まだ相手の姿を見、声を聞いただけで、ふるい立ちます」という。それから十日程経って又尋ねると、「まだでございます。まだ相手をにらみつけて気合を入れます」という。それから十日程経って又尋ねると、「ほとんどよろしゅうございます。鶏の鳴くやつがいても、自分は平気でおります。遠くから見ますと、木彫りの鶏のように見えます。完全にでき上りました。外の鶏は向かって来ようとするものもなくて、もと来た方へ逃げ返ってしまうばかりでしょう」と答えた。

(黄帝第二 第二十章│小林信明著:新釈漢文大系「列子」, p125-126, 明治書院, 1967)
(外篇 達生篇 第十九│金谷治訳注:「荘子」第三冊 [外篇・雑篇], p54-55、岩波書店, 2012)






令和二年の夏に│入谷朝顔市

2020-07-08 | 日記・エッセイ


  建暦元年七月、洪水天に漫(はびこ)り、土民愁嘆
  せむことを思ひて、ひとり本尊に向ひたてまつり
  いささか祈念を致して曰く
時により 過ぐれば民の 嘆きなり 八大龍王 雨やめたまへ
       金塊和歌集・雑  源実朝

測定不可能なもの│花便り

2020-07-05 | アート・文化


 西洋と東洋という二つの社会の発展の仕方の差異は、基準に対する態度の差異に対応している。西洋社会では、基準 measure(測定)に基づく科学や技術の発展が主として強調されてきた。これに対して、東洋社会では、どのような基準にも適合しない測定不可能 immeasurableなものに対して究極的な注意を向ける宗教や哲学が主に強調されてきた。
 この問題を注意深く考察するならば、東洋では根本的実在が測定不可能なものと考えられたのは、ある意味で正しかったということがわかる。というのは、基準は、人間によって形成された洞察だからである。実在は、人間の理解力を超えており、人間に先立つものであり、基準から独立なものである。しかし実在と同様に、基準が人間に先立って存在しており人間から独立していると誤って考えてしまうと、人間の洞察を「客観化」してしまうことになる。それによって、人間の洞察は、厳密で変更できないものとされ、やがては断片化や混乱がはじまる。


(PART1・B 西洋と東洋の全体性に対する洞察│デヴィッド・ボーム著, 佐野正博訳:「断片と全体」Fragmentation and Wholeness by David Bohm, p55-56, 工作舎, 1985)






遠心力と求心力│花便り

2020-07-04 | アート・文化
 文明には遠心力と求心力がある。
 文明のもつ遠心力とは、文明が伝播し交流する力である。いっぽう、文明には遠心作用のあと、かならずある中心に集中する求心作用がおこる。それが都市である。
 疫病にも遠心力と求心力がある。
 疫病のもつ遠心力とは、疫病が伝播し交流する力である。いっぽう、疫病には遠心作用のあと、かならずある中心つまり都市に集中する求心作用がおこる。
 疫病流行という現象は、都市災害というかたちをとる。疫病の流行史はしたがって、国とか地方というより、都市の名前によって語られる。そして、その都市の名前は、かならずその時代の文明世界の繁栄中心の都市である。


(Part3/近代の街で│立川昭二著「神の手 人の手 逆光の医学史」, p204-205, 人文書院, 1995)